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小室哲哉

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小室 哲哉
MTV VMAJ 2014 Tetsuya Komuro (cropped).jpg
MTV Video Music Awards Japan 2014」のレッドカーペットに登場した小室哲哉。
基本情報
別名 t[注釈 1]
t.komuro[注釈 2]
TK
TECHI KOMURO[注釈 3]
TETSUYA KOMURO[注釈 4]
Tetsuya Komuro
Tetsuya_Komuro[注釈 5]
TETSUYA "TK" KOMURO[注釈 6]
566[注釈 7]
DJ TK[注釈 8]
t.tek 2[注釈 9]
TAN DK[注釈 10]
Lifecell[注釈 11]
Digital "Cheap" Snake[注釈 12]
スーパーウェーブ小室[注釈 13]
生誕 (1958-11-27) 1958年11月27日(59歳)
出身地 日本の旗 東京都府中市
学歴 早稲田大学社会科学部中退[1]
ジャンル J-POP
テクノポップ
テクノ・ダンス・ミュージック
EDM
ジャングル
トランス
ニューエイジ
R&B
ヒップホップ
プログレッシブ・ロック
オルタナティヴ
職業 音楽プロデューサー
作詞家
作曲家
編曲家
トラックメイカー
キーボーディスト
シンセシスト
シンセサイザープログラマー
ミキシングエンジニア
DJ
担当楽器 キーボード
シンセサイザー
ピアノ
ギター
ベース
ドラムス
コーラス
ボーカル
オルガン
ブルースハープ
活動期間 1975年 - 2018年
レーベル Sony Music Entertainment
/Epic/Sony Records
/TRUE KiSS DiSC
(1984 - 2000)
avex trax
/avex globe
(1991 - )
パイオニアLDC
/ORUMOK RECORDS
/factoryorumok
/Tatsumaki Records
(1995 - 2001)
PONY CANYON
/FLIGHT MASTER
(1998 - 2001)
R and C
/gaball screen
(2001 - 2007)
Syn Songs
(2006 - )
事務所 Jun & Kei
(? - 1994)
Office TIMEMACHINE
(1983 - 1994)
OPERA GIG
(1992 - 1994)
Antinos Management
(1993 - 2000)
TK state
/TK MUSEUM
/TK state America MUSEUM
/TK SEQUENCE
/TK SEQUENCE America
/TK ENTERTAINMENT SERVE
/Prime Direction TK Room
/tetsuya komuro rise
(1993 - 2000)
Rojam Entertainment
(1998 - 2004)
吉本興業
(2001 - 2007)
Tribal Kicks
(2004 - 2007)
TKCOM
/Empire Play Music
/イーミュージック
(2007 - 2008)
Avex Management
/a nine
(2009 - )
共同作業者 宇都宮隆
木根尚登
久保こーじ
浅倉大介
YOSHIKI
松浦勝人
松尾和博
DJ KOO
岩佐俊秀
志村明
溝口和彦
KEIKO
マーク・パンサー
安室奈美恵
公式サイト avex公式サイト
著名使用楽器
YAMAHA-KX1 / KX5 / KX76
Synclavier 6400
Roland JD-800
Fantom-G6 / G7 / G8
Clavia・Nord Lead 3
Access Virus・Virus Indigo 2 Redback

小室 哲哉(こむろ てつや、1958年昭和33年〉11月27日 - )は、日本ミュージシャン音楽プロデューサー東京都府中市出身、東京多摩振興特命武蔵国府中大使[2]。元尚美学園大学芸術情報学部教授。妻はglobeボーカルKEIKO。愛称は「てっちゃん」「先生」「TK」など。身長167cm、体重57kg。

目次

略歴

学生時代

3歳から東京芸術大学教授の下でヴァイオリンのレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。小学生の頃から既にクラシックのインストゥルメンタルの楽曲を作っていた[3]。小学5年生、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の親戚の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた[4]。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さに影響を受けた[5]

音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている[6][7][8]日本万国博覧会シンセサイザーマニピュレーターマルチモニター・12チャンネルステレオを背景に演奏する冨田勲を間近で見て、「もしモーツァルトの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える[9][10]

家にあったギター・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「ローランドSH1000」を購入した。渡辺美里の「きみに会えて」「BELIEVE」「嵐ヶ丘」「I wish」・TM NETWORKの「Here, There & Everywhere (冬の神話)」等後に提供する楽曲の雛型約20曲をその頃に作曲したという[11][9]

