孕石元泰

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孕石 元泰(はらみいし もとやす、生年不詳 - 天正9年(1581年)3月23日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将今川氏武田氏の家臣。通称は藤六、主人。主水佑・和泉守を自称。の「元」は今川義元の偏諱と思われる。

生涯[編集]

今川氏の家臣・孕石光尚の子として誕生。孕石氏は遠江国原田荘(静岡県掛川市)を本拠とする原氏の庶流の一族で、孕石村を本拠とした。元泰の祖父にあたる行重のころより今川家臣となる。

はじめ今川氏に仕え、朝比奈信置岡部元信と並ぶ駿河先方衆の1人であったが、永禄11年(1568年)の武田信玄駿河侵攻によって今川氏から離反し、武田氏の家臣となった。天正9年(1581年)3月22日、三河国徳川氏の侵攻により高天神城は陥落すると捕らえられ、翌3月23日に切腹させられた[1]

なお、降伏者で切腹を申しつけられたのは孕石一人であった。切腹の際、極楽があると信じられた西方向ではなく、南に頭を向けて腹を切ろうとし、それを指摘されても、敢えて方角を直さなかったと言われている[2]

家忠日記』『三河物語』に拠れば、今川家臣時代は人質時代の徳川家康と屋敷が隣り合わせであった。鷹狩りが好きな家康が放った鷹が獲物や糞を隣家の孕石の屋敷に落としており、度々苦情を申し立てていた。そのことに腹を立てていた家康により数十年後ののち彼は切腹させられたのである。

子の孕石元成は、土佐山内氏に仕えた。

脚注[編集]

  1. ^ 『家忠日記』『三河物語』。
  2. ^ 大久保忠教1620s『三河物語』

家族[編集]

参考文献[編集]