寺田勇吉

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寺田勇吉
Terada Yukichi in 1916.jpg
誕生 (1853-07-17) 1853年7月17日嘉永6年6月12日
武蔵国江戸四ツ谷(現・東京都新宿区
死没 (1921-10-11) 1921年10月11日(68歳没)
職業 官吏教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京開成学校鉱山学科(中退)
代表作 『育児論』(1892年)、『学校改良論』(1898年)、『寺田勇吉経歴談』(1919年)
配偶者 恒子(篠本信也三女)
子供 長子(長女・山中新太郎妻)、高子(次女・橋爪哲造妻)、吉子(三女・田島勝太郎妻)、勇一(長男)
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寺田 勇吉(てらだ ゆうきち、1853年7月17日嘉永6年6月12日[1]) - 1921年大正10年)10月11日[2])は明治時代から大正時代にかけての日本文部官僚教育者

東京高等商業学校一橋大学の前身)、日本橋高等女学校(日本橋女学館高等学校の前身)校長、日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)女子部長、九段精華高等女学校長を歴任した。

経歴[編集]

東京府出身。幕臣の子として生まれ、戊辰戦争の際には彰義隊に加わった[1]1970年明治3年)より大学南校開成学校)で、ドイツ学・鉱山学を学び、1874年(明治7年)より鉱山局に出仕した[1]1878年(明治11年)より太政官に出仕し、東京外国語学校教諭、大学予備門教諭、第一高等中学校教諭を務め、外国語教育に当たった[3]。欧米諸国への視察を経て、文部省参事官・第一高等学校教授、文部書記官・文部省参事官、視学官を歴任[3]1902年(明治35年)、高等商業学校校長に就任した[3]

その後、東京市教育会の設立や日本橋高等女学校の創設に加わった[3]1905年(明治38年)、精華学校を開校し、1911年(明治44年)には九段精華高等女学校を開校した[3]。さらに日本体育会体操学校女子部の運営にもあたった[3]

栄典・授章・授賞[編集]

著作[編集]

寺田勇吉
著書
訳書
編書
  • 『万国統計表』 嘉村今朝一共編、山中市兵衛、1882年11月
  • 独英和 三対字彙大全』 高良二共訳、共同館、1886年1月
  • 独英和 三対小字彙』 保志虎吉共著、共同館、1893年9月
  • 『商工修身教科書』 古川義天共編、中外図書局、1905年3月(4冊)

脚注[編集]

  1. ^ a b c 人事興信録 1915.
  2. ^ 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
  3. ^ a b c d e f 寺田勇吉特旨叙位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A11112966800 
  4. ^ 『官報』第379号「賞勲叙任」1884年10月1日。

参考文献[編集]

  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。

関連文献[編集]

  • 前掲 『寺田勇吉経歴談』
  • 青木清隆 「寺田勇吉の生涯と業績」(見形道夫先生退職記念論集刊行会編 『見形道夫先生退職記念論集 体操とスポーツと教育と』 見形道夫先生退職記念論集刊行会、1989年12月)
  • 恩田裕 「休暇集落の成立過程」(『教養論集』第12号、成城大学法学会、1995年12月、NAID 110000536922


その他の役職
先代:
(新設)
私立九段精華高等女学校長
1911年 - 1921年
次代:
湯本武比古
先代:
校長
加納久宜
私立日本体育会荏原中学校長代理
1912年 - 1915年
次代:
代表者
宗宮信行
先代:
浦田治平
私立日本橋高等女学校
1907年 - 1908年
次代:
田中敬一