多賀城

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多賀城
宮城県
多賀城政庁 正殿跡
多賀城政庁 正殿跡
城郭構造 古代城柵
築城主 大野東人
築城年 神亀元年(724年
廃城年 不明
遺構 政庁跡など
指定文化財 国の特別史跡「多賀城跡 附 寺跡」
位置 北緯38度18分24秒 東経140度59分18秒 / 北緯38.30667度 東経140.98833度 / 38.30667; 140.98833 (多賀城)座標: 北緯38度18分24秒 東経140度59分18秒 / 北緯38.30667度 東経140.98833度 / 38.30667; 140.98833 (多賀城)
地図
多賀城の位置(宮城県内)
多賀城
多賀城
東北地方の主な城柵
画像外部リンク
多賀城市の文化財 > 歴史サロン > 歴史の風[1]
多賀城市の古地形

多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。

奈良時代から平安時代陸奥国府鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった[2]。なお、周辺はかつて「の世界」[3][4]が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず[5]、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている[6]

概要[編集]

奈良平城京律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊[7][注 1]および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波[8]被災[注 2]まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる[9]。なお、多賀城の「」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載[6]

多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定される。この国府のほか鎮守府が置かれ[注 3]政庁や食料貯蔵用の倉などを設け、附属寺院が築かれていた。霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川・賀美・色麻・富田玉造・志太・長岡新田小田・牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵・不明の1柵[注 4])を設置、これらは養老4年(720)、石背国石城国陸奥国に三分された陸奥国をふたたび統合し、多賀城という新国府の建設により、弱体化した陸奥国の支配強化を図った[12]。これにより、奈良時代の日本では平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

多賀城跡とその周辺の調査が昭和36年(1961)から開始され[13]、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、築地塀(ついじべい)や柵木列をめぐらせた政庁域が確認された。その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲んだ区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石柱穴が多数確認され、正殿と考えられた[14]。政庁の南東方向に「多賀城廃寺」(北緯38度17分58秒 東経140度59分53.5秒 / 北緯38.29944度 東経140.998194度 / 38.29944; 140.998194 (多賀城廃寺跡)[注 5]、政庁正殿の北側には延喜式内社多賀神社(六月坂)がある。

多賀城政庁東門跡(北緯38度18分36秒 東経140度59分29.3秒 / 北緯38.31000度 東経140.991472度 / 38.31000; 140.991472 (多賀城政庁東門跡))に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮(いちのみや)鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する[注 6]。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、砂押川の水上交通と東山道の陸上交通が交差する土地として繁栄した。

1966年4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定された[15]。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡、館前遺跡(北緯38度18分4.5秒 東経140度59分34.5秒 / 北緯38.301250度 東経140.992917度 / 38.301250; 140.992917 (館前遺跡))、柏木遺跡(北緯38度17分41秒 東経141度2分20秒 / 北緯38.29472度 東経141.03889度 / 38.29472; 141.03889 (柏木遺跡))、山王遺跡(北緯38度17分59秒 東経140度58分43.5秒 / 北緯38.29972度 東経140.978750度 / 38.29972; 140.978750 (山王遺跡))などを含む範囲が追加指定されている[16]

歴史[編集]

