大炊御門家信 (江戸時代の公卿)

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大炊御門家信
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大炊御門家信
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政元年6月8日1818年7月10日
死没 明治18年(1885年8月30日
官位 従一位右大臣
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 大炊御門家
父母 父:大炊御門経久、母:不詳
兄弟 経長、経尚、家信、今城経明
松下威久の娘
経宣、師前幾麿、綾小路家政、吉子ら
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大炊御門 家信(おおいのみかど いえこと[1])は、江戸時代後期の公卿右大臣大炊御門経久の三男。官位従一位右大臣大炊御門家27代当主。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三朝に亘り仕えた。

経歴[編集]

大炊御門経久の三男として生まれたが、侍従大炊御門経長・左近衛権中将経尚の兄二人が早世したため、清華家大炊御門家の嫡男となった。文政2年(1819年)に叙爵してから清華家当主として早いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将・左近衛権中将などを歴任、文政11年(1828年)に元服し、天保2年(1831年)には従三位となり公卿に列する。

その後、踏歌節会外弁権中納言を経て、安政元年(1854年)には権大納言に列した。安政5年(1858年)には日米修好通商条約勅許を出すことに反対するため、中山忠能岩倉具視らと共に八十八卿の一人として抗議の列参をし、勅許を阻止した(廷臣八十八卿列参事件)。しかしそれが原因で同年井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」に連座する。文久3年(1863年)に右近衛大将右馬寮御監となる。慶応3年(1867年)に内大臣、さらに右大臣に就任した。

明治元年(1868年)に任職を辞す。以降は政界を引退し、京都西殿町北側で暮らした。子の幾麿侯爵に叙せられた。

年譜[編集]

  • 1822年文政5年)12月21日、従五位下に叙位
  • 1823年(文政6年)8月28日、従五位上に昇叙
  • 1824年(文政7年)
    • 2月13日、正五位下に昇叙
    • 6月4日、侍従に任官
  • 1825年(文政8年)1月25日、従四位下に昇叙。侍従は留任。
  • 1826年(文政9年)3月15日、従四位上に昇叙。侍従は留任。
  • 1827年(文政10年)1月21日、正四位下に昇叙。侍従は留任。
  • 1828年(文政11年)
    • 3月16日、元服し、禁色及び昇殿を聴される。
    • 12月18日、右近衛権少将に転任。
  • 1831年天保2年)
    • 5月19日、左近衛権中将に転任。
    • 6月14日、従三位に昇叙。左近衛権中将は留任。
  • 1833年(天保4年)1月5日、正三位に昇叙。左近衛権中将は留任。
  • 1848年嘉永元年)5月18日、権中納言に転任。
    • 8月28日、従二位に昇叙。権中納言は留任。
  • 1850年(嘉永3年)
    • 5月12日、正二位に昇叙。権中納言は留任。
    • 9月16日、不法乱行の罪により閉門差控。権中納言の官職を止められる。
  • 1854年(嘉永7年)4月5日、権大納言に任官。
  • 1857年 (安政4年)9月30日、安政の大獄に連座し、差扣。
  • 1858年(安政5年)3月12日、廷臣八十八卿列参事件に参画。
  • 1862年文久2年)9月27日、内教坊別当を兼ねる。
  • 1863年(文久3年)
    • 2月17日、敏宮(のちの桂宮)淑子内親王家別当を兼ねる。
    • 12月23日、右近衛大将・右馬寮御監を兼ねる。
  • 1865年元治2年)
    • 1月5日、内教坊別当・敏宮淑子内親王家別当を辞す。
    • 3月15日、参朝停止を解く。
  • 1866年慶応2年)
    • 12月5日、徳川慶喜、征夷大将軍宣下における上卿をつとめる。
    • 12月29日、亮陰伝奏を兼ねる。
  • 1867年(慶応3年)
    • 9月27日、内大臣に転任。右近衛大将の兼任も留任。
    • 10月15日、国事御用掛を兼ねる。
    • 11月30日、右大臣に転任。右近衛大将の兼任も留任。
    • 12月9日、国事御用掛の廃止と共に、参朝停止となる。
  • 1868年(慶応4年)
    • 1月16日、参朝停止を解く。
    • 5月24日、右大臣・右近衛大将を辞す。

※参考=公卿補任、幕末明治重職補任 附諸藩一覧、東京大学史料編纂所データベース

系譜[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』(霞会館発行)による読み方