多田帯刀

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多田 帯刀(ただ たてわき、天保2年5月26日1831年7月5日) - 文久2年11月16日1863年1月5日[1])は江戸時代末期(幕末)の金閣寺の寺侍。

母は村山たか(可寿江)。父は金閣寺の住職・北澗承学で、後に代官の多田源左衛門(一郎)の養子となる[1][2]。通称は常太郎[2]

母・たか(可寿江)が長野主膳の妾となると、帯刀もそれに従う。安政の大獄において、主膳の密命を受け、母と共に勤王派の公家や志士たちの動向を探り、それを幕府に伝えた[3]。そのため、勤王の志士たちに母と共に狙われた。文久2年(1862年)11月14日の夜、たかが楢崎八十槌・小畑孫三郎・河野万寿弥・依岡権吉・千屋寅之助らの土佐藩士・長州藩士20名ほどに捕縛され、生き晒しにされた。

同時に帯刀も潜伏先を襲撃されたが不在であったため、志士が家主に「明日の晩に三条大橋の所まで連れてこい。連れてこなければお前の命は無いものと覚悟せよ」と脅すと、家主はそれに従い、翌15日夜に帯刀を三條大橋まで連れてきた[4]

志士たちは幕吏の目を恐れ、また御所の近くで血を流すのは恐れ多いとして、帯刀を蹴上(粟田口刑場)まで連れて行き、安政の大獄のことを詰問すると、恐れをなして逐一白状した。そのため斬り捨てではなく手拭いで目隠しをされ、小畑孫三郎が斬首にあたった。しかし小畑は一刀で首を刎ねられず、いったんは観念した多田が狼狽して大いに暴れたため、数人がかりで押さえつけ、別の志士により首がねじ切られた。その後、髷を木の枝に結び付けられ、梟首された。また、その近辺に「島田左兵衛・加納繁三郎・長野主膳らと奸計を働かせ、安政の大獄の際に志士の書状を渡辺金三郎(京都町奉行所与力)に渡るようにし、志士たちを捕縛させた」などの罪状を述べた斬奸状が立てられた[5]

戒名は宗心院因応縁了居士[2]。墓所は京都市左京区の金福寺にある[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『幕末維新大人名事典(下)』p.65
  2. ^ a b c 『明治維新人名辞典』p.592
  3. ^ 『明治維新人名辞典』p.593
  4. ^ 『幕末史の研究』p.303-305
  5. ^ 『幕末史の研究』p.305
  6. ^ 『幕末維新大人名事典(下)』p.66

参考文献[編集]

  • 井野辺茂雄幕末史の研究』(雄山閣、1927年)
  • 『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)p.592-593
  • 『幕末維新大人名事典(下)』(新人物往来社、2010年)p.65-66、明田鉄男著の項。