早稲田実業学校高等部商業科に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという[9]。この頃からELPピンク・フロイドレッド・ツェッペリンキング・クリムゾンT.Rexユーライア・ヒープコモドアーズKool & the GangEarth, Wind & Fireドナ・サマーディープ・パープルYes等の洋楽をプログレッシブ・ロックファンクを中心に漁るように聞いた[12][13]。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、キース・エマーソンリック・ウェイクマンジョン・ロードキース・ジャレットジョー・サンプルデイヴ・グルーシン等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン[注釈 14]・キース・ジャレット[注釈 15]に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。その他にもミュージカル作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーの次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した[注釈 16]

早稲田大学社会科学部[1]に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する[注釈 17]。初めてのギャラは18歳でダンスパーティーの演奏代で5千円だった[17]。大学の講義にはほとんど出なかったが統計学だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた[18]。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していた為に単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために除籍となる[19]

「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「Player」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬の為の自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向はジョルジオ・モロダーELOバグルスの様な「テクノポップの方面に行き過ぎず、飽くまでもポピュラー音楽の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くダンス・ミュージックの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた[20]。そうしていく内にデモテープが小坂洋二小林和之の目に留まり[21]、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった[7]

TM NETWORK〜TMN

自身の音楽ユニットであるTM NETWORKと並行して、三浦徳子の勧めと三浦の紹介で知り合った渡辺有三の推薦[22]、「たまには他の人の曲を作るのも勉強になる」という今野敏の後押し[23]岡田有希子の「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」を皮切りに、渡辺美里荻野目洋子おニャン子クラブ福永恵規堀ちえみ中山美穂松田聖子小泉今日子宮沢りえ観月ありさ牧瀬里穂中森明菜などに楽曲を提供し、作曲家としても活躍する。その活動はTM NETWORK・ソロ活動の際の企画・制作費・プロモーションの環境整備に一役買った。特に当時共同で作業する機会が多かった大村雅朗に関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。その上で他の歌謡曲とどの様に馴染ませるか・どうフレーズとコード進行をアレンジすればヒットするかを考える時に随分助けてもらった」と語っている[24][11]

1986年(昭和61年)に渡辺美里へ提供した「My Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞。TM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場。

1988年初春から、「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作・海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室一人の仕事で費用をペイする事を条件[25]ロンドンに渡り、半年程をアパートで過ごした。部屋に置いたCP-80で曲を作り、製品盤のイメージが見えてきたらトンプソン・ツインズのプライベートスタジオに足を運んでデモテープを作り、それを郊外のレコーディングスタジオで仕上げるという現地のミュージシャンと同じスタイルでの制作活動を繰り返した[26]。あわよくば現地にて女性ボーカリストをスカウトし「TM international」というTMの姉妹ユニットを結成・世界デビューさせる計画があったが、カイリー・ミノーグの1stアルバム「Kylie」の売り上げ規模をみて、日本と海外のマーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと[25]・「キックハイハットがシンクロしていない。これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告され、自分の無力さを痛感したこと・プロデューサー集団PWL(ストック・エイトキン・ウォーターマン)の仕事を間近で見た事によりスタジオワークの面白さを知ったこと[注釈 18]ジャングルのロンドンでの浸透にショックを受けたこと[注釈 19]・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話、企画書のチェックにはFAX、デモテープの配送には郵便と用途別に使わなければならず、無駄な時間と通信費がかかり、本来の仕事に支障をきたしたこと[10]で白紙になった[9][29]。この件がきっかけでそれ以降、1年に最低でも1回はスタジオの設計と機材の研究も兼ねて、ロンドンの複数のスタジオでレコーディング作業をするようになる[30][31]

1989年(昭和64年/平成元年)にシンガーソングライターとしてソロデビュー。リードボーカルを担当した「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。1985年 - 1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル モーツァルト」の劇中音楽を手掛けた。

1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられたときに「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例える様になり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからない様な所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならない様にしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められた事もあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[9][10][32][33]。ダンス・ミュージックを主軸に打ち込み始めた理由として、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングが出来ないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんの様な涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[19]

1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作が出来て、スムーズに海を越える態勢を整え[9]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、只管に楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[34][注釈 20]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[10]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方が返って仕事がやり易いことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[36]

そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMで出来ることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストの為の曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることが出来る物ではなくなってしまった為に1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になっても尚TMの次のイメージと可能性[注釈 21]を見つけた自分に気付き、それを尊重する為に「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[39]というコンセプトから来たものである。小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している[40]

小室ブーム

1994年TMN終了前後から、観月ありさ篠原涼子trfhitomi内田有紀H Jungle with tdosglobe華原朋美安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。ソニー・ミュージックエンタテインメント丸山茂雄が小室のプロデューサー活動を支援するためにアンティノスレコードを設立し、マネジメント業務もアンティノス・マネジメント(現: ソニー・ミュージックアーティスツ)に移管した[41][42]

プロデュース手法の構築においては、1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産した、ストック・エイトキン・ウォーターマンとレコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して、「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイング長戸大幸のプロデュース手法を参考にしたとされる。実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた[41][42][9]。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作る様に指示し[33]、その延長線上でミュージシャンとして様々な実験的演出を行った[43]

1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙により1996年に終了している。

1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞[44]。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いても構わないし[注釈 22]、最初から最後まで見てくれてもいい。アーティスト・発売先・音色もお任せしますので好きにして構いません。レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝と取材を行う雑誌と放送等のメディアもチェックして下さい。ライブのスケジュールも監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到する様になり[46][47][34][48]、アーティストとしてステージに立ち、レコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出した[10]。小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった[49]

1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートした[50]

この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程[19]のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが、小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」[51]「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽が出来るようになる。自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」[42]「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」[49]と割り切った意見を述べた。

1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した[44]。1996年はglobeのアルバム「globe」が当時のオリコン記録を更新する売り上げ400万枚以上を記録。安室奈美恵のアルバムも300万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した[52]。さらに1996年から2年連続で高額納税者番付において全国4位を記録、1997年の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった[52]。1996年末には海外進出を狙いルパート・マードックと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した[52]

1997年、スピード2のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った[52]。8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、制作・生活拠点をロサンゼルスに移し、活動拠点をアジアに定めた。「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか?』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた[53][10][54]が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にデータ転送の速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」[43][55]「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオに逃げたかっただけだった」[56][57]と語っている。

ブームの失速

1998年にはtohko鈴木あみ未来玲可をプロデュースさせたものの、1996年前後の小室ブーム全盛期と比べて勢いは劣るものとなっていた。1997年より既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がポップテイストからエレクトロニカへ変化している点(特に安室奈美恵の楽曲が顕著)、小室ブーム全盛期の中心にいたTRFや安室奈美恵(出産のため休業)などが活動を縮小し、dos篠原涼子hitomi観月ありさらのプロデュースが無くなり、ミリオンセラーを叩き出した華原朋美も恋愛関係の清算により離脱する等の複合的要因で小室ファミリーの規模が縮小。ファン離れが急速に進んだ。同時に、日本の一般層に対して訴求力を持っていた明確なサビを持たせた楽曲展開を放棄し、小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、楽曲全体として抑揚の無いトランスを日本のJ-POPに導入しようとした試みが、その後の人気低迷を決定付けてしまった。

1999年には“非 小室系”のJ-POPアーティスト(宇多田ヒカル倉木麻衣浜崎あゆみモーニング娘。MISIAGLAYDragon AshDA PUMPSPEED椎名林檎L'Arc〜en〜Cielなど)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げに急ブレーキがかかり[52]、小室ブームが終焉した[58]。鈴木あみの提供曲はデビュー時から2000年までヒット上位にあったものの、鈴木側のマネジメント上の問題で2000年9月を以て関係が絶たれ、それ以後はglobe関係の活動がウエイトを占めるようになった。

特にヴィジュアル系[注釈 23]つんく♂[注釈 24]・宇多田[注釈 25]の台頭には、価値観と感覚の相違・引退を意識させられた程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたい時に作れて、鍵盤を弾ける時に弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた[62]

この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」[63]小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップの様な音楽を目指したいと思った」[64]と心境の変化を語った。

