孫皇后

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孝恭章皇后孫氏

孫皇后(そんこうごう、1390年代 - 1462年)は、宣徳帝の皇后。孝恭章皇后(こうきょうしょうこうごう)の諡号を贈られた。

経歴[編集]

鄒平の人。永城従九品主簿の孫愚と董氏の娘。知的で容姿も美しかった。

永楽8年(1410年)、10代の時、太子妃張氏(のちの誠孝皇后)の母の薦めで、太子(のちの洪熙帝)の邸に入り、朱瞻基(のちの宣徳帝)を見初め、互いに慕い合った。しかし永楽15年(1417年)、胡善祥永楽帝に召されて朱瞻基の妃(正室)となり、孫氏は嬪(側室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して、胡善祥をあまり寵愛しなかった。

洪熙帝が即位すると皇太子嬪に立てられ、宣徳帝が即位すると貴妃に立てられた。宣徳3年(1428年)、男子朱祁鎮(英宗)を産んだ[1]。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃されて、清寧宮に移され、代わって孫氏が皇后に立てられた。孫愚は孫忠と改名して、会昌伯に封じられた。

宣徳10年(1435年)、英宗が即位すると、皇太后となった。正統14年(1449年)、英宗が土木の変で捕虜になると、景泰帝を擁立し、上聖皇太后と改称された。

景泰8年(1457年)、大議を裁決して、幽閉されていた英宗を立てて復辟させた。 天順6年(1462年)、崩じた。孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后された。

子女[編集]

  • 常徳公主 - 薛桓に降嫁した。
  • 朱祁鎮(英宗)

伝記資料[編集]

  • 『明宣宗実録』
  • 『明英宗実録』

脚注[編集]

  1. ^ 外史によると、宮人の子を取って自分の子として養った。