太陽を盗んだ男

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太陽を盗んだ男
The man who stole the sun
監督 長谷川和彦
脚本 長谷川和彦
レナード・シュレイダー
原作 レナード・シュレイダー
製作 山本又一朗
製作総指揮 伊地智啓
出演者 沢田研二
菅原文太
池上季実子
北村和夫
神山繁
佐藤慶
伊藤雄之助
風間杜夫
水谷豊
音楽 作曲・井上堯之、編曲・星勝
撮影 鈴木達夫
編集 鈴木晄
製作会社 キティ・フィルム
配給 東宝
公開 日本の旗 1979年10月6日
上映時間 147分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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太陽を盗んだ男』(たいようをぬすんだおとこ)は、1979年10月6日に公開された日本映画沢田研二主演・長谷川和彦監督[1]によるアクション映画。脚本は長谷川とレナード・シュレイダー[2]。製作はキティ・フィルム、配給は東宝。音楽担当は作曲が井上堯之、編曲は星勝

概要[編集]

原爆を作って政府を脅迫する」という内容の日本映画[3][4][5]。大掛かりなカーアクション[6][7]国会議事堂皇居前をはじめとしたゲリラ的ロケーション、シリアスで重い内容と、エネルギッシュな活劇要素が渾然となった作品である[5][8][9][10]。原子爆弾製造や皇居前バスジャックなど、当時としてもかなりきわどい内容となっている[11][12][13]

公開時、数々の映画賞に輝いたが[5][14]、本作は長らくカルト映画の位置付けで[7][14][15][16]、発売されていたビデオ廃盤になるとレンタルビデオ店でも見つからず[14]、視聴が困難な時期があり[17]、『狂い咲きサンダーロード』との邦画2本立ては、1980年代名画座の定番プログラムであった[7][18]。 

しかし、年々一般的な評価を高め[9][14][19][20][21]、『キネマ旬報』1999年「映画人が選んだオールタイムベスト100」日本映画篇では13位、2009年「オールタイム・ベスト映画遺産200(日本映画編)」〈日本映画史上ベストテン〉では歴代第7位に選ばれた[10][19][22][23]1970年代以降の作品としては、『仁義なき戦い』の第5位に次ぐものである。『キネマ旬報』2018年8月上旬号「1970年代日本映画ベスト・テン」では『仁義なき戦い』を逆転し、第1位に選ばれている[24][25]

あらすじ[編集]

中学校の理科教師である城戸誠(沢田研二)は、日頃から休み時間は一人でボールの壁当て、学校のネットをよじ登る、ターザンの真似、授業は学級崩壊を気にせず延々と原子力についての講義、定期テストは生徒自ら自己採点をさせた物を提出、当の本人は居眠りと言う奇行を続けていた。しかし、これは彼がこれから起こす犯罪のためのトレーニングだった。ある日、誠は茨城県東海村原子力発電所[注 1]から液体プルトニウムを強奪し、アパートの自室で悪戦苦闘しつつも[注 2]ハンドメイドの原爆を完成させた。そして、金属プルトニウムの欠片を仕込んだダミー原爆を国会議事堂に置き去り、日本政府を脅迫する。

誠が交渉相手に名指ししたのは、丸の内警察署捜査一課の山下警部(菅原文太)。かつて誠がクラスごとバスジャック事件に巻き込まれた時、体を張って誠や生徒たちを救出したのが山下だった。誠は山下にシンパシーを感じていた。誠の第1の要求は「プロ野球ナイターを試合の最後まで中継させろ」。電話を介しての山下との対決の結果、その夜の巨人大洋戦は急遽完全中継される。快哉を叫ぶ誠は山下に「俺は『9番』」と名乗る[注 3]

第2の要求はどうするか思いつかずに迷う誠は、愛聴するラジオのDJ・ゼロこと沢井零子(池上季実子)を巻き込む。多数のリスナーも交えた公開リクエストの結果、誠の決めた第2の要求は「ローリング・ストーンズ日本公演」。[注 4]これにも従わざるを得ない山下だったが、転機が訪れた。原爆製造設備のため借金したサラ金業者に返済を迫られた誠が、嫌々出した第3の要求「現金5億円」に山下は奮い立つ。現金の受け渡しなら犯人は必ず現れるからだった。電電公社に電話の逆探知時間を強引に短縮させ[注 5]、罠を仕掛ける山下。逆探知により誠が東急デパートの屋上から電話をしていることが判明し、東急デパートの出入口を警察が封鎖する。初めて作戦が失敗した誠はトイレに駆け込むも歯茎から出血、突然の吐き気が襲うなど被爆の症状が進んでいる事を知らされる。誠は山下に原爆のありかを教え、持ってきていた5億円を屋上からばら撒くことを指示する。一万円札が空から降ってきて大騒ぎになっている街の中を、誠は逃げ切ることに成功する。

原爆を回収した山下たちは、起爆装置を解除することに成功したが、誠は原爆が保管されているビルの4階を襲い原爆を奪取すると車で逃走、追跡する警察との激しいカーチェイスの末、誠の車が横転。逃走時に車の助手席に飛び乗っていた零子が事故の巻き添えになる。誠が被爆している事を知っていた零子は少しでも長く生きてと告げ息を引き取る。誠は多少動揺するものの意に介さず再び起爆装置をセットする。