吉本興業へ移籍

2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受の報酬金(印税)18億円を返還。数々のミリオンセールスを導き出した安室奈美恵が『Think of me/no more tears』を最後に小室ファミリーから独立した。5月にASAMIと再婚。また、小室が株式の大半を握っていたRojam社が香港株式市場(H株GEM)に上場factoryorumokを清算後、マネジメント契約をアンティノスマネジメントから吉本興業所属に移す。傍らでタレントとしても活動し、同年のバラエティ番組「笑う犬の冒険」のコントに『超ハンサム侍』として出演する等の話題は有ったが、プロデュース業は好転しなかった[52]。9月に富士銀行が日本の銀行として初めて本人所有の著作権を担保に10億円の融資を行った[65]。融資金は先述の専属プロデューサー契約解約による前受金返還に充てた事が後の5億円詐欺事件の公判で明らかにされた。

2002年3月にASAMIと僅か10ヶ月でスピード離婚(実子あり)。5月には吉本興業が設立したアール・アンド・シー・ジャパン(現: よしもとアール・アンド・シー)の株式70%強をRojamが買収し、吉本との関係を強化した。そして11月にはKeikoと再婚。TBSで結婚披露宴特別番組生中継された事は話題となった[52]。しかし、ASAMIとの間で合意した約7億円の慰謝料を一括で払うことはできず分割で支払うことになったが、その支払いも資金繰り悪化の為に2004年8月頃には滞るようになったという[52][66]

この頃より所有していた別荘株券高級車クルーザーなどの資産売却を行うようになった[52]。2004年には約70億円の株式評価損が生じたRojam Entertainmentの出資・経営から撤退した[52]。さらに2005年9月には大分トリニータへのスポンサー料7000万円を滞納していることも明らかとなった[66]2008年11月1日NACK5の開局20周年番組に出演した際には自らの活動を振り返り「98年からの10年はなかなか曲が出てこなかった」[67]「もうやれることはやりつくした気がして貪欲になれなかった」[68]と語っていた。

5億円詐欺事件

2006年8月6日、小室は日本音楽著作権協会に自分名義で登録している全楽曲806曲の著作権を10億円で譲渡する仮契約を関西地方在住の個人投資家男性と締結。前妻のASAMIが著作権使用料を差押さえているとして、その解除費用として5億円の先払いを要求し、8月29日までに5億円を受け取った[69]

しかし実際には仮契約段階で既に著作権の一部は、エイベックス・エンタテインメントバーニングパブリッシャーズライジングバブリッシャーズといった音楽出版社に譲渡(音楽業界では著作者である作曲家や作詞家が音楽会社に著作権を譲渡して管理を任せる代わりに印税を受け取ることが慣例となっている[69])されており、小室には著作権がなかった[69]。だが小室は返金に応じなかったため、男性は2008年2月に小室に対し逸失利益を含めた6億円の損害賠償を求め提訴[69]。小室が全額を支払うことで和解が成立したが、期日であった9月末までに小室は支払わなかった[69]

このため男性は地方検察庁刑事告訴した[69]。検察側は小室が受け取った5億円を差し押さえ解除ではなく借金返済に使っていたことを把握。当初から金を詐取する目的だったと判断し、2008年11月4日午前7時40分頃に大阪地検特捜部は小室とトライバルキックスの社長、広告会社の実質経営者の計3名を5億円の詐欺容疑で逮捕した[70]。なお、前日に大阪地検特捜部から任意出頭の要請を受けたため新大阪駅前のシティホテルに滞在しており、逮捕時はみのもんたの朝ズバッ!など一部の朝の情報番組が特別編成となり、逮捕容疑の解説とホテル上空の空撮映像を交えてホテルエントランス前から連行される様子を生中継していた。

11月21日に起訴され、同日に保釈保証金3,000万円を支払い保釈された[71]

2009年1月21日に大阪地方裁判所にて初公判、3月12日に第2回公判が行われる。第2回公判直前の3月10日、解決金を含めて6億5000万円をエイベックス・グループ代表の松浦勝人がポケットマネーで立て替え、被害者に完済した。被害者側に謝罪の手紙を送っているが受取りを拒否されている[72]。なお、この被害者に送るつもりだった謝罪文は第三回公判の際に、小室自身により読み上げられた[73]。被害者側との示談交渉においては、情状証人として出廷した松浦は「示談を申し込んだが“できない、誠意が足りない”と弁護士から聞かされた。“誠意が足りないとはどういうことか”と代理人に尋ねたら“お金だ”と聞き、非常にショックを受けた。」と証言した[74]が、被害男性は「そのようなことは一切言っていない」と否定し、「民事裁判で和解が成立して決着している。」と話している[75]。なお、SNSmixiでは2008年11月から「小室哲哉氏の復活を願う会」というコミュニティが457人を集めたり、mixiのサポートを受けての紙ベースの署名活動も行われていた。(署名TVでも行われていた。)さらに小室の母親やマネージャー、弁護士の了解を得た上で署名活動と平行して裁判所への提出もありうるという大前提で小室に対して手紙を書く「小室哲哉さんへの手紙」という活動も行われていたりと、復帰待望論が起き、[注釈 26]小室の減刑を望む動きは、音楽業界や音楽業界関係者からもあり、実際に減刑嘆願書を出した音楽業界関係者もいた[76]。第3回公判は4月23日に行われて結審。

