大関増栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索
 
大関増栄
時代 江戸時代前期
生誕 寛永16年(1639年
死没 貞享5年6月21日1688年7月18日)/元禄元年12月13日1689年1月4日[1][2]
改名 亀千代(幼名)[1]→増栄
別名 与六郎[1]、主馬[1]
戒名 本源院殿心印元証大居士/心印元証本源院[1]
墓所 栃木県大田原市大雄寺
官位 従五位下信濃[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
下野黒羽藩
氏族 大関氏
父母 父:大関高増、母:分部光信
養父:大関増親
兄弟 増親、増栄、増公、増俊、屋代忠正正室、
村上正尚室、神尾守好室、神谷某室、
浄法寺高政室、金丸資時室、杉原某室
正室:小出吉重[1]
増茂、女子、右衛門[1]伊丹勝守正室(後神保親茂正室)、万治郎[1]

大関 増栄(おおぜき ますなが)は、江戸時代前期の大名下野国黒羽藩5代藩主。

寛永16年(1639年)、3代藩主・大関高増の次男として生まれる[2]

正保3年(1646年)、父の死去を受け兄・増茂が家督を継いだ際、兄より1000石を与えられて交代寄合となる。寛文2年(1662年)4月、増親が嗣子無くして早世するとその養子となり[1]、6月21日[3]に家督を継いだ[2]。7月23日、江戸幕府4代将軍徳川家綱御目見し、父の遺物である延寿国時の刀を献上した[1]

寛文4年(1664年)12月28日、従五位下・信濃守に叙任される[1][2]。寛文11年(1671年)3月28日、大阪加番に任じられた[2]

貞享5年(1688年)6月21日(異説として元禄元年(1689年)12月13日)、江戸藩邸にて死去。享年50。

子の増茂は早世していたため、嫡孫の増恒が跡を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ a b c d e 『大関黒羽家譜』
  3. ^ 大関黒羽家譜では7月23日。

出典[編集]