ローリングストーンズ公演の日、山下は観衆の中に誠がいると踏み、ついに山下と誠は対峙し山下は「ローリングストーンズなんざぁ来やせん。」と言った。公演を中止し、観客にわざと暴動を起こさせ全員まとめて逮捕。その中から誠を洗い出すという彼の作戦だった。逆上した誠は山下に銃を突きつけ「原爆は30分後に爆発する」と脅迫する。山下をビルの屋上まで連れて行って銃で撃つが、銃弾を何発も身に受けながらも、山下は誠を道連れにしようと屋上から転落する。山下は死亡したものの、誠はどうにか生き長らえる。

誠は放射線に蝕まれた瀕死の身体で、原爆を持ちながら街を歩き、やがて30分が過ぎる。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

制作の経緯[編集]

制作まで[編集]

キティ・フィルム多賀英典社長は、本作及び、キティ・フィルムの設立は、長谷川和彦黒澤満伊地智啓を誘って、日活を離れて自分たちで映画を作りたいと僕の会社に来てくれたのが始まりと述べている[27]。多賀と長谷川は以前からの遊び友達だったという[27]。多賀はポリドールの音楽ディレクター・プロデューサーとして、小椋佳井上陽水らを手がけ、独立してキティ・レコードを作ったが[28]、自分の事業を展開していくにはどうしても映画が必要という目論見を持っていた[28]。多賀が映画の影響力の大きさに触れたのは、自身が音楽プロデューサーを務めた1971年東宝初めての旅』で[27]、小椋佳の歌がヒットしたことで、映像と組みたいと思っていたところに長谷川が訪ねて来たときは、渡りに船という感じだったと述べている[27]。黒澤満は岡田茂東映社長に誘われて東映に行ったが[27]、伊地智はキティ・フィルムに参加し[27]、長谷川から映画をよく知っていると推薦された伊地智を中心に多賀が設立したのがキティ・フィルムだという[27]

山本又一朗プロデューサーは、多賀英典社長が出資し、プロデューサーが自分で、脚本が村上龍、監督が長谷川和彦という座組みで映画を創ろうと話し合っていたと述べている[29]。座組みには長谷川の助監として相米慎二もいて[28]、伊地智は「梁山泊みたいなヤバイところに来てしまった。こんな面子では映画は出来るわけはない」と思ったという[28]。その通り畑違いの人間の集まりで上手くいかず、山本はグループを抜けて『ベルサイユのばら』の企画に移った[27]。村上龍は長谷川のために5本の脚本を執筆した(その中には、後の小説『コインロッカー・ベイビーズ』の原型となったものもある)が[30]、いずれも長谷川は却下した[27][30][31]。村上と多賀もプロジェクトを離れて、村上の監督による『限りなく透明に近いブルー』の製作に入った。

多賀は、長谷川が村上龍を僕に紹介し、村上の脚本で行くとなっていたのですが、長谷川が全部ボツにしてレナード・シュレイダーと組んで『太陽を盗んだ男』をやることになったのです。最初は山本又一朗も関わっていたのですが、山本は途中で抜けて『ベルサイユのばら』の製作でフランスに行き、帰って来たところで、予算オーバーは僕が責任を持つからと『太陽を盗んだ男』の製作を進めさせました。結局、伊地智はプロデューサーからは外れて、実際のところは山本がプロデューサーになったんです、と多賀は証言している[27]

企画・脚本[編集]

一人になった長谷川は1977年春にアメリカに行って、レナード・シュレイダーと知り合い仲良くなった[30][14]。お互いの生い立ちなどを話し、長谷川が広島の生まれで体内被曝児であることなどを話すと、「それでお前のあだ名は"ゴジ"なのか」「いや、それはまた別の話だ」などの話をし[14]、「そのうち一緒に仕事をしよう」と言って別れたが、あまり期待はしていなかった[14][5][17]。シュレイダーは長谷川の生い立ちからインスピレーションを受け、また雑誌『アサシン』で個人でも原爆を作れるという記事を読み、それらからプロットを着想した[17][32]。『アサシン』は「カストロの殺し方」みたいな特集を載せるバカフリークな雑誌だった[32]。シュレイダーはこのアイデアをダスティン・ホフマンに話したら、ホフマンが「ぜひ主役をやりたい。1億円手付けを打つと言っていた」と吹いていたという[30][32]。1977年6月にシュレイダーが日本に来て[30]、長谷川に「被爆者のお前が撮るべきだ。その方が世界に与えるインパクトが大きい」と言った[14][30][32]。シュレイダーは「何でもない普通の青年が原爆を作って9番を名乗り、時の政府を脅迫する。その第一の要求は“テレビのナイター中継を最後まで放送しろ”で、最後に金をさらって女とブラジルあたりに逃げる」というプロットを長谷川に提示した[14][33]。長谷川は「そのラストではせっかくの原爆のプロットが生きないので、原爆を作る過程で被爆させること」と[14]、シュレイダーは9番と敵対する刑事を三波伸介伴淳三郎のようなコミカルな人物像をイメージしていたが、「むしろ『野良犬』の三船敏郎が30年後に生き返ったような刑事にしてくれ。そういう男と男の対決のドラマにしてホモセクシュアルな関係になってもいいから、ある種の父殺しの話にしようじゃないか」と注文を出した[32][33]。シュレイダーはドストエフスキーを彷彿とさせる脚本を書き上げ、当初は中学教師城戸が、何故犯罪を犯すのかの理由が必要だろうと、校長と喧嘩するとか、同僚の女教師とファックするとか色々デッサンはあった[32]。高倉健が新幹線大爆破するには、それだけの理由があるが、長谷川がそれが映画をつまらなくしていると考えていたから[32]、主人公の少年と家族の関係を全てカットし、他人に触れ合うシーンは全部切り[32]、都会で孤独に生きる人物像として中学校の教師とした。脚本は完成するまでにさらに2年を要した[33]。後に助監督として参加する相米慎二と制作進行の黒沢清も執筆に協力し、脚本作成に1年かけた[14]

