対華21ヶ条要求

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対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中、日本中華民国政府に行った21か条の要求と希望。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)。これを境に日本と中国のナショナリズムは袂を分かった。

目次

経緯

第一次世界大戦において中華民国は中立であったが、日本の対独宣戦布告に対し、山東半島において交戦区域を設定し自国領内での日独の戦闘を容認していた。しかし、日本軍は交戦区域外に進出、維県(三水の維)を占領し、青島攻略後も中国領の占領を継続した。中華民国政府は交戦区域からの逸脱に抗議し、日本の膠済鉄道(山東鉄道)管理権要求を拒否し、青島陥落後は交戦区域全廃止しドイツ租借地外の日本軍の撤収を要求している。

しかし日本は要求に応じず、山東支配の確立と、従来の権益の拡大を求めて、1915年大正4年)1月18日大隈重信内閣加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。

  • 第1号 山東省について
    • ドイツ山東省に持っていた権益を日本が継承すること
    • 山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
    • 芝罘または竜口膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
    • 山東省の主要都市を外国人の居住・貿易のために自ら進んで開放すること
  • 第2号 南満州及び東部内蒙古について
    • 旅順大連関東州)の租借期限、満鉄安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
    • 日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
    • 日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
    • 日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
    • 他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
    • 政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
    • 吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
  • 第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について
    • 漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
    • 漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
  • 第4号 中国の領土保全について
    • 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
  • 第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他
    • 中国政府に政治経済軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
    • 中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
    • これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること
    • 一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
    • 武昌九江を連絡する鉄道、および南昌杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
    • 福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
    • 中国において日本人の布教権を認めること


これらの要求は、当時においてはそれまでロシアフランスイギリスドイツなどが要求してきたところと比べて、特に過酷なものとはいえなかった。日本が中国に特殊利益を有することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文あるいは黙示を以って承認していたが、アメリカとドイツは承認していなかった。3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と述べた[1]

日本の要求書を受けとった袁世凱は、即答を避け、ポール・ラインシュ米公使やヒンツェ独公使らと緊密な連絡をとり、相計って国内世論を沸騰させ、外国に対しては、日本の要求を誇大に吹聴して列国の対日反感を挑発した。駐日英大使グリーンは加藤外相に、中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁大総統に直接申しいれてもいる、と語っている。

会談の初期、中国側は会議遷延策をとっていたが、2月6日には、第1号、第2号に関し十分に考慮し、第2号は吉長線に関することを除きできる限り譲歩すると返答した。ただ、第5号については応じられないという姿勢であった。また中国側は、第2号の第2条と第3条は南満州についてだけ認め、東蒙古を除外しようとしたが、日本側は、東部内蒙古は、地理上南満州と分離できない一地域を形成し、歴史上、行政上、経済上ならびに交通上、互いに密接な関係を有しており、また1912年の露蒙協定付属通商議定書において、第1条は「ロシア人は蒙古内において随所に居住し、自由に移転し、商工業その他の業務に従事できる」、第6条は「ロシア人は蒙古の随所で商工業上の経営所を創設し、諸家屋、店舗および倉庫を建設するため、指定地を賃借することができる」となっており、日本に対してこれと同じことを東蒙古で認めないのは到底承認できない、と主張した[1]

3月3日、日置公使は第6回会議で、「元来、革命の乱が勃発した当時、シナの大半は粉々としてあたかも鼎の沸くような情勢であったにもかかわらず、南満州と東部蒙古が乱離の禍から免れえたのは、まったく日本が何らの野心をも抱かないで、終始公明正大な態度を持し、努めてこの両地方の秩序維持に留意したことと、日本がこの方面において特殊の地位を保有していた結果にほかならない。もし万一、日本がこの機会に乗じてある種の行動をとった場合には、南満州も東蒙もあるいは今日の外蒙古と同様の運命に遭遇したかもわからない。ついては日本国のこの公明正大な心事とその優越する特殊地位に顧みて、中国政府は速やかに満蒙におけるわが優越なる地位を確認し、第2号から東蒙を除外する考えを翻してほしい」と述べた。全権の陸徴祥外交総長は「革命の乱当時における事情、ならびに日本国の態度は、まことに貴説の通りである。これらの事情からして中国は、今回南満洲に関し条約締結の商議に応ずる次第である」と答えた[1]

5号条項は秘密・希望条項とされていたが、中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。日本は5号条項を後に撤回した[2]。中国国内でも反対運動が起こったが、中国側に日本軍を実力で排除する力は無く、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。袁世凱は自己の地位を強固にするために、日本の横暴を内外に宣伝して中国国民の団結を訴えた。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と呼んだ。

アメリカは、満洲における租借地と鉄道の租借期限延長に対しては、特別の反対はなかったが、山東省を満洲と同様な日本の勢力範囲とすることに対しては絶対反対であった。イギリスも、満洲における租借地と鉄道の租借期限の延長には賛成協力したが、長城以南においては最大の競争相手と考える日本を強く警戒し、第5号案を同盟国にも秘密にしたことで不信感を強くし、武昌・九江間の鉄道、南昌・潮州間の鉄道に関する要求に対しては、イギリスの利益を侵害するものとして、3月10日に日本政府に考慮を求めた[3]

