大洋デパート火災
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大洋デパート火災 | |
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現場 | 熊本県熊本市(現在の同市中央区)下通一丁目3番10号 |
発生日 |
1973年(昭和48年)11月29日 13時15分 |
類焼面積 | 13500㎡ |
原因 | 不明 |
死者 | 104人 |
負傷者 | 124人 |
大洋デパート火災(たいようデパートかさい)とは、1973年(昭和48年)11月29日13時15分、熊本県熊本市(現在の同市中央区)下通1丁目3番10号の百貨店「大洋デパート」(鉄筋コンクリート造、地下1階、地上9階建、屋上塔屋4階建、延床面積19,074平方メートル)で発生した火災事故である。死者104人、負傷者124人におよぶ被害を出した。日本の百貨店火災としては史上最悪の惨事である。本件火災は、消防法令において既存不適格の防火対象物に対して消防用設備の設置及び技術基準を遡及適用する法令改正が実施されるきっかけとなった。
火災事故の概要[編集]
火災発生当時は隣接する櫻井総本店ビル3階-8階への増築および改装工事をしながら、また、年末に向けての書き入れ時の中での営業だった。出火原因は、タバコの火の不始末か放火か、または改装工事の際の火花なのか、様々な憶測は出たが、現在に至るまで判明していない。
出火場所は、2階から3階の階段の踊り場に置いてあった段ボール箱と言われる。パート店員が階段シャッター前の天井付近に薄い煙を認め店員に連絡、4、5名の店員が駆け付けたが消火ホースは水圧が足りず、粉末消火器は薬剤が放出されず残っていた。1階からバケツ20杯ほど水を運んだが消火に失敗。階段室の防火シャッターの操作ボタンを2回押すとゆるやかに降りたものの、シャッター前に座布団が高く積まれており、引火した。3階は寝具売り場で、大量の可燃物があり火勢が強まった。階段部分が事実上『従業員の通路』と化し、大量の荷物で通路幅が狭くなり避難を困難にした。さらにスプリンクラー設備などの防火設備などが工事中で作動せず、被害を大きくした。避難が始まってまもなく停電したとの証言が多い。燃えだしてから布団類の黒い綿をちぎったようなすすが出て暗くなった。
この火災を消防に通報したのはデパートの従業員ではなく、道路向かいの理髪店の店主であった。デパート側は3階寝具売り場からの知らせで主任が119番にダイヤルしたと証言したが、消防機関にはそのようなデパートからの通報記録はなかった。店内の緊急放送は上司の許可が要るものの、連絡がとれなかった。電話交換手の部屋からは、3階の様子が分かるが、従業員は階段から逃げてしまっていた。結局、デパートから消防に通報されなかった原因としては、大規模な混乱の中で従業員全員が互いに「誰かが通報しただろう」と思い込んでしまった傍観者効果の可能性が指摘されている。
従業員の誘導で従業員60名・客70名ほどが屋上に避難して助かった。はしごで救出された人数は67名。また、増築用の足場を利用して25名が救出された。この火災で3階以上延べ1万3500平方メートルを全焼し、年末に向けての買い出し客や従業員や工事関係者ら104人が死亡し、124人が重軽傷を負った[1]という、日本のビル火災では大阪市の千日デパート火災(1972年5月13日)に次ぐ大惨事となった[注釈 1]。
当時は衛星回線を使ったテレビの全世界中継が始まっており、ヨーロッパで実況放送が放映されていた。
社団法人日本損害保険協会の予防時報 第97号(1974年4月1日)に大洋デパート火災の問題点が指摘されている[2]。
火災後直ちに現場を視察した日本大学の塚本孝一教授は「ごく普通にみる百貨店であるから、こういった事態は他でも起こりうる」としている。
なお、NHKアーカイブスにて大洋デパート火災当時のニュース動画を見ることができる。
被害状況[編集]
救護状況[編集]
大病院へは重傷患者が運ばれ、一番近距離にある国立熊本病院は手術を中止し全ての麻酔器を使用し救急救命処置がとられたが、搬送された6名は全て気道熱傷で死亡が確認された。軽症者は開業医に運ばれた[3]。
死者確認数(熊本県警察本部 12月13日午後5時)[編集]
- 死者実数:103(男30、女73、不明0)
- デパート従業員:51(男10、女41) 客:51(男20、女31) 不明:1(女1)
- 負傷者確認数:126(入院24、帰宅102)
