土岐頼忠

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土岐頼忠
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 元亨3年(1323年
死没 応永4年8月11日1397年9月2日
別名 頼世、池田六郎(通称)、刑部少輔入道
戒名 正庵真兼
墓所 岐阜県揖斐郡池田町禅蔵寺
官位 美濃守、刑部少輔
幕府 室町幕府美濃守護
主君 足利義満
氏族 土岐氏
父母 実父:土岐頼清(頼宗)、
養父:土岐頼貞(祖父)
兄弟 頼康、明智頼兼、頼雄、康貞、直氏、
頼忠
京極氏の娘
光忠(月海)、頼益、頼兼、西郷頼音[1]、鷲巣之康、植村光兼、頼錦、光忠、田原頼郷、大桑頼名[2]、徳山貞長、娘(鷹司冬基室)
土岐頼忠一族の墓(岐阜県揖斐郡池田町願成寺 禅蔵寺)

土岐 頼忠(とき よりただ)は、南北朝時代から室町時代武将守護大名美濃守護。土岐頼清こと頼宗(初代美濃守護土岐頼貞の子)の六男。頼康、明智頼兼、頼雄、康貞、直氏の弟。妻は京極氏の娘。子に頼益など。は頼世、通称は刑部少輔入道とも。官位は美濃守、刑部少輔

生涯[編集]

父頼清が早世したために、祖父の土岐頼貞の養子となった。

長兄頼康の存命時には美濃池田郡を拠点として兄を支えていたが、兄が死んで後を継いだ甥の美濃・伊勢守護土岐康行室町幕府3代将軍足利義満の挑発に乗って挙兵すると、頼忠は幕府軍に味方して次男の頼益と共に康行の討伐に向かった。元中7年/明徳元年(1390年)に康行は敗れて没落、美濃・伊勢守護職は取り上げられた(土岐康行の乱)。

義満は土岐氏の断絶も考えたが、雲渓支山のとりなしで思い留まり、頼忠を美濃守護職に任じた。義満は頼忠に雲渓支山へ御礼として在所を寄進するよう命じ、頼忠は美濃玉村保を寄進したという。以後、頼忠の土岐西池田家が土岐氏の主流となった。しかし、西池田家が惣領にとって代わったことには土岐庶流諸氏から反発が多く、頼忠は関ヶ原周辺に勢力を持つ国人の富島氏を守護代として重用している。

守護に就任した時点で高齢であり、応永2年(1395年)頃に守護職を頼益に譲り、2年後に死去した。享年75。

法名は正庵真兼。墓所は岐阜県揖斐郡池田町禅蔵寺

脚註[編集]

  1. ^ 三河西郷氏の祖。
  2. ^ 佐良木光俊の父で、土岐成頼の祖父とする(『土岐系図』)。

参考文献[編集]