大阪府立池田高等学校
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大阪府立池田高等学校 | |
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過去の名称 |
大阪府立第十六中学校 大阪府立池田中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 |
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併合学校 | 大阪府立海外商業学校 |
校訓 | 自主・自律・貢献 |
設立年月日 | 1940年 |
創立記念日 | 4月16日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
高校コード | 27103K |
所在地 | 〒563-0022 |
![]() 北緯34度49分12.2秒 東経135度26分54.5秒 / 北緯34.820056度 東経135.448472度座標: 北緯34度49分12.2秒 東経135度26分54.5秒 / 北緯34.820056度 東経135.448472度 | |
外部リンク | 公式サイト |
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大阪府立池田高等学校(おおさかふりつ いけだ こうとうがっこう、英称:Osaka Prefectural Ikeda High School)は大阪府池田市にある公立高等学校。全日制普通科を設置する。通称「池高(いけこう)」。
概要[編集]
池田市東部・箕面市との境界付近に位置する。旧制の大阪府立第十六中学校として1940年(昭和15年)に大阪市天王寺区の仮校舎で開校し、翌1941年(昭和16年)に現在地に移転し大阪府立池田中学校と称した。学制改革により、1948年(昭和23年)に新制高校の大阪府立池田高等学校へ改編されている。
校地は学校関係者によって承風台と名付けられている。承風台の名称は『孔子家語』に由来している。現在地の校地は、別の場所に移転した大阪府立園芸学校(現在の大阪府立園芸高等学校)の跡地でもある。
2年次からは緩やかな文系・理系分けがあり、3年次には3つの類型に分かれる。学校週5日制の実施により、2003年度(平成15年度)からは一部7時限授業も実施されている(現在は7時限授業が週2日)。
校歌は竹中郁作詞、團伊玖磨作曲。同窓会は、校地にちなむ「承風会」。秋に行われている文化祭も「承風祭」と校地の名を冠る。
国際交流も盛んで、2005年(平成17年)にはオーストラリアのオークバンクエリアスクールと姉妹校提携が正式に結ばれた。 文部科学省の「スーパーイングリッシュランゲージハイスクール」(SELHi)の指定も受けた。
沿革[編集]
旧制池田中学校[編集]
大阪府では旧制中学校への入学希望者が増加し入学難の状況が続いてきたが、府は青年学校設置などを優先して中学校の増設を後回しにしてきた。1939年(昭和14年)12月の大阪府会で、入学難を緩和するため18年ぶりに府立中学校を新設することが決定した。
1940年(昭和15年)2月の大阪府告示第269号により、大阪府立第十六中学校の新設が告示された。当初は開設場所を決定できず、当面は大阪市天王寺区大道・旧大阪府立盲学校跡地(現在の大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎付近)に仮校舎を設置することにした。
1940年(昭和15年)に大阪府立第十六中学校が、旧大阪府立盲学校跡地で開校した。同年4月16日に開校式および第1回入学式が実施されている。開校式が開かれた4月16日を創立記念日としている。なお創立記念日は開校当初の名称・第十六中学校の「16」にもかけている。
大阪府立第十六中学校の開校直前には、同地は大阪府立航空学校(現在の大阪府立布施工科高等学校)の仮校舎として使用されていた。航空学校が布施市(現東大阪市西部)八戸ノ里に本校舎を構えたのと入れ替わりで盲学校跡地に入ったことになる。
