宋翻

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宋 翻(そう ほん、生年不詳 - 530年)は、北魏官僚は飛烏。本貫広平郡列人県

経歴[編集]

吏部尚書の宋弁の族弟にあたる。宣武帝の初年、奉朝請を初任とし、司州治中や広平王郎中令をつとめた。まもなく河陰県令に任じられた。ときに順陽公主の家奴が強盗をおこなったが、公主側がその身柄を送ってこなかったため、宋翻は公主の邸宅を兵で包囲し、公主の婿の馮穆を捕らえて炎暑のただ中を向県まで歩かせた。この事件は宣武帝の怒りを買ったが、宋翻は帝に申し開きをしたので、罰せられることはなく、その威名が世間に広まった。

弟の宋道璵が京兆王元愉の下で冀州法曹行参軍をつとめており、508年永平元年)に元愉が反乱を起こすと、道璵も反乱に同調したため、宋翻と弟の宋世景は廷尉に捕らえられた。やがて道璵は元愉を捨てて朝廷側に投降した。道璵は死罪となったが、宋翻と宋世景は官爵の剥奪にとどまった。長らくを経て、宋翻は治書侍御史・洛陽県令・中散大夫・相州大中正として任用された。さらに左将軍・南兗州刺史に転じた。524年正光5年)、南朝梁裴邃らを派遣して荊山を占拠し、寿春の外城を陥落させると、梁軍は勝勢に乗じて項城まで進軍してきた。宋翻は部将の成僧達を派遣して伏兵を布かせ、梁軍を襲撃して撃破させたため、南兗州への侵入を防ぐことができた。

孝荘帝のとき、司徒左長史・撫軍将軍・河南尹に任じられた。洛陽統治において、当時の権力者におもねったため、かつての名声を大きく損なった。530年永安3年)、在官のまま死去した。侍中衛将軍・相州刺史の位を追贈された。孝武帝の初年、さらに驃騎大将軍・儀同三司・尚書左僕射・雍州刺史の位を贈られた。は貞烈といった。

子の宋思遠は、司空従事中郎となった。

伝記資料[編集]