アメリカは3月15日に、日本の提案第1号と第2号とはこれを問題にする考えはないという書簡を送ってきたが、5月6日ブライアン国務長官は、英仏露三国に呼びかけて日中両国に協同干渉をするよう提議して、三国当局から拒絶されると、5月13日、中国の領土保全、門戸開放の原則、および中国におけるアメリカやアメリカ人の権利と抵触する条約・協定・了解はすべて、アメリカとして承認しない、と通告した。

5月7日、イギリスのグレイ外相は駐英井上勝之助大使に対し、「北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」と述べ、また5月10日、「5月7日朝ジョルダン公使に電報して、日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、非公式に強い勧告を与えるよう訓令した」と述べた。一方、ロシアのマレヴィッチ大使は5月6日、「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。袁世凱は最後通牒を待っているものと思われる」と加藤高明外相に述べた。さらに、日本の対華21カ条要求に対し特に異議のなかったフランスに、石井菊次郎大使が最後通牒の説明を行った際、デルカッセ仏外相は「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」と述べた[1]

一方、孫文は3月中旬、外務省の小池張造に書簡を送り、日中盟約案として提案した。その内容は第五号の4、5、6条の趣旨に符合するものであった。まだ日本に期待していた孫文にとって、苦渋の選択だった。また、進歩派知識人の代表格であった吉野作造は「事ここに至れば最後通牒を発するの他にとるべき手段はない」と断じた。

特徴

この要求の草案は非常に短時間で作られたものであり、要求は希望条項を除いて、現在から、過去に起こった事項に関する事へと順に遡って記述されるという特徴的な構成となっている。

交渉の結果、第5号希望条項は棚上げされ最終的には十六ヶ条が5月25日、条約として結ばれた。

その後の展開

締結直後に中華民国は「懲弁国賊条例」を公布した。これは日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処すもので、土地商租権は調印と同時に早くも空文と化した。 中国の門戸開放(Open door)を唱えるアメリカは、日本の対中政策との妥協点を求め、1917年石井・ランシング協定を結んだ。1919年、大戦後のパリ講和会議でも日本の要求が認められたが、中国国内では学生デモを発端に各地でストライキが起こり、軍閥政権は屈服した(五四運動)。日本の中国政策を批判する国際(特にアメリカの)世論が高まり、ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた二国間協議で、日本は山東省権益などを放棄した。

中国側は、満洲における日本の権利は、21ヶ条要求に際し、威圧の下に引き出されたものだから、無効であると主張した。もし無効ならば、日本の満州における権利はポーツマス条約にまでさかのぼって決められることになり、露清密約が明らかになったので、日本は中国への賠償要求どころか、南満州全域を併合しても不思議ではなかった。また、無効論が容認されるなら、日本が三国干渉により清国と締結した遼東半島還付条約も無効と主張できる[1]

孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言した。また、加藤高明外相は、最後通牒は、譲歩する際に中国国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである、と公然と認めた。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュ(Paul S. Reinsch)の国務省への報告書には、「中国側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とある[4]。最後通牒の手交を必要としない状況において最後通牒を強行したことは、中国国民の民族主義を軽視した日本外交の失敗であった[5]

正式な名称と「通称」

対華21ヶ条要求には正式な名称は存在しない。したがって、次のような言い方は、いずれも"通称"であり、いずれも間違いとはいえない。

  1. 「対華」、「対支」、「対中」、または入れないか
  2. 「5号」、「五号」、または入れないか(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い)
  3. 「21」、「二十一」、「二一」(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い)
  4. 「か条」、「ヵ条」、「カ条」、「ヶ条」、「ケ条」、「箇条」、「個条」、「条」
  5. 「の要求」、「要求」、または入れないか

これらの通称を用いる場合には、通称であることを明確にするため、「いわゆる」を言葉の前につけることがより望ましい、とする考え方もある。

なお、このような通称が用いられるようになった経緯(いつ誰がどのような形で使い始め、どのような過程で一般的な用語となっていったのか)は、不明である。

ちなみに、岩波書店から出版されている4つの年表(いずれも横書き)を見るだけでも、「5号21か条の要求」(『近代日本総合年表 第四版』2001年)、「対華21か条要求」(『世界史年表 第二版』2001年)、「対華21か条の要求」(『日本史年表 第四版』2001年)、「対中21ヵ条要求」(『近代日中関係史年表』2006年)と、表現はまるでばらばらである。

また、最近の中学校等で扱われる教科書で掲載されているものには、『二十一か条の要求』と表記されている場合が多い。

注釈

  1. ^ a b c d e 渡辺明『満洲事変の国際的背景』
  2. ^ 山上正太郎 『第一次世界大戦 : 忘れられた戦争』 講談社<講談社学術文庫>、2010年、pp.70-71 ISBN 978-4-06-291976-0
  3. ^ 伊東六十次郎『満洲問題の歴史』
  4. ^ 米国人の観たる満洲問題(太平洋問題調査会、1929年)
  5. ^ 伊東六十次郎『満洲問題の歴史』

関連項目

ウィキソース
ウィキソース対華21ヶ条要求の原文があります。



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