中学校の設置場所については各地から誘致合戦が起きたが、候補地は池田市と布施市に絞られた。1940年(昭和15年)5月に池田への移転が決定し、翌1941年(昭和16年)3月31日に池田市畑160番地・旧大阪府立園芸学校跡地の現在地に移転した。移転と同時に大阪府立池田中学校へと改称している。
学校創立当時は戦争中だったという時代背景があったため、軍国主義的な教育がおこなわれていた。
戦局の悪化により、生徒は1944年(昭和19年)以降大阪中央郵便局やダイハツ工場などに勤労動員されている。また戦時措置として、校舎の一部が陸軍蛍池飛行隊の兵舎や武器倉庫・食糧営団の食糧備蓄倉庫などとして強制接収された。
1945年(昭和20年)6月7日の第三次大阪大空襲では米軍機の攻撃目標となり、校舎を焼失している。このときに焼失した校舎は、1946年(昭和21年)に再建している。
学制改革[編集]
学制改革により1947年(昭和22年)に新制の併設中学校を過渡的に設置し、旧制中学校2・3年在籍者を新制中学校へと移行した。また1948年(昭和23年)には新制高等学校制度の発足により、大阪府立池田高等学校が発足した。
この際高校1年および併設中学校3年について、大阪府立豊中高等学校(旧制大阪府立豊中中学校)、大阪府立桜塚高等学校(旧制大阪府立豊中高等女学校)、豊中市立高等女学校(新制高等学校に改変されず廃校)と生徒・教職員を交流して男女共学とした。生徒は桜塚高等学校と交流し、その対象者は住所で選ばれ、池田・桜塚の両校ともおおむね石橋以北在住の生徒が池田高等学校に、石橋以南在住の生徒が桜塚高等学校に割り当てられた。桜塚高等学校へ移った男子生徒は168人、桜塚高等学校から池田高等学校に移った女子生徒は252人いた。
校舎火災[編集]
1949年(昭和24年)2月には火災により、1946年(昭和21年)に再建した戦災復興校舎を全焼している。火災の原因は放火とみられるが、犯人は未検挙となった。学校側は早期の校舎再建を訴えたが、大阪府は財政難を理由に「何らかの呼び水がなければなかなか復興を実現できない」などとしていた。
当時の在校生らはマッチ売りのアルバイトをおこない、売上金の約50万円を校舎復興資金として寄付した。また卒業生をはじめ、近隣の豊中・桜塚・園芸・市立池田の各高等学校や地域の各小中学校の関係者、池田市議会、地域住民などが校舎復興資金を寄付している。近隣の府立高校3校(豊中・桜塚・園芸の各校)は合同で池田高校校舎復興支援のバザーを実施し、売上金を校舎復興資金として寄付している。
大阪府は高等学校の増設を優先したいとしていたが、新設校にあてる予定だった予算を池田高等学校復興に回すことにし、1950年(昭和25年)3月に校舎の再建が実現した。
商業科の併設と廃止[編集]
1949年(昭和24年)には、廃校となった大阪府立海外商業学校を継承する形で商業科を併設し、総合制高等学校となった。
大阪府立海外商業学校は1941年(昭和16年)に南方塾として設置された。戦局の拡大で東南アジアに進出する人材の育成を目指し、商業や現地語・現地事情などを教授し、また国民精神高揚を図ることを目的とした。
終戦に伴い1945年(昭和20年)9月に大阪府立南方塾拓殖学校と称し、また1946年(昭和21年)に大阪府立海外商業学校に改編されたが、同年以降新入生募集を中止した。
大阪府立海外商業学校の校舎は翌1947年(昭和22年)より、学制改革に伴って生まれた大阪第二師範学校附属中学校(現・大阪教育大学附属池田中学校)へと転用された。在校生は新制中学校へと移行することになり、新制の師範学校附属中学校2年に編入された。
大阪府立海外商業学校は1949年(昭和24年)に正式に廃校となり、海外商業学校へ入学した生徒は師範学校附属中学校卒業後に池田高等学校商業科として入学することになった。普通科から商業科への転科を希望した生徒も含めて1949年(昭和24年)に商業科が発足したが、わずか1学年・3年間で商業科は廃止されている。
また旧制中学校時代から選択科目として農業科を開講していたが、商業科の廃止と同時の1952年(昭和27年)3月限りで農業科の開講はなくなっている。
校歌制定[編集]
