堅田就政

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堅田就政
時代 江戸時代前期
生誕 慶長19年(1614年
死没 延宝2年10月17日[1]1674年11月14日
改名 虎丸(幼名[1]→正忠[1]→就政[1]
別名 通称:弥十郎[1]
官途名:主膳[1]、伊勢[1]、安房[1]
墓所 堅田家墓所(山口県周南市湯野
主君 毛利輝元秀就綱広
氏族 清和源氏義光流粟屋氏庶流堅田氏
父母 父:堅田元慶[1]、母:益田元祥の娘[1]
兄弟 就政、女(毛利元法室)
正室:四条隆術の娘[1]
後室:兼松九右衛門入道自休の娘[1]
虎千代[1]、孫六[1]、伊勢松丸[1]
国司広通(国司元貞養子?)[1]
女(就門室)[1]、女(益田就朋室)[1]
養子:就門毛利元法の三男)[1]

堅田 就政(かただ なりまさ)は、江戸時代初期の武士毛利氏家臣で長州藩士。家格は寄組筆頭。湯野領主堅田家の第2代当主。

生涯[編集]

慶長19年(1614年)、堅田元慶の嫡男として江戸で生まれる。

父が病床についた元和6年(1620年)にわずか7歳で元服元和8年(1622年)に父が死去すると、翌年の元和9年(1623年1月19日に父・元慶の知行と家督を相続し、証人(人質)としての生活を終えて周防国へ帰国する。

寛永2年(1625年8月13日、就政が幼少であることを理由として、6500石余の知行の内の約2000石が毛利秀就の預りとなり、周防国都濃郡湯野村戸田村莇地村長門国大津郡日置村の合計4500石[2]に減転封となった。

慶安4年(1651年)に毛利秀就が死去し、嫡男の毛利綱広が跡を継ぐと、長州藩の財政再建のために国司就正の後継として当職となった。同時に当役には椙杜就幸(椙杜元縁の子)が任じられた。就政は藩士の生活環境の向上に努め、万治3年(1660年)には当役榎本就時とともに財政再建のために減知されていた藩士の所領を戻し、その上で収入の25%を上納させて負担の軽減を図った。また諸士法度三十三ヶ条を始め、寺社、町方、郡中の法230条を含む万治制法を制定。非常用金の備蓄も行い、長州藩の財政再建に尽くした。

延宝2年10月17日1674年11月14日)死去[1]。享年61[1]右田毛利家当主・毛利元法の三男である就門が養嗣子となって家督を相続した。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 田村哲夫編修 1980, p. 112.
  2. ^ 内訳は、周防国都濃郡の湯野村1467石4斗6升6合、戸田村2163石5斗4升7合、莇地村291石2斗8升8合、長門国大津郡日置村577石6斗9升9合。

参考文献[編集]

関連項目[編集]