制作決定[編集]

時期は不明だが、長谷川はフランスに滞在していた山本に「帰国したら一緒に映画を作りたい」という手紙と『笑う原爆』と題した脚本を送った[29]。脚本は面白く、長谷川のライターとしての才能に感銘したが[14]電話帳二冊分くらい分厚く[14]、製作費にも現実味がないと山本は断ったが、長谷川と助監督の相米慎二は帰国した山本の説得にあたり、ついに「破産するかもしれないが、賭けてみたい」と製作を決めた[14][29]。山本としては「『太陽を盗んだ男』を日本で初めて外国に出せる現代劇にしたい」[34]「1本目の『ベルサイユのばら』で果てせなかった夢を、2本目の本作でクオリティーの高い作品を作り、5年以内にハリウッドで映画を作りたい」という思いがあった[34]。長谷川は「山本は最初は何者か知らなかった。彼は自分で作った会社を出てキティに身柄を預けていた。多賀社長をアシストする形だったんだけど、俺の方の企画がうまくいかない間に『ベルサイユのばら』を始めた。最初あいつに相談を受けたとき、また大ボラが始まったとしか思わなかったからね。パリにいるころから次は一緒にやろうと言ってきていたけど、どの程度の熱意があるのか分からなかったね」と、山本の話とはややニュアンスの違う話をしている[33]。「企業内のプロデューサーは“それは無理だよ”ということから始まるけど、山本は“無理な方が面白いと”いうことから始まるから。俺もそのタイプだし、ああいうタイプのプロデューサーが出て欲しいと思う」などと話していた[33]。バカバカしく分厚い台本には、多賀英典も腹をくくっていたという[28]。製作費は3億7000万円で始まったが[34]、スタート時から1億7000万円足りなかった[34]。東宝が配給に決まったのは1978年暮れである[33]。 

タイトル[編集]

シュレイダーが送ってきた脚本第一稿のタイトルは、英語で「The Kid Who Robbed Japan」だったが[14]、"Kid"にあたる良い日本語訳がなかったため、長谷川が『笑う原爆』と決めた[35]。しかし東宝サイドが原爆をタイトルに使用することに難色を示したため、準備稿の段階では『日本 対 俺』という仮題で製作を進め[14]、その後『プルトニウム・ラブ』『日本を盗んだ男』とタイトルが転々と変わり[35]、最終的に長谷川自身が「太陽と原爆をオーバーラップさせる」と考えていたため[35]、『太陽を盗んだ男』に決めた[19][35][36]。太陽のエネルギーを持つ原爆と、日章旗すなわち日本という国家を指す[37]

従来、原爆を素材とした日本映画は必ず被害者の側に立っていたが、本作は加害者の側に立った上、スケールの大きなエンタテイメントに仕立てた不謹慎極まるものだった[38]。主人公が原爆製造中に被爆するという設定は、実際に「胎内被爆児」である長谷川監督の発案である[10][16][38]。撮影中に抗議に来たある活動団体に対して、自分の「特別被爆者手帳」を見せて説明し納得させたという[11]。公開前のキャンペーンのテレビ番組で「ジュリーってゲンバクのように強〜イ男」という番組サブタイトルが抗議を受けた[14]

キャスティング[編集]

プロデューサーの山本は、萩原健一を主役に想定していた[39]。長谷川と菅原文太は以前から新宿ゴールデン街の飲み友だちで、長谷川からの出演依頼に菅原は「面白いじゃないか、やろうよ」と快諾し、菅原から「主役にはジュリーなんかどうなの?」との提案を受け、長谷川は沢田に出演交渉を行うが、沢田のスケジュールが1年半先まで埋まっていて、その後1年待って、3か月スケジュールを空けさせて撮影した[40]。当時の沢田のマネージャーが「ぜひ、沢田にこの映画をやらせたい」と言ってくれ、その熱意に押され1978年2月に[33]渡辺プロダクション社長の渡辺晋に山本と長谷川、相米の3人で会いに行き、山本が渡辺晋に直談判して沢田の出演が決まった[29]。しかし菅原と沢田のスケジュールを合わせるまで1年以上かかった[33]