旧制中学校時代には校歌があったが、新制高校への改編の際に時代に合わないとして廃止されていた。そのため1950年代初頭、校歌を制定したいという声があがった。
校歌制定に先立ち、校内で校歌選定委員会を設置して歌詞を募集した。しかし複数の候補作があがったものの採用にいたらず、専門家に候補作を見せて批評してもらうことにした。詩人・竹中郁に講評を依頼したところ、竹中は「どれもしっくりこない。候補作の添削も難しい」などとして自ら作詞したいという意向を示した。校歌制定委員会は竹中の意向を受け入れ、作詞を依頼した。また作曲については、竹中が作曲家・團伊玖磨を紹介し、團に依頼することになった。
1954年(昭和29年)2月23日に校歌制定発表会が実施された。
1960年代・70年代[編集]
1962年(昭和37年)には同年度入学の1年生より、能力別学級編成が実施されることになった[1]。1年生1学期は通常のクラス分けをしながらも、実力テストの成績などによって2学期以降クラス替えをおこない、成績上位者を集めたクラス2学級を編成することにした。学校側は進路指導の推進のためなどとしていた。一方で生徒や一部教職員からは反対や疑問の声があがっていた。
反対の声に押され、1970年(昭和45年)より能力別学級編成およびコース制を廃止することになった。なお文系・理系のクラス分けは後年に復活している。
1968年(昭和43年)には学生運動の影響を受け、池田高校でも学園紛争が発生した。学園紛争の影響で、1969年(昭和44年)には卒業式ボイコットを呼びかける卒業生が現れたり、入学式が中止になるなどの事件が発生している[1]。しかし学園紛争は1969年(昭和44年)後半から次第に生徒への影響力を失い、1970年代初頭には沈静化している。
1970年代初頭には従来の制服制度を標準服制度へと移行することになった。1972年(昭和47年)5月からの試行期間を経て、1973年(昭和48年)1月より標準服制度へと切り替えられている。
年表[編集]
- 1940年4月16日 - 大阪府立第十六中学校として、大阪市天王寺区大道5丁目の大阪府立盲学校跡地で開校。
- 1941年 - 大阪府立池田中学校に改称し、校地を池田市畑160番地の大阪府立園芸学校跡地に移転(現在地)。
- 1944年 - 校地を「承風台」と命名する(「孔子家語」から)。校歌を制定。
- 1945年6月7日 - 大阪大空襲で校舎被災。
- 1948年 - 学制改革に伴い、大阪府立池田高等学校となる。大阪府立豊中中学校(現、大阪府立豊中高等学校)、大阪府立豊中高等女学校(現、大阪府立桜塚高等学校)、豊中市立高等女学校(新制高等学校に改編されずに廃校)と生徒・職員の交流をし、男女共学を実施。
- 1949年2月26日 - 校舎火災により全焼。
- 1949年 - 大阪府立海外商業学校(南方塾)の生徒を収容し、商業科を併設。
- 1952年 - 商業科を廃止。選択授業の農業科を廃止。戦災で焼失の体育館を再建。
- 1954年 - 新校歌を制定。
- 1962年 - 初の鉄筋校舎(生徒急増期対策校舎)が竣工。能力別学級編制スタート。
- 1970年 - 能力別学級編成を中止。
- 1979年 - 文部省の教育課程研究指定校となる(2年間、美術教育)
- 1980年 - 北館校舎が竣工。
- 2005年 - オーストラリアのオークバンクエリアスクールと姉妹校提携。大阪府教育委員会の「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」の指定を受ける。
- 2006年 - 文部科学省の「スーパーイングリッシュランゲージハイスクール」(SELHi)の指定を受ける(2008年度まで)。
学校行事[編集]
- 4月
- 入学式
- 始業式
- オリエンテーション
- 新入生歓迎会
- 5月
- 中間考査
- 遠足:1年生は能勢妙見山へ行くのが恒例となっている。
- 6月
- 体育祭:各学年縦割りでチームカラーを決める。9チーム対抗。
- 7月
- 期末考査
- 球技大会
- 終業式
- 8月
- 始業式
- 9月
