封津

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封 津(ほう しん、477年 - 538年)は、北魏東魏宦官は醜漢。本貫渤海郡蓨県

経歴[編集]

封令徳の子として生まれた。令徳は常宝の娘を妻としており、常宝が処刑されると、令徳は連座して処断された。このとき封津は宮刑を受けて、後宮に仕える宦官となった。

諸官を歴任して、中謁者僕射に任じられ、奉車都尉に転じた。515年延昌4年)、冀州大乗の乱が起こると、封津は孝明帝の命を受けて軍の慰労にあたった。後に常山郡太守に転じた。525年孝昌元年)、中侍中となり、征虜将軍の号を加えられた。そのまま崇訓太僕に任じられ、宮室都将・冀州大中正を兼ねた。さらに金紫光禄大夫の位を受けた。526年(孝昌2年)、東光県開国子に封じられ、鎮南将軍の号を受け、関右の諸軍の慰労にあたった。後に散騎常侍・征東将軍・済州刺史として出向した。528年永安元年)、中侍中・衛将軍となった。まもなく大長秋・左光禄大夫に転じた。532年太昌元年)、驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた。

534年天平元年)、開府儀同三司・懐州刺史に任じられた。538年元象元年)、中侍中・大長秋卿となった。この年の夏に死去した。享年は62。都督冀瀛幽安四州諸軍事・驃騎大将軍・司徒公・冀州刺史の位を追贈された。は孝恵といった。

兄の子の封長業を養子として、爵位を嗣がせたが、北斉が建国されると、爵位を降格された。

伝記資料[編集]