学徒勤労動員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動

学徒勤労動員(がくときんろうどういん)または学徒動員(がくとどういん)とは、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである。

沿革[編集]

日中戦争が進展するにしたがい、労務動員に多くの要員が求められた[1]

1938年(昭和13年)
  • 6月9日、文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒した[1]。これにより、学生・生徒は夏季休暇の始期終期その他適当な長期休業中に中等学校低学年は3日、それ以外は5日の勤労奉仕することを義務付けられた。農事、家事、清掃、修理、防空施設や軍用品に関する簡易な作業などが内容であった[1]。同年、国家総動員法が制定された。
1939年(昭和14年)
1941年(昭和16年)
  • 2月、青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項において1年のうち30日以内の木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等を授業として認めた[1]1941年8月には学校報国隊が結成された[1]
  • 10月16日、勅令で大学・高等学校・専門学校の修業年限の短縮が通達され、文部省は省令「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」を公布し、大学・専門学校・実業専門学校の修業年限を三か月短縮した[1]
  • 11月1日、1942年度は予科・高校をくわえ6か月短縮と決定し、繰り上げ卒業はじまる。
1943年(昭和18年)
  • 戦争拡大にともない、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、6月25日に東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、学校報国隊を強化し、戦技・特技・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行った[1]
  • 10月12日、閣議で、教育ニ関スル戦時非常措置方策を決定し、理工系系統および教員養成諸学校学生のほかは徴兵猶予を停止し、義務教育8年制を無期延期し、高等学校文科を3分の1減じ、理科を増員し、文科系大学の理科系へ転換し、勤労動員を年間3分の1実施するなどがもりこまれた。
1944年(昭和19年)
  • 1月8日、政府は「緊急国民勤労動員方策要綱」と「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議決定した[1]。学徒勤労動員は年間4か月を継続しておこなうこととする。
  • 2月25日、「決戦非常措置要綱」を閣議決定した[1]
  • 3月7日、「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員の通年実施、学校の種類による学徒の計画的適正配置、教職員の指導と勤労管理が閣議決定され、文部省は詳細な学校別動員基準を決定した[1]
  • 4月には全国学徒は軍需工場へ動員された[1]。文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を発令した[1]
  • 7月10日、閣議で、科学技術者動員計画設定要綱を決定し、航空機の生産増強のための理科系学校卒業者の動員、科学技術者の短期養成計画などがもりこまれた。
  • 7月11日の「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」閣議決定によって、学徒動員の強化が目指され、文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課するなどを指令した[1]
  • 8月23日、学徒勤労令女子挺身勤労令と同日に公布された[1]。これにより、学徒勤労動員に法的措置をおこない、大学・高専の2年以上理科系学徒1000人にかぎって勤労動員より除外し科学研究要員とする。
  • 12月、「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定した[1]
  • 12月1日、閣議で、中等学校の新規卒業予定者の勤労動員の継続を決定。

1945年(昭和20年)

  • 3月18日には「決戦教育措置要綱」を閣議決定した[1]。これにより、国民学校初等科以外の、4月からの1年の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられた。
  • 5月22日、「戦時教育令」が公布された[1]。これにより、全学校・職場に学徒隊を結成。10月5日、廃止。
  • 7月11日、勅令で、文部省に学徒動員局を設置。

動員率[編集]

動員率は1945年3月現在の統計では以下の結果となっていた。

1945年(昭和20年)8月15日の終戦の詔勅を聞いた動員学徒は340万人であった[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 戦時教育体制の進行」文部省『学制百年史』

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 文部省『学制百年史』昭和56年9月5日、帝国地方行政学会。