  • 神亀元年(724)- 大野東人によって創建される(多賀城碑)。
  • 天平9年(737)- 『続日本紀』に北方を固める「天平五柵」とともに「多賀柵」として初出。天平五柵とは、石巻平野から大崎平野にかけて造営された牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵の四柵と不明の一柵(伊東信雄は第五の柵に小田郡中山柵[17]を充てた[18])。
  • 天平宝字6年(762)- 藤原朝狩によって大規模に修造される(多賀城碑[19])。
  • 宝亀11年(780)- 伊治呰麻呂の乱で焼失した後に、再建された事が書かれている[要説明]
  • 延暦21年(802)- 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に変わったと考えられる。
  • 貞観11年(869)- 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、地震被害とともに城下は津波によって被災し、溺死者を千人ばかり出している(『日本三代実録』)。この後、「多賀国府」として復興[6]
  • 11世紀前半頃 かろうじて維持された国府政庁は、11世紀後半には政庁隣接地に平場(ひらば)を設けると政庁に代わる宴会儀礼の場を整備し、国府中枢としての機能は大きく変質する[20]
  • 11世紀後半 前九年の役後三年の役においても軍事的拠点として機能し、承徳元年(1097)にも陸奥国府が焼失。
  • 養和元年(1181)- 陸奥国府および「高用名」[注 7]を拠点とする勢力は平泉藤原秀郷陸奥守として迎え入れ、八幡館(末の松山)および開発低湿地[注 8]に拠点を置く陸奥介らの勢力と袂別(けつべつ)する。前者の多賀国府の勢力は文治5年(1189)奥州合戦および大河兼任の乱で没落していったが、後者すなわち八幡館を拠点とする陸奥介は鎌倉幕府から地頭職を得て、鎌倉に屋地を得るまでになる[21]。八幡荘は鎌倉将軍家を本所とする関東御領として存続した可能性が強い[22]
  • 永仁7年(1299)- 2月朔日、大檀那介(おおだんなのすけ)平景綱が奥州末松山八幡宮に鐘を奉納している[24]
  • 南北朝時代には、後醍醐天皇率いる建武政府において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、ここに東北地方および北関東を支配する東北地方の新政府、陸奥将軍府が誕生。
  • 昭和36年(1961)- 多賀城跡とその周辺の調査が始まる[25]
  • 昭和41年(1966)- 4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定される[26]
  • 平成28年(2016)- 特別史跡指定から50年を迎える[25]

アクセス[編集]

周辺[編集]

脚注[編集]

[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 『日本三代実録』ではその被災状況を「城郭倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆」とし、其の数を知らずとする。また「屋仆(おくふ)圧死」する者が出たことは記されるが、圧死者数に関して言及はない。
  2. ^ 『日本三代実録』ではその被災状況を「海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝洄漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉」とする。
  3. ^ 平成28年(2016)には、鎮守府の存在を裏付ける初めての考古資料として「府符」銘の木簡が出土している[10]
  4. ^ 第五の柵は中山柵[11]
  5. ^ 旧称「高崎廃寺」、城下の山王遺跡の発掘調査では「観音寺」の墨書土器が出土している。
  6. ^ 末の松山、沖の井(沖の石)、浮島、おもわくの橋などがある。
  7. ^ 国府用に由来。南宮荘・岩切村・村岡村ほか。
  8. ^ 陸奥介らは八幡荘・中野郷・萩薗郷・蒲生郷を私領化。その多くは津波被災地。

出典[編集]