2009年5月11日大阪地方裁判所より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡され、弁護側・検察側共に控訴はせずに、同年5月25日午前0時をもって刑が確定した。

再出発

2010年5月に復帰第一作としてAAAの楽曲「逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜」をプロデュース。また、翌6月には森進一への提供楽曲が発売されることがマスメディア、及び5月2日付の小室のtwitterにて明らかとなった[77]。 『眠らないラブソング/道標』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった。その後もレコード会社を問わず超新星SMAP北乃きい浜崎あゆみらへ楽曲を提供している。小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた。一方で2010年9月29日にはglobeのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された。また、11月にやしきたかじんへ楽曲「その時の空」を提供した。

2011年6月13日、宇川直宏の主催する音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信ライヴを行う。瞬間最大視聴者は2万7000人を超え、合計視聴者数は14万4000人を記録した。12月23日、ラフォーレミュージアム原宿にて開催される「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の4日目に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催した[78]

2012年3月20日、幕張メッセで行われた東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE-give&give-』に、TM NETWORKとして参加したのをきっかけに、約4年ぶりにTM NETWORKの活動を再開する。

DMM オンラインサロン「小室哲哉 - TK Culture Gathering」を開設し、ファンとの触れ合いの場も積極的に開催し、本人からのオンラインサロンにかける意気込みも語られている。

TM NETWORK 30周年

TM NETWORKがデビュー30周年を迎える年である2014年にはツアーやリリース、テレビ出演など活動を活発化させた。春にはおよそ6年ぶりとなる全国ツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』がスタート。過去楽曲をリメイクしたアルバム『DRESS2』や新曲『LOUD』もツアーのスタートに先駆けてリリースされた。同年10月29日には7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』をリリースし、オリコン初登場8位を記録した。同時に秋から冬にかけて行われたツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30』もスタート。

2015年2月にアリーナ公演『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA』、3月に横浜アリーナにて単発コンサート『TM NETWORK 30th FINAL』を行い2012年から続いたシアトリカルなライブを完結させた。よって、2012年から続いたTM NETWORKとしての活動も充電期間に入ることが発表された。

突然の引退表明

公には過去の事件から復帰し、順調と見られていた活動は、突然に終わりを迎えた。2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑記事が前日発売の『週刊文春』に掲載されたことを受け、同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した[79]。小室は会見で、女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、C型肝炎や左耳の突発性難聴といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり、身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした[80][81]。一部週刊誌は作曲家が引退宣言を行うことは異例という趣旨の報道を行っており、インターネット上では「あの不倫報道は必要だったのか」などと芸能報道の公益性を問う意見も見られた[82]

バイオグラフィ

ディスコグラフィ

小室哲哉が楽曲提供、プロデュースした楽曲の一覧は小室哲哉提供楽曲一覧を参照

レコード会社は以下の表記とする。

ソロシングル

タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等)
1st RUNNING TO HORIZON 1989年10月28日 (EP) アニメシティーハンター3』OPソング
2nd GRAVITY OF LOVE 1989年11月17日 (EP)
3rd CHRISTMAS CHORUS 1989年12月1日 (EP)
4th 天と地と〜HEAVEN AND EARTH〜 1990年4月21日 (EP) 映画『天と地と』テーマ曲
5th 永遠と名づけてデイドリーム 1991年12月12日 (EP) 音楽座ミュージカル『マドモアゼル・モーツァルト』テーマソング
6th Magic 1992年10月1日 (EP)
7th Pure (Hyper Mix) 1992年11月27日 (EP) c/w : yuki's song
8th SPEED TK RE-MIX 1997年7月9日 (EM) 映画『スピード2』テーマ曲、「TETSUYA "TK" KOMURO」名義
9th Blue Fantasy - Love & Chill Out 2001年10月24日 (F)
10th SPEED TK RE-MIX〜炎のコマ 2001年10月24日 (EM) 高橋由伸桜庭和志入場テーマ曲

