大石誠之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
おおいし せいのすけ
大石 誠之助
Seinosuke Oishi.jpg
生誕 慶応3年11月4日1867年11月29日) -
紀伊新宮仲之町
(現・和歌山県新宮市
死没 明治44年(1911年1月24日
日本の旗 日本 東京府東京市市ヶ谷刑務所
国籍 日本の旗 日本
職業 医師、コック

大石 誠之助(おおいし せいのすけ、慶応3年11月4日1867年11月29日) - 明治44年(1911年1月24日)は、日本社会主義者キリスト者医師幸徳事件大逆事件)で処刑された12名の1人。雅号は「禄亭」(ろくてい)。

略歴[編集]

紀伊新宮仲之町(現和歌山県新宮市)出身。同志社英学校(現・同志社大学)英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。1892年オレゴン州立大学医科に入学。1895年4月1日オレゴン州立大学卒業。同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月に帰国する。翌1896年新宮町で医院を開業。

1899年伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学。1901年帰国。ムンバイ滞在中、カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。また、アメリカ留学中にコックをしていた[1]ことから、1904年に新宮の町に「太平洋食堂」を開き、自ら料理人として西洋流の食生活を庶民に紹介した。堺利彦が主宰していた『家庭雑誌』に西洋料理に関する記事を寄稿し始め、堺を通じて社会主義思想に興味を持った[1]。社会主義関係の文献を読み始め、幸徳秋水堺利彦らと交流を持ち、自宅には多くの社会主義者やアナキストなどが集った。

1910年幸徳事件(大逆事件)により検挙され、旧知の与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだが、1911年1月18日死刑を宣告され、24日14時23分に大石の死刑が執行された。43歳没。

2018年1月24日、新宮市は、「人権思想や平和思想の基礎を築いた」人物として、名誉市民に認定する[2]

家系[編集]

長兄大石余平の長男は西村伊作。姪孫(坂倉ユリ、伊作の次女)の夫は坂倉準三。次兄玉置酉久の長男は玉置醒(元新宮市議会議長)。酉久の妻の従甥は山本七平

関連書籍[編集]

  • 森長英三郎『禄亭 大石誠之助』岩波書店1977年 ISBN 9784000025584
  • Joseph Cronin (ジョセフ・クローニン) 『The Life of Seinosuke:Dr. Oishi and The High Treason Incident: Second Edition―誠之助の生涯:ドクトル大石と大逆事件 増訂第2版』 White Tiger Press 2014年、入手:編集グループSUREより可能
  • 辻原登『許されざる者』上・下、毎日新聞社2009年、ISBN 978-4-620-10735-6 (上)、978-4-620-10736-3(下)。2007-2009年毎日新聞に連載された小説。主人公の槇隆光が大石誠之助をモデルとしている。

脚注[編集]

[ヘルプ]