- デパート従業員:79 客:22 その他:25
刑事裁判[編集]
- この事件では1974年に業務上過失致死罪の容疑で当時の経営陣達である山口亀鶴社長、常務取締役B、取締人事部長C、営業部署三課長D、防火管理者に任命されていた営繕課員Eの5人が逮捕・起訴された。このうち、山口社長と常務取締役Bの2人は一審途中で死亡して判決が言い渡されなかった。C、D、Eの3人については一審の熊本地裁が無罪判決を言い渡した。当時の火災事故に対しては安全管理に対して経営陣の責任を問う流れが強まっていたものの、一般の取締役には責任は適用されないとした。これに対して検察側は控訴した。
- 二審福岡高裁は、3人に対して逆転有罪判決を言い渡した。Cは社長に消防訓練をするように進言する義務があったとし、Dは適切な消火を行っていなかった、Eは消防法上の防火管理者に任命されていたことを指摘した。この判決に対して弁護側は上告した。
- 大洋デパート火災の会社の取締役人事部長ら3人に対する刑事責任について、最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)は控訴審判決を破棄自判して5人の裁判官全員一致で無罪と判断した(最一小判平成3年11月14日刑集45巻8号221頁)[5][6][7]。建物の火災の防止については代表取締役が行うべきで、取締役には何かしらの特別な事情が存在しなければ死傷について過失責任は問われないとする最高裁では初めての判断をし、Cに無罪を言い渡した。また、Dについてもシャッターを下ろすなどすれば延焼を抑えられたとしながらも、消火の努力をしていたとし、事後的な判断で有罪とするべきではないとした。また、消防法上の防火管理者には、防火管理に必要な権限が必要だとの初めての判断を示して、営繕課員のまま社長に防火管理者に任命されたEは、消防法上の防火管理者に当たらないとした。最高裁の判断では社長らは業務上過失致死罪が成立するものの、2人は死亡しており、刑事責任はだれも問われなかった。この日の判決までに、17年間という長い裁判の末に一審、二審、最高裁で無罪、逆転有罪、再逆転無罪と判断が揺れるという、異例の裁判だった。
建築基準法・消防法改正[編集]
前年の1972年に発生した千日デパート火災とこの大洋デパート火災を精査した結果、建物がそれぞれ「既存不適格」であったことが判明したため、建築基準法及び消防法の大幅な改正が実施されることとなった。
それまでの百貨店やスーパーマーケットでは窓を設け外部からの救出や脱出の便を図ることが義務化されていたが、(この大洋デパートも含めて)実際には店内のディスプレイで窓の多くが塞がれているなどして救出や消火を困難にしたばかりか、火災時の電気系統の中断から停電を起こした際に現場に外光が殆ど入らなくなり犠牲者を増やす一因となった。一連の法改正では百貨店など商業ビル建築での窓設置の義務化を省く一方で、停電時の非常照明の整備や避難路の確保などが義務化されることとなった。
大洋デパートの概要[編集]
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
![]() 熊本県熊本市(現在の同市中央区)下通1丁目3番10号 |
設立 |
1952年10月10日 (創業は同年6月14日) |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店業 他 |
代表者 | 山口亀鶴(代表取締役社長) |
資本金 | 9800万円 |
売上高 | 120億円(1972年度) |
従業員数 | 男性368名、女性501名。合計869名。 |
特記事項:1973年当時 |
大洋デパートは1952年に創業。火災が起こるまでは「鶴屋百貨店」を凌ぐほど市内随一の百貨店で、当時市民は市街地へ出かけることを「大洋に行く」と言うほどであった[注釈 2]。朝には「朝だ元気で」(八十島稔作詞・飯田信夫作曲)、夕方には「夕焼け小焼け」(中村雨紅作詞・草川信作曲)が大洋デパートから市内一円に向けて放送され、市民に時を告げていた。
1956年6月に行った増築工事で、8階に「大洋文化ホール」を設置した。固定席1,200席のほか、廻り舞台や楽屋、楽屋風呂までを備えた本格的な施設であり、それまで市内にはこの規模の劇場やホールはなかったため、熊本における文化活動の中心として活用された。しかし、売り場拡張のため、1966年(昭和41年)に廃止された[8]。
なお、中国のデパートである大洋百貨とは人的・資本的関係は一切ない。