  1. ^ 多賀城市の文化財 > 歴史サロン > 歴史の風歴史の風(多賀城市)
  2. ^ 『特別史跡多賀城附寺跡(パンフレット)』多賀城市教育委員会、2013年。
  3. ^ 斉藤 1992, pp. 63-65.
  4. ^ 平川 1999, pp. 1-30.
  5. ^ 松本ほか 2013, pp. [要ページ番号].
  6. ^ a b c 相原 2018, pp. 1-53.
  7. ^ 余禄2:古記録にみる大地震 貞観地震(じょうがんじしん)と東日本大震災”. いわて復興偉人伝. 岩手県立図書館. 2021年2月11日閲覧。
  8. ^ 相原ほか 2019a.
  9. ^ 今泉 1999, p. 55.
  10. ^ "「鎮守府」示す木簡出土、宮城 -存在裏付け、多賀城跡-"共同通信、2016年2月4日記事(47NEWS)
  11. ^ 伊東 1957, pp. 1-3.
  12. ^ 今泉 1999, pp. 53-54.
  13. ^ 宮城県教育委員会(編著)『昭和三十六年度多賀城跡発掘調査概報』宮城県教育委員会、1962年。
  14. ^ 宮城県教育委員会 (1964年). “昭和三十八年度多賀城跡發掘調査概報”. 奈良文化財研究所. 2021年2月11日閲覧。
  15. ^ 多賀城跡 附 寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  16. ^ 特別史跡多賀城跡附寺跡」『多賀城市の文化財』多賀城市教育委員会事務局文化財課、多賀城市埋蔵文化財調査センター(編)。
  17. ^ 伊東 1957, pp. 1-2.
  18. ^ 相原ほか 2019.
  19. ^ 今泉 1999, p. 55-多賀城碑
  20. ^ 古川 2011, pp. [要ページ番号].
  21. ^ 三好俊文「八幡荘と治承・寿永の内乱」『市史せんだい』第23巻、仙台市博物館、2013年、 [要ページ番号]
  22. ^ 大石直正「陸奥国の荘園と公領―鳥瞰的考察―」『東北学院大学東北文化研究所紀要』第22号、東北学院大学東北文化研究所、1990年、 [要ページ番号]
  23. ^ 国立国会図書館. “「安永風土記」について知りたい。” (日本語). レファレンス協同データベース. 2021年2月11日閲覧。
  24. ^ 『安永風土記御用書出』[23]
  25. ^ a b 多賀城市. “歴史の風 特別史跡指定50周年特集” (日本語). 多賀城市. 2021年2月11日閲覧。
  26. ^ 多賀城跡 附 寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献[編集]

主な執筆者名の50音順

  • 相原淳一「多賀城と貞観津波」『考古学雑誌』第101巻第1号、日本考古学会、2018年12月、 1-53頁。
  • 相原淳一、谷口宏充、千葉達朗「赤色立体地図・空撮写真からみた城柵官衙遺跡―宮城県石巻市桃生城跡・涌谷町日向館跡とその周辺―」『東北歴史博物館研究紀要』第20巻、東北歴史博物館、2019年。
  • 相原淳一、野口真利江、谷口宏充、千葉達朗「貞観津波堆積層の構造と珪藻分析―宮城県多賀城市山王遺跡東西大路南側溝・山元町熊の作遺跡からの検討―」『東北歴史博物館研究紀要』第20巻、東北歴史博物館、2019年。
  • 伊東信雄「古代史」『宮城県史』1(古代史・中世史)、宮城県史編纂委員会、宮城県史刊行会、仙台、1957年、1-2頁 (コマ番号0043.jp2)。doi:10.11501/2995409全国書誌番号:50004762国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。
  • 今泉隆雄「律令国家と蝦夷」『宮城県の歴史』山川出版社、1999年3月、53-55頁。
  • 斉藤利夫「多賀の入海―湊浜・塩竈津の中世―」『みちのくの都 多賀城・松島』平凡社〈よみがえる中世―7〉、1992年、63-65頁。
  • 平川南「古代地方都市論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第78号、国立歴史民俗博物館、1999年、 1-30頁。
  • 古川一明「都市のかたち 権力と領域」『中世都市研究』第16号、山川出版社、2011年、 [要ページ番号]
  • 松本秀明ほか「仙台平野北部七北田川下流域の潟湖埋積過程と土砂流入時期」『日本地理学会発表要旨』第84号、日本地理学会、2013年、 [要ページ番号]
  • 「城柵」『北海道・東北』1、株式会社ぎょうせい〈考古学の世界〉、1993年4月10日発行、196-198頁。 ISBN 4-324-03415-X。
  • 『仙台・松島と陸前諸街道』8、吉川弘文館〈街道の日本史〉、2004年11月20日。ISBN 4-642-06208-4。
  • 「多賀城」『タイス~ツン』平凡社〈平凡社大百科事典〉、1985年3月25日、192-193頁。

関連項目[編集]