- 承風祭:1,2年生の各クラスが展示、喫茶、調理のいずれかを出店。3年生は各クラス演劇を行う。
- 10月
- 中間考査
- オープンスクール
- 11月
- 1年生秋季遠足:各クラスで行き先(主に京都、神戸)を決め、自主的にプランを決めて行動する。
- 修学旅行:2年生が対象。毎年10月~12月に行われる。行先は年度によって異なり、毎年入学時に北海道、沖縄、台湾の3択でアンケートを取り、その結果を考慮して選ばれる。
- 12月
- 期末考査
- 球技大会
- 終業式
- 1月
- 始業式
- 合唱コンクール(現在は廃止)
- 2月
- 学年末考査
- 卒業式
- 3月
- 修了式
かつての池田中学校[編集]
現在の大阪府立池田高等学校につながる旧制大阪府立池田中学校とは学校沿革史上の連続性はないとはいえども、明治時代には池田に別の池田中学校が設置されていた記録が残る。
1878年(明治11年)に大阪府の指示で池田村に郡立池田中学校が設置されたという記録が残るものの、学校のあった場所など詳細は不詳である。このときに設置された池田中学校は1881年(明治14年)には記録から消えている。
1901年(明治34年)には中学校令施行細則により、大阪府は各郡に1校ずつ中学校を整備する方針を固めた。豊能郡では郡役所所在地の池田町に大阪府立第九中学校を設置することとなり、1903年(明治36年)に大阪府立池田中学校が開校している。当時の池田中学校の場所は、現在の池田市立池田中学校敷地(北緯34度49分31秒 東経135度25分55秒 / 北緯34.825389度 東経135.432056度)にあたる。
しかし、この池田中学校は3年後の1906年(明治39年)に廃校となった。日露戦争後の財政難に陥っていた大阪府が、大阪市内3校の過密解消を目的とする新設校(今宮中学校。現在の大阪府立今宮高等学校)の設置および運営にかかる費用を、池田中学校と四條畷中学校(第十中学校。現在の大阪府立四條畷高等学校)のいずれか1校を廃校にして捻出する方策を取ったことによるとされている。
当初は辺鄙な立地にあった四條畷中学校が廃校になるとみられ、四條畷中学校関係者も廃校を見越したような動きをしていた。しかし、一転して池田中学校が廃校となった。別格官幣社である四條畷神社のお膝下に四條畷中学校が立地していたという忠君愛国教育に関連した事情のほかに、生徒の地元比率が高かった四條畷中学校と比べ、兵庫県をはじめ他府県の生徒が過半を占めていた池田中学校の存続に府会が難色を示したこと、さらには、師範学校の誘致で優位に立てるとの池田町による行政判断などが当時の池田中学校が廃校対象として選ばれる要因となったとみられている[1]。実際に、2年後の1908年(明治41年)に大阪府池田師範学校が池田中学校跡地に開校している。
当時の池田中学校は卒業生を出さないまま廃校となり、在校生は茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)など他校へ転入している。
部活動[編集]
アメリカンフットボール部は旧制池田中学校時代の1946年(昭和21年)創部。終戦直後の同年秋に進駐軍の米国人中尉が来校してアメリカンフットボール(タッチ・フットボール)を指導し、池田中学校は豊中中学校とともにアメリカンフットボールの指導研究指定校とされた。このため池田高等学校は、旧制豊中中学校の後身となる豊中高等学校とともに、日本における高校アメフト発祥の地とされている。アメフト部は1949年・1951年の甲子園ボウルの高校の部で2度の優勝経験がある。
またアメフト以外にもサッカー部、硬式テニス部、陸上競技部など全国制覇を経験したクラブがあり、近年では硬式野球部の活躍も目覚ましく第90回選抜高校野球大会の21世紀枠大阪府代表校に選出された。惜しくも出場はかなわなかったが公立の雄として悲願の甲子園出場へ期待が高まっている。
出身者[編集]
政治[編集]
学者[編集]
- 有田稔 - 経済学者 元:関西大学 ・元徳山大学 教授
- 松田修 - 国文学者 元:国文学研究資料館名誉教授
- 岡穆宏 - 京都大学名誉教授
- 岡田東一 - 大阪大学名誉教授
- 加賀山茂 - 名古屋大学名誉教授 元:大阪大学教授
