土橋守重
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土橋 守重(つちばし もりしげ、? - 天正10年1月23日(1582年2月15日))は、戦国時代の武将。雑賀衆の一人。土橋重隆の子。平次。若太夫。「守重」で広く知られるが、文書で確認できる諱は「胤継」。粟村城主。弟(子とも)に土橋重治。
土橋氏は紀伊国を代表する国人で、右大臣源顕房の後裔と伝えている。『姓氏家系大辞典』では、顕房の後裔山城守房重の子平次大夫重平は仁平年間(1151~54)に越前国大野郡土橋の里に移住し土橋をし、嘉応元年(1169)の後白河法皇の熊野御幸に供奉し大和守に任じられ、承安二年(1172)越前より移住し、重平の子時平は後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した。明徳三年(1392)、時平九代の孫という若大夫重春は伊都郡学文路に蟄居し、重春の子重村は管領細川氏に仕え、重村の子重勝は両細川氏の乱における桂川の戦いで重隆の兄である嫡男重胤とともに戦死した。このように土橋氏は雑賀衆の中でも大きな地位を占めながら、根来衆の当主にも一族を送り込むなど、かなりの勢力を有した。はじめ、雑賀鈴木氏と共に石山本願寺に協力して、織田信長と敵対、三好氏に援軍を送るなどしたが、天正5年(1577年)3月に鈴木氏と共に信長に降伏した。しかし、織田氏への敵対姿勢を完全には崩さなかった土橋氏と、比較的織田氏に恭順的であった鈴木氏との間で確執が発生し、鈴木氏との勢力争いに発展、天正10年(1582年)1月23日に鈴木重秀によって守重は謀殺された。この殺害には土橋一門の名前も連なっており、単純に鈴木氏と土橋氏の確執という問題と共に、土橋一族内での内紛の要素や、織田氏による反織田勢力の駆逐計画も絡んでいたとされる。また、土橋氏の菩提寺が浄土宗西山派寺院である安楽寺であったことも明らかになっており、浄土宗を信じる土橋氏は一時期紀伊に亡命していた将軍足利義昭に呼応する形で宗派の異なる浄土真宗の雑賀鈴木氏と手を結んで戦っていたとする説もあり、本願寺と織田氏の間で和解の動きが出ると、本願寺の意向に従って戦ってきた鈴木氏と義昭の意向に従って戦ってきた土橋氏の間で意見の対立が生じたとする考えもある[1]。
本能寺の変が発生すると、織田氏の支援を受けられなくなった鈴木氏は長宗我部氏・根来衆らの支援を受けた土橋勢に反撃されて紀伊を追われ、小牧・長久手の戦いを経て、天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州征伐まで土橋氏が雑賀衆の主導権を握ることとなる。
脚注[編集]
- ^ 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」(大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 P309-310・319
参考文献[編集]
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