ガイウス・マリウス (紀元前82年の執政官)

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ガイウス・マリウスラテン語: Gaius Marius, 紀元前110年/紀元前108年 - 紀元前82年)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。ポプラレス(民衆派)の首領で、執政官に7度選出されたガイウス・マリウス(以下、大マリウス)の息子であり、一般に小マリウスGaius Marius Minor)の名でも知られる。

生涯 [編集]

紀元前110年または108年にローマで生まれた。父は大マリウス、母のユリアは後に終身独裁官となるガイウス・ユリウス・カエサルの叔母に当たり、カエサルはマリウスの母方の従兄弟となる。カエサルは後にマリウス父子を高く評価した。マリウスは青年期の数年間をギリシア人の教師に学んだが、同窓にはティトゥス・ポンポニウス・アッティクスおよびマルクス・トゥッリウス・キケロがいた。

紀元前86年1月に父が死去、父に次ぐポプラレスの指導者であったルキウス・コルネリウス・キンナ紀元前84年に殺害されると、マリウスは父が支持基盤としたポプラレスの支持を得ようとしたが、父ほどのカリスマ性を持たなかったことから、父の威光を楯にしてその支持を獲得したと伝えられている。

紀元前83年より、オプティマテス(閥族派)を率いるルキウス・コルネリウス・スッラがローマへ向けて軍事侵攻を開始した。マリウスは紀元前82年の執政官に選出され、ムキア・クィントゥス・スカエウォラ(en)の娘と結婚した。

紀元前82年、スッラ軍とマリウス軍はサクリポルトゥス(de、現:コッレフェッロ近郊)で戦ったが、マリウス軍は敗北を喫した。マリウスは残存の7,000の兵と共にプラエネステ(現:パレストリーナ)へ退いて籠城したが、スッラ軍のレガトゥス(総督代理)であったクィントゥス・ルクレティウス・オフェッラ(en)によってプラエネステは完全に包囲され、陥落を前にして自殺して果てた。マリウスの自決後にプラエネステの男性市民が虐殺されたと伝わっている。