しかし公開当時の文献や[35]、2001年発売されたDVD特典映像や『映画秘宝』での長谷川のインタビューでは、これとは全く違う話をしており[14][41]、主役のキャスティングに難航して、無名の新人でいくしかないというところまで来たとき[35]助監督の一人が「ジュリーは駄目なんですか?」と言うから、「そうか沢田がいたか」と思って、長谷川が『悪魔のようなあいつ』で仕事をしたことがある沢田にすぐ連絡をしてその日のうちに会えた[41]、脚本もまだ未完成の時期だったから、「1人で原爆を作った兄ちゃんがいて、テレビのナイター中継を最後まで見せろと脅迫する話だ」と説明したら、「原爆ってのが大きくて面白いですね」とすぐその場で出演をOKしてくれた、結果、「日本で一番忙しい、超有名な新人を起用することになった」などと話している[41]。沢田研二は1978年9月号の『月刊平凡』で山口百恵と対談し[42]、 沢田「来年(1979年)3~4月ごろは何してるんですか?」 山口「来年ですか?何してるんだろう」 沢田「来年3~4月に長谷川和彦さんと映画をやろうと思っているんですよ」 山口「あら、本当なんですか。私も一度長谷川さんと映画を一緒にやりましょうと話したことがあるんです。いいですね。一緒にやりたいワ」 沢田「ネェ(笑)」 山口「実現するといいなあ」 沢田「長谷川さんは狂気の沙汰の映画を作るって言っているから(笑)」 山口「テーマなんかは決まっているんですか?」 沢田「構想はだいたい出来上がってるみたいですよ」 山口「女性は出て来るんですか?」 沢田「出て来ますよ。だから来年3~4月ごろは何をやってますかって聞いたんだけど」 山口「(笑)いっぱい時間をかけてのんびり撮るんでしょうね」 沢田「60日はスケジュールを出して欲しいと言われたけど」 山口「そうでしょうネ。それでももしかすると物足りないかもしれないですヨ。私の映画のスケジュールは1ヵ月ぐらいなんです。だから多少条件悪くても、我慢してやっちゃう」などのやりとりがなされた[42]。『冬の華』(1978年、東映)と同じく、池上季実子の役は山口百恵だったかも知れない[42]。沢田は1978年夏に長谷川から話を聞いて、以降、役柄に合わせ、食事制限と体力作りを重ね役作りを行った[43]。またこの映画のために1979年2月から4月まで、当時の自宅の近所にあった上北沢自動車学校に通い、自動車免許を取った[35][43]

演出[編集]

城戸が妊婦に化けて国会議事堂に潜入するシーンは、美形の沢田だから長谷川が思いついたアイデア[41]。内容から撮影許可は降りないので、逮捕覚悟の隠し撮りである[41][44][45]。沢田は「守衛さんは1人だったんだけど、最初『あれっ、あれっ』で顔をしていたんだけど、止めに入らないんで『オレいいのかな』と思いながら歩きました。撮り終わった瞬間、『それっ』ってスタッフたちが僕を連れ出して、逃げ帰ったんです(笑)」などと話している[44]。撮影当日は長谷川が助監督全員に背広ネクタイ着用を指示したが、背広姿の長谷川はヤクザ風、相米はクアラルンプール赤軍の犯人みたいな風貌になり、かえって怪しまれた[14]。沢田には「5分間頑張れ」と指示し、警官との押し問答を隠し撮りした[45]冨田均は「映画も信じがたい話だが、このロングショットには、東京映画もここまで来たか、と感動した。『太陽を盗んだ男』は指折りの東京映画」と評している[46]。沢田は吹き替えを使えるシーンでも出来るだけ自分で演じたがり、また長谷川がOKを出しても、自身で上手くいかなかったと思ったら撮り直しを要求するため、その分時間もかかった[41]。しかしスーパースター沢田の熱意が現場のテンションを高めた[41]。長谷川は初めてがっつり沢田と仕事をして、ナルシスティックで華美なヤツかと思っていたら、凄い硬派で、長谷川は沢田を「沢田」と、スタッフは「沢田さん」と呼び、沢田もそう呼ばないと返事をしなかったという[41]。製作発表会見で沢田は「映画らしい映画は今回が初めてです。ドデカイ話だけに、全力で限界に挑戦します。20代のつもりで、最後の青春映画のつもりでやります」と決意を述べた[47]。沢田は振り返って、1982年のインタビューでは「『太陽を盗んだ男』はやっぱり入れ込んでたし、監督とウマが合ったっていうか..あのしつこさっていうか..もうゴリゴリ押してくるって感じの人だから、それに負けまいっていう感じが凄くよかったし、ほとんど出ずっぱりだったし、『やってるんだ!』という実感が強かったです。それで映画の面白味が分かってきたというか、映画もちゃんと演りたいと思ったのは『太陽を盗んだ男』からです」[48]、1991年のインタビューでは「タイガースの映画は学芸会でしたね。当時は現場そのものが怖かったですよ。大人の世界に入っていく感じでしょ。一本目の和田嘉訓監督ね、いま思えば可哀そうだと思うよ。タイガースの映画撮らされて、自分が思っていた映画ではないと思うんですよね。あの人監督辞めちゃったでしょ。たぶんタイガースに責任があると思いますよ(笑)、それをやらせた東宝とね。タイガースの映画はもう一度見たいとは思わないですね。でも『太陽を盗んだ男』は公開当時よりも、今見た方が面白く楽しめると思いますね。当時、荒唐無稽と盛んに言われたけど、今なら割とリアルに見れると思います」などと話し[49]、2002年のインタビューでは「僕にとって映画というものが自分のエネルギーを注ぐ価値のあるもので、『ああ映画ってこれだな』と思わせてくれたのは『太陽を盗んだ男』が初めてでした。それまではタイガースとして映画に出演したりしてましたけど、やっぱりアイドル扱いだったんです。でもゴジさんに『そういう扱い方はしないぞ』って言われました。『太陽を盗んだ男』は自信を持って観て欲しいと言える映画です」などと述べている[44]