- 東稔節治 - 大阪大学 名誉教授
- 中井信之 - 名古屋大学名誉教授
- 宮本又郎 - 歴史学者 大阪大学 名誉教授
- 宮崎正夫 - 京都府立医科大学名誉教授
- 安居洋 - 神戸市外国語大学名誉教授
- 筒井稔 - 京都産業大学名誉教授
- 松浦均 - 三重大学教授
- 友添秀則 - 早稲田大学スポーツ科学学術院教授
- 原求作 - 上智大学教授(ロシア語学)
- 中谷内一也 - 同志社大学心理学部教授
- 藤井隆雄 - 神戸大学産業・社会政策講座准教授
- 木村謙太郎 - 財団法人結核予防会大阪病院院長
- 田熊一敞 - 大阪大学大学院歯学研究科教授
- 中島伸介 - 京都産業大学情報理工学部教授
- 尾久土(おきゅうど)正己 - 天文学者 和歌山大学観光学部教授
- 湯井敏文 - 宮崎大学工学部教授
- 重松伸司 ーインド学者 名古屋大学・追手門学院大学 名誉教授
- 辰巳砂(たつみさご)昌弘 - 大阪府立大学学長 大阪公立大学(2022年開学)初代学長予定者
文学・芸術・芸能[編集]
- 藤原龍一郎 - 歌人
- 秋岡美帆 - 画家。
- 楊裕茂 - 建築家
- 小山光 - 建築家
- 藤原ヒロユキ - イラストレーター
- 松浦伸吾 - 作曲家
- 松本克己 - 日本フィルハーモニー交響楽団ヴァイオリニスト
- 向江昭雅 - 国立音楽大学 リコーダー演奏家
- たいせい - ミュージシャン(シャ乱Q)
- Task-n(池川祐) - パンクバンド (HEY-SMITH)
- 花瀬みずか - 元宝塚歌劇団月組娘役、月組副組長
- 風音まゆき - 元宝塚歌劇団月組娘役
- 岡原真弓 - オペラシアターこんにゃく座女優
- 永井一郎 - 声優アニメ「サザエさん」波平役、その他多数
- 小田切成明 - テレビ番組制作会社「アズバーズ」創業者
- 黒山忠久 - 元関西テレビ放送プロデューサー
- 小浜維人 - 元NHK解説委員長、元「ニュースセンター9時」キャスター
- 繁村純孝 - 元毎日放送アナウンサー
- 桂音也 - 落語家、元朝日放送アナウンサー
- 野島一郎 - 元朝日放送アナウンサー
- 武周雄 - 元朝日放送アナウンサー
- 浅井隆 - 映画会社アップリンク創業者
- 山口遊子 - 1983年ミス・ユニバース世界大会日本代表(ミス・ユニバース・ジャパン)
- 菅田将暉 - 俳優 2年生の1学期まで在学後転出
- 北田玲一郎 - 司法書士、作家
- 平野賢一 - 元京都放送アナウンサー
- 細木彩良 - モデル
- 平中悠一 - 作家、第21回文藝賞受賞
経済[編集]
- 石原実 - 実業家。
- 福田博之 - スーパー「ニチイ」(現マイカル)創業者、元副社長
- 黒田倬司 - イチネンホールディングス創業家、元代表取締役社長
- 岩谷徹郎 - 日本瓦斯創業者。
- 鳥井信一郎 - サントリー創業家、元会長。
- 澤井光郎 - 沢井製薬創業家、代表取締役社長
- 上島重二 - 第8代目三井物産社長。元経団連副会長
- 住谷栄之資 - キッザニア東京・キッザニア甲子園の運営会社「キッズシティージャパン」(現KCJ GROUP)代表取締役社長兼CEO。
- 喜多條清光 - 天満大阪昆布代表取締役社長
- 西川晃一郎 - 日立製作所執行役専務 日本実業団陸上競技連合会長
- 中川喜博 - 阪急阪神ホテルズ代表取締役会長 元阪急電鉄 代表取締役社長
- 鈴木篤 - H2Oリテイリング 代表取締役社長
- 鵜川淳 - 池田泉州銀行 取締役頭取CEO 大阪銀行協会会長
その他[編集]
- 玉井義臣 - 社会運動家、あしなが育英会創始者・会長
- 古川明 - 日本アメリカンフットボール協会元理事長・西日本アメリカンフットボール協会副会長
- 木島英登 - バリアフリー研究所代表
- 鳥井一平 - 外国人労働者支援NPO代表
交通[編集]
参考文献[編集]
- 大阪府立池田高等学校『池田五十年史』、1990年。
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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