地附山

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地附山
城山公園から撮影した地附山.jpg
城山公園から望む
標高 733 m
所在地 日本の旗 日本
長野県長野市
位置 北緯36度40分37.8秒
東経138度11分10.3秒
座標: 北緯36度40分37.8秒 東経138度11分10.3秒
地附山の位置(日本内)
地附山
地附山 (日本)
地附山の位置(長野県内)
地附山
地附山 (長野県)
Project.svg プロジェクト 山
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地附山(ぢづきやま)は長野県長野市の北西側にある標高は733 m。裾花凝灰岩[1]で形成される山で、風化により凝灰岩が変質し粘土質鉱物のモンモリロナイトと呼ばれるものになり、粘土質鉱物が災害の際のすべり層となった。

歴史[編集]

観光開発[編集]

1960年昭和35年)6月、観光都市を目指した長野市は、五か年計画による観光開発案を策定した。これは、善光寺を観光の中心にし、その周辺の大峰山・地附山・飯綱高原一帯を観光地に開発しようとするものだった。

地元資金によって設立された長野国際観光株式会社は、地附山を中心に観光開発に取り組み、1961年(昭和36年)春の善光寺御開帳と長野産業文化博覧会に合わせ、雲上殿近くから地附山頂まで善光寺ロープウェイが設置され、3月に運転を開始した。当時ゴンドラは県下では初めてで、雲上台駅の駅舎は鉄筋で食堂もあり、その規模も全国一と言われた。

山頂には、食堂・遊園地動物園スキー場・観光リフトがあり、雲上台駅東側には6ホールをもつゴルフ場の開発、市街地を見下ろす大展望浴場をもつ善光寺ヘルスセンターが開館し、当時はとても賑わっていた。

しかし、1964年(昭和39年)8月有料道路戸隠バードライン(戸隠有料道路)が完成、地附山側に上松料金所が設置された。これにより地附山が通過点となってしまい、地附山観光は低迷していった。1971年(昭和46年)に長野国際観光株式会社は閉鎖し、ロープウェイは市開発公社に移譲されたが、1974年(昭和49年)4月に運休、1975年(昭和50年)10月に廃止となる。

地すべり災害[編集]

Mount Jizuki 1976.jpg CCB851Z-C1-5 Mount Jizuki.jpg
1976年頃の地附山(左)と1985年地すべり災害直後の地附山(右)
バードラインが寸断されていることが見て取れる
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

1985年(昭和60年)7月20日頃から木の根が切れる音や、戸隠バードラインでの亀裂、斜面の小崩落などの前兆現象があり、行政による監視体制が続いていたが、7月26日午後5時ごろ、大轟音とともに大規模な地すべりが発生。南東側の斜面が幅約450 m、長さ約350 mに渡って削り取られたようになった。移動した土砂は500万 m3ともいわれている。

地すべりにより、斜面にあった戸隠バードラインは寸断(以降、復旧は断念された)。老人ホーム「松寿荘」の一部建物が押しつぶされ、多数の死者を出した。戸隠バードラインの建設と地すべり発生の因果関係は、1997年平成9年)6月に長野地方裁判所は「県の戸隠有料道路の管理上の瑕疵(かし)が地すべりの原因になった」という判決を下している。なお、田中康夫長野県知事(当時)により建設計画が中止され、その後再び計画が進められている浅川ダムは、同じ地附山の北東側に位置し、地すべりの懸念が建設反対派の根拠のひとつになっている。

長野県警は災害警備本部を設置。消防などと連携し、27日には土砂に埋もれた松寿荘から19人が救出される。山のふもとにある長野市立湯谷小学校は、土砂が押し寄せた湯谷団地や家が全半壊した住民らの避難所となり、全国レベルを誇った児童合唱部が被災者の心を癒した。校内の敷地にある「支えられて」のモニュメントは、災害時の教訓を後世に伝えるために設置された。

1986年(昭和61年)の警察白書によると、最終的な死者は26人、負傷者は14人、全半壊家屋60棟。動員した警察官はのべ7000人。車両はのべ1100台が投入された。

災害の直後、日本航空123便墜落事故が発生したせいか、8月中旬以降は報道も縮小。それでも、しばらく山肌は削り取られたままの姿を残していて、植林などが進んだ今でこそわかりにくくはなっているが、今でも長野市民に土砂災害のすさまじさを伝え続けている。

この災害の際に全国から1億4,529万7,912円の義援金が集まったが、長野市地域広域行政事務組合の施設である松寿荘再建を目的に、5,000万円の義援金を長野市地域広域行政事務組合に配分した。さらに長野市地域広域行政事務組合へ1,461万1,709円の義援金が集まり、長野市地域広域行政事務組合が取得した[2]

地学的知見[編集]

地附山の山頂南側の小川累層と呼ばれる斜面が地すべりを起こしたもので、中新世後紀から洪積世初期の堆積岩と火砕岩類からなり、上から畑山砂質泥岩層(300m)、裾花凝灰岩層(700-800m)、浅川泥岩層(300m)と呼ばれている(括弧内は現場付近での推定される厚み)。地すべりを起こした土砂には、表土層もあるが多くは流紋岩質凝灰角礫岩の粘土化したものである。水分を多量に含みグリス状に粘土化し軟弱となった層が、上に乗る土砂の重みに耐えられなくなり地すべりを起こしている。経験則から見れば、現場付近には明治以降の地すべり痕跡もあり、古い地すべり箇所が再度地すべりを起こした典型的な例である。同じ裾花凝灰岩層地域では、他に茶臼山の地すべりも知られている。

防災メモリアル地附山公園[編集]

防災メモリアル地附山公園
防災メモリアル地附山公園
分類 風致公園
所在地
面積 6.3ha
開園 2004年(平成16年)10月23日
運営者 特定非営利活動法人長野市環境緑化協力会(指定管理者)
設備・遊具 展望台(2箇所)、ローラー滑り台(4基)、アスレチック広場、ちびっこ広場
駐車場 あり(75台)
公式サイト 防災メモリアル地附山公園(長野市公式サイト)
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防災メモリアル地附山公園(ぼうさいメモリアルじづきやまこうえん)は、長野市上松の地すべり跡地のうち6.3haを利用して整備された公園風致公園)。2004年(平成16年)秋に開園した。

園内には地附山観測センター(地すべり資料館)や、集水井・集水路などの抑制工があり、地すべり災害とその対策について学ぶことができる。また、長野市街地から志賀高原まで見渡せる展望台のほか、ローラー滑り台やアスレティックなどの遊具がある。

夜間と冬期(11月23日4月1日)は閉鎖される。



その他[編集]

  • 地附山東側には、1557年弘治3年)に武田軍が造ったとされる桝形城跡がある。
  • 地附山前方後円墳がある。

脚注[編集]

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  1. ^ 長野県の地学 > 裾花凝灰岩(長野市) - 長野県理化学会 地学部会(更新日不明/2017年4月4日閲覧)
  2. ^ 『真夏の大崩落 長野市地附山地すべり災害の記録』(編集 長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会、発行 長野市・塚田佐)参照

出典[編集]

関連項目[編集]