長谷川は「俺は沢田に新人のつもりで使うぞと頭から言った。沢田があそこまで自分を曝け出して頑張るとは思わなかった。俺の組であれだけやれば精神も肉体もボロボロだよ。4分の長撮りで17回のNG。時間と金が落ちるように使われた。NGの理由は自分の演技だけとなれば、それは耐えられないよ。あれ、最後は前後半に分割するかと提案したんだけど沢田が『もう1回だけ』と手をついたんだ。逆に俺が励まされたよ。沢田がNGを連発したのは警察に電話をかける長ぜりふのシーンだが、沢田自身はNGは50回以上だったと話している[50]

菅原文太は静の芝居が苦手な人で、長回しで時間が経つと肩やら足やら貧乏揺すりを始める[14]。長谷川が「文太さん、それじゃあねえヤクザになるから。文太さんは警視庁の鬼警部なんだから、不動明王のようにボッーと立ってて下さい」と頼んでも、やっぱり貧乏揺すりをやるので、その都度「カッート!」をかける。菅原は「分かってる、分かってるんだけど」などと言い訳をする。何度やっても貧乏揺すりをやるので長谷川が遂にキレ「文太サー、また肩!」と言ってしまい、現場が凍り付いた[14]。長谷川は「文太さん」と言ったつもりだったが、ベテランスタッフに呼び出され、「ゴジ、いくら何でも『文太サー』はさすがに態度デカいだろ」と怒られた[14]。カメラの鈴木達夫は「菅原文太さんは非常に役者を可愛がる東映という独特の俳優システムで育って来た人ですから。そういう人がいきなり町場の映画に出てきて、本来なら一回演技すれば『ハーイ、オッケーでーす」みたいな世界でやってきて、それがいきなりテイク10とか行くわけですから。文太さん相当大変だったと思います。本当に文太さんはよく耐えてましたね」などと話している[14]。長谷川は「文太さんにも無理を言った。ヤクザ映画の癖はいりません。凄むのも要らない。文太さんに文太さんらしさを出すなと言ったんだから、新人以下の扱いよ。あれほどのスターさんが『今の動きはヤーさん見たいになりましたね』とチンピラ監督に注意されるんだから、普通は帰ってしまうよ。文太さん『こんなキツイのは5年に1本でいいな』って言ってたから」などと話している[30][35]

撮影進行[編集]

スタート時から1億7000万円足りないという現実があり、撮影日数の問題もあったが、長谷川と山本は長い脚本を一切切らず全部撮ることにした。東宝とは2時間20分前後にするという契約のため、約1時間分は未使用となった。山本は「無駄の中に映画の魅力を拡げるものがある」という自身のプロデューサー判断と述べている[34]。なお、最終的な制作費は3億9千万円[14]、撮影期間は1979年4月25日より8月8日(撮影日数86日)[14]、撮影使用フィルム17万フィート[35]、19万フィート(約35時間分)となっている[14]。これを1万3千フィートに編集[35]。通常の日本映画の3~4倍のフィルムを使用した[35]

1979年4月25日クランクイン[14][43]。トップスター沢田研二のスケジュールをここから7月まで、丸3ヵ月開けさせた[28]ナベプロからは「夏は絶対、歌の興行で全国を回りますから、7月で撮影を終えて下さい」と引導を渡された[28]。この年の沢田の夏ツアーは、全国ツアー以外にもシンガポール公演を始め、外国人で初めての中国でのコンサートの予定があった[43]。大半の撮影が規模が大きく撮り切れない部分が積み重なった[51]。長谷川は何かを見切れるまで撮影を続けるため、毎日徹夜[14]。予想通り7月で撮影は終わらず、沢田を一旦手放した[28]。スケジュールがその段階でかなり混乱した[14][28]。8月後半に沢田抜きで高速道路の車の走りなどを撮った[28]。撮影遅延によりスタッフの契約期間は全員切れ[51]、長谷川がイライラして怒鳴り散らしたりしたため[14]、次の日から来なくなる者、次の現場に行く者も増えてきて[14][51]、その間、スタッフ1人欠け、2人欠けで、沢田が現場に戻って来てくれたとき、助監督で残っていたのはチーフ助監相米慎二だけになっていた[28]。照明部も熊谷秀夫1人だけで[51]伊地智啓が弁当配りをやり[51]、沢田のスケジュールは動かせないため、残った者で準備や撮影をやった[51]。最後は米粒コツコツ拾う鶏みたいな現場になった[28]黒沢清は「撮影遅延が数週間なら珍しくないが、数ヵ月も遅れるというのは特殊な現場だった。その特殊な伝統が後に相米慎二さんに受け継がれていくんです」と話している[14]。途中逃げだしたセカンド助監の榎戸耕は「『太陽を盗んだ男』だけは思い出したくない」と話していたという[28]。このためノンクレジットの一番下っ端の製作進行でまだ学生だった黒沢清が助監督らを全部飛び越し、B班のプロデューサーになっていた[14][52]。黒沢はプロデューサーということで数10万、数百万のお金を預けられ、僕が逃げたらどうするつもりなのかなと考えたという[14]。黒沢がディレクターズ・カンパニーに参加したのはこれが切っ掛け[52]

1979年9月初めクランクアップ[28]

撮影詳細[編集]