表記については、「大洋」と「太洋」が混用されていた。慰霊碑には「太洋」が使われている。火災時の屋上看板は「大洋」だったが、マークは丸に「太」だった。
火災発生後[編集]
火災後、大洋デパートの直営店である大洋ショッピングセンター健軍(現マルショクサンリブ健軍店→2016年熊本地震による建物損壊で一時休業したが、2017年8月に改築の上で営業再開)・水前寺(その後マルショクサンリブ水前寺店→2007年2月で閉鎖)・京塚店は閉鎖、大洋デパート八代店・大洋ショッピングセンター新市街店は規模縮小して営業と厳しい環境となったものの、1975年11月16日に防災設備を完備し、ロゴや店名表記(これまでの漢字表記から「TAIYO」に変更)などを変えてイメージを一新して本店を再オープンした。
再オープンにあたり、防火設備を最優先で設置したため、売場面積を縮小。地上8階・地下1階の建物になる。三越との提携を強化してファッションに特化した店舗作りを目指した。また、下通り側アーケード出入り口の1階には慰霊碑が設置された。また1階の下通側には九州第1号店となるマクドナルド熊本大洋店がオープンした。
火災により強度を失ったコンクリート製の店内の柱を補強するため、店内全体の柱は太くなり、買い物客に圧迫感を与える懸念から、柱が鏡張りとなった[注釈 3]。再オープン初日は12万人が訪れて大混雑したものの、火災後のダメージは拭うことが出来ず、翌年に倒産、廃業した。
8F | 食堂街 |
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7F | おもちゃ、学用品、書籍(吉久書店) |
6F | 家具、家電 |
5F | 不明 |
4F | 着物、子供服 |
3F | 紳士服 |
2F | 婦人服 |
1F | おしゃれ小物、アクセサリー、マクドナルド熊本大洋店 |
B1F | 食料品 |
建物のその後と解体[編集]

1979年10月、大洋デパート跡地にユニード資本による百貨店とスーパーの複合商業施設として「熊本城屋」が開業。のち、ダイエーの資本参加により「城屋ダイエー」となり[9]、1995年に「ダイエー熊本下通店」となる[9]。しかし、建物の老朽化に伴い、2014年5月でダイエー熊本下通店はいったん閉店して南栄開発に売却され、建物は8月から解体工事が始まる[9][10][11]。解体直前の2014年7月2日には南栄開発主催で慰霊祭が営まれた[11]。これにより旧大洋デパートの建物は消滅した。
跡地には新たな複合商業施設「COCOSA」が建設され2017年4月27日より営業開始。ダイエーも再出店する予定となっていたが、ダイエー自体が完全なイオングループ子会社となり、その過程で九州からダイエーが全面撤退した事から同店における食品スーパー事業は同じイオングループのマックスバリュ九州(現:イオン九州)が受け持つ事となった[12]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “今月の災害・事故”. 西日本新聞社 (1973年11月29日). 2006年5月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年12月27日閲覧。
- ^ 大洋デパート火災 塚本孝一(日本大学教授)予防時報 第97号(1974年4月1日)社団法人日本損害保険協会
- ^ 『国立熊本病院30周年記念誌』昭和50年
- ^ 大洋デパート大火災事件と県警 熊本県警本部
- ^ 最高裁判所判例検索システム
- ^ 判決原文 (PDF)
- ^ 大洋デパート火災事故上告審判決
- ^ 『熊本県大百科事典』 - 熊本日日新聞社(1982年4月25日発行)
- ^ a b c “熊本市の旧大洋デパート建物解体へ 大火災から40年”. 西日本新聞. (2013年12月1日). オリジナルの2013年11月30日時点におけるアーカイブ。 2013年12月1日閲覧。
- ^ 旧大洋デパート 老朽化で建物取り壊しへ NHK NEWS WEB 2013年11月30日(Web魚拓保存措置)
- ^ a b “旧大洋デパート火災から41年 解体前に熊本市で慰霊祭 「熊本県」”. 西日本新聞社 (2014年7月3日). 2014年7月26日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年7月27日閲覧。
- ^ 店舗名はCOCOSA B1(ココサ・ビーワン)。