大河内輝剛

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大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日安政元年11月28日) - 1909年明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。墓所は青山霊園。

経歴[編集]

高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1873年(明治6年)上京して慶應義塾に入り、そののち塾監教師となる。

1886年(明治19年)広島師範学校校長に任命され、1892年(明治25年)6月24日に辞職[1]。同年に日本郵船会社へ勤務。近藤廉平の代理として大本営の御用を務める。1896年(明治29年)イギリス、ドイツなどを視察。1902年(明治35年)に衆議院議員に当選(以後当選2回)。1906年歌舞伎座社長となるが、在任中に胃癌のため死去[2]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第2697号、明治25年6月25日。
  2. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.156

参考文献[編集]