  • 撮影の鈴木達夫の提案で、カメラにフィルターを付けて全シーン撮影した[14]。沢田研二の原爆製造のシーンではパープル→グリーン→白で燃え尽きるイメージを演出した。池上季実子の登場シーンではピンクと、イメージに合わせた着色を行い、本作は実験映画としての側面もある[14]
  • 冒頭のバスジャックのクライマックスについて長谷川は「皇居前広場に無許可で忍び込んで一発撮りした、いわばゲリラ撮影だった」「思ったよりバスの速度が出なかったため、突撃とならず、皇居係員ものんびり誘導に出てきた程」「仕方がないのでコマを抜いて速く見せた」と話している[11][40][53]。撮影地は坂下門[46]。当然登場する皇居警察は実物[54]。逮捕される可能性が高いだろうとこの撮影を最後にまわし、撮影後は留置所かもしれないと、みんな歯ブラシ、手ぬぐいを持参して撮影に挑んだ[33]。バス内部のシーンや皇居の堀に向かって手榴弾を投げるシーンなどは、よみうりランドに作ったセット撮影である[53]
  • 首都高でのカーチェイスも許可が下りる見通しが立たなかったため、スタッフが撮影箇所の後方で、わざと4台の自動車をノロノロ運転で走り、一般の自動車が前に行かさないようにして撮影した[14]。製作担当は延べ2、30名検挙されているという[40]。予告編でも見られる湾岸での大型トレーラの上のジャンプやトレーラ下の潜り抜けは、三石千尋率いる「マイクスタントマンチーム」によるもの[14][45]。劇中では、マツダ(当時は東洋工業)の協力により、沢田演じる誠がサバンナRX-7、菅原演じる山下がコスモAPを使用[注 9]。カーチェイスは何日もかけて撮影したもので、ドライバーが疲れて、25台の約束が5台しか来なかったこともあった[14]。苦労して撮ったカースタントだったが、長谷川がロスのFilmexに持って行って見せたら、ハリウッドの映画人から「なかなか面白い映画だと思うが、どうしてあんなC級カーアクションをラストにくっつけたんだ」と言われた[14]。当時のハリウッド映画のレベルから見ればそう見えたものだが、長谷川は悔しくて「俺はC級カーアクションが好きなんだ!」と開き直った[14]
  • 森達也は同じ大学の映研に所属していた黒沢清に頼まれ、本作の渋谷ロケに参加したが、映り込んでいるカットは一瞬。アップも撮られたのに短い台詞とともにすべてカットされていたという[12]
  • 日本橋(劇中は渋谷の設定)のビルからの一万円札撒きや、国会議事堂前、国会議事堂裏口のゲリラ撮影は、相米慎二のB班が「逮捕され要員」として待機させられた[11][注 10]
  • 山下がヘリコプターから地上に落ちるシーンでは、スタントマンは安全面から2メートルを希望したが、長谷川は迫力を出すため5メートルを主張、さらに撮影時にはヘリコプターは7~10メートルまで上昇している。東京湾ヘドロに落下したスタントマンは、完成フィルムを見て自分の飛び降りたあまりの高さに驚き「嘘だろ! 冗談でしょ!」と顔面を引きつらせたという[55]。結局、スタントマンは骨折したといわれる[56]
  • 東京湾にはさらに2人飛び込んでいる。当時の東京湾は非常に汚かった。池上季実子は現場に到着するなり、長谷川から「池上さんが東京湾に放り込まれるシーンから撮影する」と言われ仰天した。池上のマネージャーと監督、スタッフとの緊急討論が持たれた。その結果、「(1)リハーサルで助監督が飛び込んで安全を確認する (2)すぐ近くに風呂を用意する」という妥協案でまとまり、池上もヘドロいっぱいの東京湾に飛び込んだという。後年、「スタントなしで当時の東京湾に飛び込んだのは、今では20歳の貴重な思い出になっている」と池上は話している[57]
  • 猫がプルトニウムを食べて死ぬシーンは、業者から「(殺しても代わりは)何匹もいますから」と言われたが、長谷川は猫を殺すのがどうしても嫌で、第2班監督の相米に「絶対に殺さずに死んだように見せろ」と命令し、相米はフィルムを何百フィートも回し、最終的にはマタタビを使って撮ったという[40][58]
  • 沢田は「ボツになったシーンはいっぱいあります。小学校のプールにプルトニウムを撒くシーンとかも撮影したんだけど、想像するだけに替わっています。山本プロデューサーとゴジさんが『それをやると劇場で掛からないんだよ!』とか派手にやり合ってました。ラストのビル(科学技術館)の屋上シーンは全シーン撮り直したんですよ。『どこが悪かったんだろう?』と思いましたけど(笑)」などと話している[44]
  • 沢田と菅原がクライマックスで取っ組み合ったまま落下するシーンは、千葉真一率いるジャパンアクションクラブ (JAC)の協力を仰ぎ[45]、本番は北の丸公園で行われ[45]、菅原はスタント?だが、沢田は自身で演じ、3度高いイチョウの木から落下し、イチョウの大木が折れた[45]
  • 製作費用がどんどん膨れ上がり、プロデューサーの山本は途中で「これは破産するな」と思った。そこで山本は確実にヒットが見込める映画を並行して作り、その金を本作に充てようと考えた。そこで目を付けたのが、いしいひさいちの漫画『がんばれ!!タブチくん!!』だった[29]。結局アニメ映画『がんばれ!!タブチくん!!』は大ヒットを記録し、2本の続編が作られた。後に山本は「『がんばれ!!タブチくん!!』がなかったら、『太陽を盗んだ男』の製作で僕は億を超える負債を背負い込み、立ち上がれなかったかも知れない」と述べている[29]

エピソード[編集]

