天野元定

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天野元定
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年5月16日1569年5月31日
別名 通称:藤次郎
戒名 閑明寺心月宗円
墓所 高立寺
官位 民部大輔
主君 天野隆綱毛利元就
氏族 藤姓生城山天野氏
父母 父:天野興定、母:天野元貞の娘
兄弟 隆綱元定、澄月
阿曽沼弘秀の娘
女(天野元政正室)
養子:天野元政毛利元就の七男)

天野 元定(あまの もとさだ)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。安芸国賀茂郡志芳庄[1]の米山城を本拠とした国人である生城山天野氏の当主。毛利元就の七男である天野元政を養子とした。

生涯[編集]

安芸国賀茂郡志芳庄[1]の米山城を本拠とした国人生城山天野氏当主である天野興定の子として生まれる。

天文10年(1541年)に父・興定の後を継いだ兄・隆綱が厳島の戦いの直後の弘治元年(1555年)11月27日に死去。隆綱には嗣子がいなかったため、毛利元就の推挙により弘治2年(1556年)10月に元定が家督を継ぐ。

元定は防長経略に従軍し、弘治2年(1556年3月14日周防国玖珂郡桂野において土寇を攻撃し、数人を討ち取って撃破した。また、同年4月19日、周防国都濃郡下松妙見山における陶軍との戦いで元定は熊谷隆経らと共に奮戦し、敵兵500人余りを討ち取り大勝した。

永禄5年(1562年)7月から始まる元就の出雲遠征に元定も従軍。永禄8年(1565年)の月山富田城の御子守口における戦いでは、突出した毛利輝元の軍を援護するため、天野隆重と共に敢えて軍法を破って先頭へ駆け込み奮戦した。

永禄12年(1569年5月16日に死去。元定にも嗣子がいなかったため、元定の遺言により、同年6月23日に元就の七男・元政が元定の婿養子として生城山天野氏を相続した。なお、同年閏5月22日に桂元忠が天野氏の家老14名へ天野氏の後継に関する書状を送っている[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 現在の広島県東広島市志和町
  2. ^ 宛先は長松豊後守、長松大蔵少輔、長松宗左衛門、才満千菊丸、長豊後守、三宅河内守、才満源次郎、三宅兵部丞、石井藤十郎、三宅助右衛門、長松雅楽允、才満筑後守、才満佐渡守、三宅内蔵助。

参考文献[編集]