塩谷教綱

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塩谷教綱
時代 室町時代
生誕 応永13年1月7日1406年1月26日
死没 長禄2年5月8日1458年6月18日[1]
別名 綱家[2]、塩谷彦右衛門尉[3]
戒名 蓮乗院殿秀英浄阿大居士
墓所 長興寺
官位 従五位下駿河守民部大輔
氏族 塩谷氏
父母 父:塩谷秋綱
隆綱[4]

塩谷 教綱(しおのや のりつな)は、下野国塩谷郡の武将。

略歴[編集]

下野国塩谷郡の国人領主、居城を川崎城とする塩谷秋綱の子として生まれる。応永30年(1423年)8月9日、主君である宇都宮持綱を狩猟に誘い、自国領である幸岡(幸賀・こうか、現栃木県矢板市大字幸岡)の地で殺害する[5]。これは、宇都宮氏の家督相続の政争に敗れた教綱が、これを恨み、当時宇都宮持綱と対立していた鎌倉公方足利持氏と通じて起こした謀反であった。

この事件以降、宇都宮氏塩谷氏は対立する。教綱は、事件の後、宇都宮氏の居城である宇都宮城を勢力下においた[6]が、永享10年(1438年)に宇都宮城を宇都宮等綱に奪還され、教綱の後ろ盾であった足利持氏が足利将軍家の家督相続争いに敗れ、永享11年(1439年)2月10日に永享の乱に敗れて自害し、鎌倉公方が事実上滅亡すると教綱の勢いは衰退していく。

康正2年(1456年)、足利持氏の子成氏が宇都宮城を包囲して落城させると、宇都宮等綱が宇都宮城から落ち延び、その子明綱が成氏の擁立により宇都宮氏の家督を継ぐと、宇都宮氏は成氏方となり、教綱の勢いも再び盛り返したかのように見えたが、長禄2年(1458年)5月8日、宇都宮氏の計略により宇都宮城に入ったところを襲われ、殺害される[7]。この時、宇都宮等綱は、奥州白河にいて存命しており、反成氏方として暗躍、またこの年(あるいは前年の長禄元年(1457年))、成氏と対立する室町幕府が、新たな関東公方として足利政知を下向させており、これらの勢力の連携による計略により、暗殺されたものと考えられている。

享年53[8]

教綱の家督相続の時期について[編集]

教綱が宇都宮持綱を殺害したのは、18歳(数え年。以降も同じ)の時であるが、この時、父の秋綱は34歳、祖父の光綱も53歳で健在であり、殺害の当事者は教綱であった事は間違いないが、家督を継いでいたものとは考え難く、主謀は、父の秋綱、あるいは祖父の光綱であったと考えられている。家督を継いだ時期については、少なくとも祖父の光綱が没する文安5年(1448年)3月28日以降、秋綱が没する享徳2年(1453年)4月11日以前の事だと考えられているが、具体的には特定出来ない。[9]

脚注[編集]

  1. ^ 『川崎塩谷伯耆守実録』、塩谷氏の家臣である大沢氏の記録『大沢家記』等では、没日を5月13日と記す。
  2. ^ 喜連川塩谷系譜、塩谷朝秀の条。
  3. ^ 『大沢家記』
  4. ^ 秋田塩谷系譜に基づく。但し、系譜によっては隆綱の名が見えないものもある。
  5. ^ 『川崎塩谷伯耆守実録』や『大沢家記』などの記録によれば、文安3年(1443年)8月3日(『大沢家記』では8月13日)に持綱が塩谷領に攻めてきて敗れ、幸岡で自害したと記しているが、持綱の没年について、宇都宮氏の系図を始めとして応永30年としており、文安3年とする一級資料は見当たらない。
  6. ^ 益子氏の系図に、益子勝秀が『塩谷一族数年闘戦、永享十年塩谷敗而等綱十九歳之時令帰城干宇都宮(塩谷一族と数年戦い、永享10年(1438年)に塩谷一族が敗れて、等綱が宇都宮城に帰った。)』と記されている事から、それまでの宇都宮城が塩谷教綱の影響下に入っていたと考えられている。しかし、直接支配したのか、足利持氏が、宇都宮持綱の死後に宇都宮家の家督を継がせた宇都宮家綱(宇都宮伊予守)を城主として、その後見となっていたのかについては確証は無い。但し、喜連川塩谷系譜には『宇都宮城ヲ綱家(教綱)令居住(宇都宮城を綱家が領し居住する)』と記されている事から、直接支配していた可能性の方が高いと考えられている。
  7. ^ 『川崎塩谷伯耆守実録』や『大沢家記』等では、宇都宮城ではなく、宇都宮城から帰る途中の5月13日に、氏家で襲われて殺害されたとする。但し、塩谷氏の系図では『宇都宮城内客死』と記し、教綱の没日を5月8日としている。
  8. ^ 秋田塩谷系譜では、教綱の享年を52としているが、系図では、生年を応永13年(1406年)、没年を長禄2年(1458年)と記しており、数え年では53歳(当時は数え年が主流)であり、52とする享年は、計算違いか誤記であると考えられている。
  9. ^ 但し、系図によっては、光綱が存在していないものもある。但し、光綱の存在がない系図の場合、塩谷氏が途中で断絶してしまう事になるため、そうした史実はなく、これらの系図についての信憑性は低いと考えられている。

参考資料[編集]

  • 『矢板市史』
  • 『ふるさと矢板のあゆみ』
  • 『喜連川町史』
  • 『氏家町史』
  • 『塩谷町史』