  • 政府を脅迫する主人公の要求が政治性のないものばかりな点について、長谷川は「1979年ですから、ジュリーに言わせてる台詞でも『わたしは過激派なんかじゃないわよ』という感じで、過激派は地に落ちているころだから、そんな要求を出せる元気があるやつはいないんだ。逆に、過激派のように徒党を組まないでもこの兄ちゃんは一人でタイマン張ってるぜ、みたいなということが自慢だったわけでね。」と説明している[59]。他方で「天皇に直訴する」という老バスジャック犯の姿を描くことで当時の「しらけ世代」と旧世代のギャップを強調した[60]
  • 第一の要求であるナイター中継の延長放送は、当時としては珍しく、中継時間の延長[注 11]が行われるようになったのは1980年代以降である。1990年代にはBS・CS放送の普及で、野球を試合開始から終了まで中継する例が増えていった。
  • 第二の要求である「ローリング・ストーンズ日本公演」は、劇中でも触れられているように、1973年に一度中止されており[11][61]、ようやく1990年になってから実現した。
  • 主人公が原爆完成の嬉しさのあまり、ガイガーカウンターをマイク代わりにしてはしゃぐシーンは、沢田のアドリブだという[14]ボブ・マーリーの曲にあわせて踊り回るが、撮影時まだ楽曲提供に関する問題をクリアしていなかった。長谷川はいいシーンが撮れたのでカットしたくはなかったが、予算は限られている。そんな時、たまたま撮影を見学に来た内田裕也に事情を相談したところ、二つ返事でレコード会社との交渉を買って出た[62]。レコード会社は曲の宣伝として楽曲の使用を認めた。

興行成績[編集]

本作は全国157館で[30]、鳴り物入りで封切られたが、都市部で大入りしたものの、地方では惨敗で、全国で見ると興行的には成功をみなかった[5][14][19][62]。『キネマ旬報』1980年2月下旬号には「キティ・フィルムは再起不能なのではないか」と書かれている[63]

受賞・選出[編集]

評価[編集]

  • 映画評論家轟夕起夫は自著で「振り返ると1979年とは、日本映画史上とても重要な年であったと思う。というのも、今後語り継がれてゆくであろう活劇ムービー、『太陽を盗んだ男』と『ルパン三世 カリオストロの城』が公開された年だからだ」「一部に熱烈に評価されたものの"79年" は決して恵まれた興行成績を得られなかったこの二作。しかし歴史は自らの誤りを認め、改めて審判を下し直し、時を経るにつれ、どちらもオールタイムベストの常連となった」などと述べている[64]
  • 映画評論家樋口尚文は1997年5月の『朝日新聞』夕刊の連載企画「わが青春のヒーロー」に本作の主人公「城戸誠」をとりあげ、作品愛を語っているが、(「しらけ世代」参照)、さらに著作『『砂の器』と『日本沈没』1970年代日本の超大作映画』(筑摩書房 2004年)で一章を割いて『太陽を盗んだ男』を詳細に分析、「メディア漬けの消費社会が生む劇場型の少年犯罪カルト教団の暴走などが現実のものとなった1990年代半ば以降、本作の先取りした人間像や世界観は、よりわれわれ自身に近いものに感じられるようになったのではないか」「本作は古びるどころか、むしろ『現在的な映画』であり続ける」などと激賞している[36]
  • 本作助監督の相米は、映画の評判がいくら良くても、子供に受けなかったのでヒットしなかったと答えている[65]
  • 映画ジャーナリストの大高宏雄は、『太陽を盗んだ男』のような映画[注 12]を興業的に成功させるには、その映画のクオリティだけでは不十分で、角川映画のような商業主義的な大量宣伝も必要だったとしている[66]
  • 1979年10月にマーティン・スコセッシイザベラ・ロッセリーニカネボウの仕事を兼ね、密かに新婚旅行で来日した[67]。ロッセリーニの仕事は北海道だったが[67]、スコセッシ監督が「プライベートな旅行ですが、この機会に日本映画を一本観て、その監督と話をしたい」と言っていると白井佳夫に連絡があり[67]、白井は上映中だった『太陽を盗んだ男』を薦め、マーティン・スコセッシと長谷川和彦の対談が東京でセッティングされた[67]。対談には2人と白井他、荒井良雄三木宮彦が同席[67]。スコセッシは『太陽を盗んだ男』について「すごいタイトルですね。まず、それが気に入りました。自分の作品のタイトルは、いつも気に入っていませんので。私は今、ニューヨークで『レイジング・ブル』を撮影中なのですが、やがてそれが上映されるであろう日本で、それを見てくれる観客のフィーリングを探ろうというのも来日目的の一つでした。『太陽を盗んだ男』を見ることで分かった気もするし、ニューヨークに帰って自分の映画を撮り続ける上の大きな刺激を受けました」 長谷川「一人の若者が自分の手で原爆を作り、国家を脅迫するという、あの作品の日本的なエモーションは理解できますか?」 スコセッシ「私が今まで感じてきた怒り、フラストレーション、そして文明とは何であり、どうなっていくべきなのか、まったく同じものが、この映画にはあった。だから、違和感なく作品に入っていけました」 長谷川「私は『タクシードライバー』がとても好きで、『タクシードライバー』を超えようと思ってこれを作ったんです」 スコセッシ「緊張感が一瞬ほぐれて、観客席から笑いが生まれるというあたりの呼吸も『タクシードライバー』に共通している。特に主人公が原爆を完成させて『Get Up, Stand Up』を伴奏に踊り出すシーンは凄かった」 長谷川「あの主人公を演じた沢田研二は、本来歌手のビッグスターなんですよ」 スコセッシ「えっ、本当ですか! あの映画の中では、まるでそんな風には見えなかった」 長谷川「『太陽を盗んだ男』は製作費が約3億3千万円でしたが、『タクシードライバー』はどのくらいかかりましたか?」 スコセッシ「180万ドルですから同じくらいの製作費になりますね」 長谷川「『太陽を盗んだ男』は独立プロで作ったんですが、大手映画会社で作ったら5倍はかかったと思います。ハリウッドで作ったら10倍くらいかかったかもしれません」などのやりとりがなされた[67]
  • 君塚良一は「大学生の時、『太陽を盗んだ男』が突発的に現れたことに驚き、カーチェイスや銃撃戦に酔い、テーマにゾッとし、こんな作品をもっと観たいと思った。改めて観返すと不思議と『シュリ』に似ていることに驚く。若い才能によって突然誕生したこと、刑事が犯罪者を追う犯罪ものであること、犯罪者の心情を克明に描いていること、首都のロケが多用されていること、スタントに力を入れたアクションものであること、そして自国の歴史をベースに据え、エンタテインメントに反転させようと目論んでいることだ。自国が抱える問題を描く脚本として両作品は圧倒的に斬新だ。『太陽を盗んだ男』でいえば、被爆国の悲劇や原爆の恐怖をあからさまに脚本に起こしていない第一幕から、奇妙な要求を振りかざして国家が困惑するコメディ仕立ての第二幕、第三幕からラストまでは『シュリ』がそうだったように、エンタテインメントの中で動いていた主人公に、テーマそれ自身が襲いかかり、中学教師は原子爆弾によって被爆し、観客は自らの持つ歴史の問題に主人公と共に直面してしまうのである。その歴史はよく知られていることで、説明がいらないため、最後まで物語にスピードが乗っている。韓国では『シュリ』のあと『JSA』も生まれたが、日本では『太陽を盗んだ男』が切り拓いた道を、誰も進もうとはしなかった」などと論じている[68]