デジタルシングル

タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等)
Someday mF remix 2006年1月5日 (M) DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。
If you like it or not 2006年2月5日 (M) 「DJ TK」名義、ラップ・kco。
@Buddha Bar 2006年3月7日 (M) 「DJ TK」名義。
SOMEDAY 2006 2006年4月22日 (M) 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。
Arashiyama 2006年8月8日 (M)→(T)・(SY) 「DJ TK」名義。後にiTunes Storeで世界同時配信される。
I WANT YOU BACK (mF247 remix) 2006年10月4日 (M) 「DJ TK」名義、自身の楽曲のセルフカバー。ボーカルはkco。
アンジェリーナ mF Prepromix 2006年12月9日 (M) 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。inst版も同時配信。
ガッツだぜ!! DJ TK MIX 2007年4月1日 (M) 「DJ TK」名義、ウルフルズのヒット曲のリミックス。
Now1 2013年1月30日 (AV) ソロアルバム「DEBF3」から先行配信。「みんなのKEIBA」テーマソング。
WATCH the MUSIC feat. Capitol A, Alain Clark 2013年2月20日 (AV) 「DEBF3」のプレオーダーのスタートと同時に先行配信。
FREEDOM (Remode) / Love again (Remode) 2015年7月8日 (AV) globeのアルバム「Remode 1」から小室哲哉名義で先行配信。
a new lease on life 2016年5月9日 (AV) J SPORTS「15/16イングランドプレミアリーグ」中継エンディングテーマ。
Blue Ocean 2016年6月15日 (AV) TOKYO FMBlue Ocean」エンディングテーマ。
GET WILD 2017 TK REMIX 2017年3月8日 (AV) 「GET WILD」30周年の幕開けとして小室が新たにリミックスした。

コラボレーション作品

タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等)
背徳の瞳〜Eyes of Venus〜 1992年1月18日 (EP) V2」名義。
XYOSHIKIとのコラボ。
Silent Lover 1995年4月21日 (SR) C+C+T・K」名義。
アメリカのC+C Music Factoryとのコラボ。
CALL ME ANYTIME 2000年9月20日 (SA) Tetsuya Komuro Featuring. Y.U.M」名義。
アメリカのY.U.Mとのコラボ。
Embryo 2003年 (BW) Lifecell」名義。
ベルギーのDJ PUSHとのコラボ。
22世紀への架け橋 2013年12月4日 (AV) 小室哲哉VSヒャダイン」名義。
前山田健一(ヒャダイン)とのコラボ。
iTunes Store限定で配信。
#RUN(ハッシュラン) 2015年12月23日 (AV) 小室哲哉 feat. 神田沙也加(TRUSTRICK) & tofubeats」 名義。
ユニット名:TK feat.TK
Have Dreams! 2016年4月13日 (AV) Tetsuya Komuro × Tsunku♂ feat. May J.」名義。
つんくMay J.とのコラボ。

ソロアルバム

オリジナルソロアルバム

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st Digitalian is eating breakfast 1989年12月9日 (EP) シンクラビアを多用し、全曲小室自身がリードボーカルを務めている。
- Hit Factory 1992年10月21日 (EP) セルフカバー・アルバム
2nd Digitalian is eating breakfast 2 2011年5月4日 (AV) 全世界同時発売[注釈 31]6月1日にはiTunes Store限定でインスト版が配信された。
3rd DEBF3 2013年3月6日 (AV) EDMを基調としたアルバム。DOMMUNEのライブ音源も収録される。
4th TETSUYA KOMURO EDM TOKYO 2014年4月2日 (AV) セルフリミックス音源に加えてゲストボーカリストをフィーチャリングした新曲が収録される。
5th TETSUYA KOMURO JOBS #1 2017年3月1日 (AV) 小室の近年のソロワーク音源を集めた新シリーズ「JOBS」の第1弾。アーティストらとのコラボ曲や、番組テーマソング、CMタイアップソング、サウンドインスタレーションなどで構成される。アルバムは初回限定盤と通常盤の2形態。初回限定盤にはミュージックビデオやライブ映像を収めたDVDと、小室のオリジナルインタビューとオフショット写真が100ページにわたり掲載されるフォトブックが付属する。

