小出吉親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
 
小出吉親
Koide Yoshichika-cropped.jpg
小出吉親像(徳雲寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 天正18年(1590年
死没 寛文8年3月11日1668年4月22日
別名 助九郎(通称
戒名 福源院松渓玄秀
墓所 東京都練馬区広徳寺
戸倉山山頂(小出氏廟所)
官位 従五位下加賀守信濃守対馬守伊勢守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠家光家綱
但馬出石藩主、丹波園部藩
氏族 小出氏
父母 小出吉政伊東治明
兄弟 法眼院、吉英吉親、吉景、吉成、松平忠明継室
本多正重
青龍院、杉原重長正室、加藤直泰正室、
英知板倉重矩正室、一柳直次
半井成忠室、井上正義正室、小出吉明室、井上正義継室、某、小出重治室、金森七之助室
吉直 [1]吉忠
テンプレートを表示

小出 吉親(こいで よしちか)は、江戸時代前期の大名但馬国出石藩3代藩主、のち丹波国園部藩初代藩主。吉親系小出氏初代。

略歴[編集]

天正18年 (1590年)、小出吉政の次男として大坂で生まれた。母は伊東治明の娘。

慶長3年(1598年)、太閤豊臣秀吉の命により従五位下加賀守に叙任された。慶長8年(1603年)、信濃守に改められ、江戸に至って徳川家康に拝謁した。慶長10年(1605年)、徳川秀忠の上洛に随従し、4月26日の参内に供奉した。慶長15年(1610年)、上野国甘楽郡に2000石の知行を与えられた。

慶長18年(1613年)に父吉政が没すると、兄吉英が家督を継いで和泉国岸和田藩の遺領に移ったため、吉親は兄の出石城と父の所領の一部を継承し、但馬国出石郡気多郡美含郡養父郡から、2万7700石を領することとなり、併せて2万9700石(約3万石)の大名となった。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、兄と共に天王寺口の攻撃に参加した。大坂夏の陣の際には落城時に大鍬兼保(薄田兼相の弟)や大野一族らの三百余を討ち取った。また兄と同じく堺浦の警備にあたり、豊臣方の捕縛を行った。両役で吉親は67の首級を上げた。

元和5年(1619年)に兄が出石に再封されて戻って来ることになったため、吉親は新たに丹波国園部に移封され、丹波国船井郡桑田郡何鹿郡、上野国甘楽郡[2]の4郡で併せて2万8000石を領し、園部藩を立藩した。そして同地に園部城を築城した。元和7年(1621年)、有馬豊氏の移封に伴い、一時的に福知山城に入ってこれを守った。寛永元年(1624年)の大坂城普請に参加。

寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に従い、後水尾天皇二条城行幸の際に供奉に列した。この時、対馬守に改めた。寛永19年(1642年)、上方の郡奉行となり、伊勢守に改める。寛文2年(1662年)、養子の吉直[1]に3千石を分知する。寛文7年(1667年)、家督を長男の英知に譲って隠居し、所領より養老料として5千石をあてられる。

寛文8年(1668年)、園部にて死去した。享年79。下谷広徳寺に葬られた。法名は福源院松渓玄秀。

系譜[編集]

  • 父:小出吉政(1565-1613)
  • 母:伊東治明の娘
  • 正室:本多正重の娘
  • 生母不明の子女
  • 養子:
    • 男子:小出吉直 - 一柳直頼の次男
    • 男子:小出吉忠 - 一柳直次の三男

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 一柳直頼の次男。
  2. ^ 後年に上野国の領地は丹波国の領地と交換された。

参考文献[編集]