後世への影響[編集]

本作はその前衛的な作風から、後進のクリエイターにも大きな影響を与えている[69]

映像ソフト・配信状況[編集]

2001年9月21日にはアミューズソフト販売(発売元:アミューズピクチャーズ/現:ショウゲート)からニューマスター使用のVHSビデオが3,800円で、特典映像てんこ盛りのDVD「ULTIMATE PREMIUM EDITION」が6,600円でリリース[5][17][14]。6,600円は当時の特典映像付きDVDの価格相場よりも高めだった[5]。DVDは『11PM』(読売テレビ制作)による本作の特集番組や、長谷川の友人でもある上田正樹が本作のロケ地を案内する特別番組、本作のファンを自認する永瀬正敏樋口真嗣と長谷川との対談動画などが収録された[5][14]。2006年に特典映像なしのDVDが再リリースされた[88]。なお、音響はDVD化にあたって、ドルビーデジタル5.1chにリミックスしている[5][89](公開当時はドルビーモノラル)。

ブルーレイ版は未発売だが、2020年からはNetflixでの配信が開始された[3]。このほか、iTunesでも販売されている[90]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 劇中では実際の東海村にある施設ではなく、横須賀火力発電所の外観をそれに見立てて映している(発電所の内部シーンはスタジオセットで撮影)。
  2. ^ この時、不注意で多量の放射線を浴びており、中盤以後は毛髪が抜けるなど障害に苦しむ場面が散見される。
  3. ^ 本作公開の1979年当時、世界では8カ国が核兵器を保有しており、誠自身がそれに続く9番目の保有者という意味での名称。劇中の誠の台詞にもあるが、当時の核保有国はアメリカソ連(当時)中国フランスイギリスインド、それに非公式保有のイスラエル南アフリカ共和国も加えて8カ国。なお、劇中で誠は南アフリカを「南ア連邦」と呼んでいるが、当時既に同国はイギリスから完全独立して共和国に移行していた。
  4. ^ 当時、1973年に予定されていた日本公演がメンバーのマリファナ所持により中止となり日本ではライブが一度も行われていなかった。
  5. ^ 逆探知時間を短縮できるかわりに、逆探知中は東京中の電話が不通になるという設定。
  6. ^ a b オープニングでは沢田研二→菅原文太の順、エンディングでは菅原文太→沢田研二の順でクレジットされている。
  7. ^ 精神科医の香山リカとは同名異人の子役である。
  8. ^ クレジットでは「鈴木達麿」と表記。
  9. ^ この他に劇中では、誠が観ていたテレビのナイター中継終了後に、公開当時のファミリアのCMが映り込む場面がある。余談だが、本作公開の約1ヶ月後には日産からブルーバード910型が登場、沢田がCMキャラクターを務めた。
  10. ^ 出典では銀座となっているが、一万円札をばら撒くシーンの撮影が行われているのは当時の東急百貨店日本橋店(現存せず、2016年の時点では日本橋一丁目三井ビルディング)周辺である。遠景で日本橋上空の首都高速都心環状線の高架に橋名板が掲げられているのが確認できる。
  11. ^ 時間はおおむね30~60分で、延長しても試合終了まで放送されない事例もあった。
  12. ^ 娯楽大作映画を考える上で、1970年代の3本の重要な映画として、興行的に成功した『日本沈没』、失敗した本作と『新幹線大爆破』を挙げている。

出典[編集]

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関連項目[編集]