宗重遠

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宗 重遠(そう しげとお、1848年6月11日嘉永元年5月11日[1] - 1930年昭和5年)3月10日[2])は、日本武士久留米藩士)、剣術家(津田一伝流大日本武徳会剣道範士)。

経歴[編集]

久留米藩士・宗秀次郎の二男として出生。はじめ小源太あるいは栄と称した[1]。幼少時より津田一伝流開祖津田正之に入門して剣を学び[1]、17歳で免許を得る[3]

幕末期には藩命により京都御所守衛のために上京、また久留米では常備隊の半隊長を務めた[1]廃藩後は剣を捨て、1886年明治19年)から1909年(明治42年)までは地方行政に貢献し、浮羽郡会議員、吉井町町長、椿子村浮羽村組合村長などを歴任した[1]

後年は剣に復帰し、1921年大正10年)9月には大日本武徳会から剣道範士号を授与され、天覧試合の栄を受けた[1]。大日本武徳会の試合では門奈正中山博道に「最も難しい相手だった」と言わしめた[3]。また、学校や軍隊などにおいて剣道の指導に当たった[1]

1923年(大正12年)、東京府在住の長男宅に隠居[1]1930年昭和5年)3月10日没、享年83。墓所は横浜市鶴見区總持寺にある[2]

系譜・家族[編集]

筑後宗氏は武藤資頼の末裔であり、対馬藩主・宗氏と同族である。元禄年間に宗政盛(1640年 - 1703年)が久留米藩第4代藩主有馬頼元に召し抱えられて武家礼法と武術の指南にあたり、宗家は以後代々久留米藩に仕えた[1]

父の秀次郎(盛興、1814年 - 1872年)も弓馬の術に通じた[1]。兄の小次郎(弘毅、1845年 - 1903年)は幕末に応変隊参謀などを務め、維新後は御井郡など各郡の郡長を歴任、官吏として山梨県などに赴任した[1]

妻は久留米藩士喜多村弥六(吉尚)の娘フサ[1]。子は5男1女[1]。長男の正路(1883年 - 1962年)は電気・無線電信の研究者であり、東京電気株式会社(現・東芝)取締役を務めたのち、宗電子工業株式会社を創業した[1]。三男の小柳貫之(1891年 - 1944年)は京都帝国大学第三高等学校で剣道師範となった[4]

孫の宗道臣少林寺拳法の創始者である。

参考文献[編集]

  • 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)
  • 宗勇行『宗家系譜』(1976年)

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『久留米人物誌』p.305
  2. ^ a b 『久留米人物誌』p.306
  3. ^ a b 月刊剣道日本』1976年11月号 p.36(スキージャーナル)
  4. ^ 『久留米人物誌』p.240