Far Eastern Windシリーズ

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st Far Eastern Wind - Winter 2008年2月13日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
2nd Far Eastern Wind - Spring 2008年3月5日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
3rd Far Eastern Wind - Summer 2008年7月23日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
4th Far Eastern Wind - Autumn 2008年9月10日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
Far Eastern Wind -Complete- 2012年3月28日 (AV) Far Eastern Windシリーズ全てがデジタルリマスタリングされCD盤で発売。1曲73分に及ぶ新曲『五常』が収録されている。

サウンドトラック

ライヴ・アルバム

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st tjm - tetsuya komuro Jungle massive 1995年7月19日 (AV)
2nd tk-trap 1996年5月22日 (AN)
3rd TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE vol.1 2002年11月20日 (Y) TSUTAYA限定販売
4th TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE vol.2 2003年2月26日 (Y) TSUTAYA限定販売
5th TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE
(TK Presents BROADJ #332)Disc.2・3
2012年3月21日 (AV) TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)
形態AVBD-91883/B〜Cに収録

リミックス・アルバム

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st Blue Fantasy - Love & Chill Out With Trance Remixes 2002年6月21日 (F)
2nd Cream Of J-POP 〜ウタイツグウタ〜 2007年7月4日 (M) DJ TK」名義
3rd Digitalian is remixing 2012年3月21日 (AV)
4th DEBF EDM 2013 SUMMER 2013年9月25日 (AV) iTunes Store限定配信

その他

タイトル 発売日 レーベル 備考
- Psychic Entertainment Sound 1990年9月21日 (E) 「Tetsuya Komuro & Mr.Maric」名義
- TK1998 1998年11月26日 (SA) 限定BOX
- PIANO globe 〜globe piano collection〜 2003年3月19日 (AV)
- PIANO WIND (TK AMBIENT SELECTION) 2003年3月19日 (Y)
- PIANO VOICE (TK PIANO WORKS) 2003年3月19日 (Y)
- うみね 2007年 大分県別府市「ホテルうみね」館内BGM
「ホテルうみね」限定発売

オムニバス

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st SAGA 小室哲哉クラシック・セレクション 1992年12月2日 (E) クラシック・セレクション
2nd TK MILLION WORKS 1996年11月16日 (AV)
3rd ARIGATO 30 MILLION COPIES -BEST OF TK WORKS 2000年3月23日 (AV)
4th THE GREATEST HITS - 小室哲哉作品集 - s 2006年2月22日 (G)
5th THE GREATEST HITS - 小室哲哉作品集 - a (AV)
6th TK INSTRUMENTAL WORKS SELECTION 1986〜2003 2006年2月22日 (G)
7th TETSUYA KOMURO CELEBRITY PLAYLIST 2008年5月7日
8th TK BOX 〜TETSUYA KOMURO HIT HISTORY〜 2011年5月31日 (AV)
9th 小室哲哉 meets VOCALOID 2012年3月28日 (AV)
10th TETSUYA KOMURO ARCHIVES T盤 2018年6月27日 (AV)
11th TETSUYA KOMURO ARCHIVES K盤 (AV)

ビデオ・DVD

  • 1989年 Digitalian is eating breakfast
  • 1996年 tk-trap(1月19日 - 20日に幕張メッセで行われた2日間限定のライブを収めたビデオ)
  • 2012年 TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)

レコーディング参加作品

※(直接的な)プロデュース・作曲・編曲を兼ねて参加した作品は除く。

ライヴ・コンサートイベント

※オーガナイザーを務めたライヴ等も含める。ゲスト出演等は省略。

公式書籍

  • 1988年 Vis Age TETSUYA KOMURO PERSONAL VISUAL BOOK (子供の頃の写真と共に、自らが詳しく生立ちを語ったヒストリーと、PWLのマット・エイトケンとの対談他を収めた自伝写真集)
  • 1989年 Digitalian is eating breakfast (ソロアルバム制作後のインタビューと楽譜を収めた本)
  • 1990年 音を生け捕る - 映画「天と地と」音楽監督NOTE (自身の曲解説が収録されている本)
  • 1992年 HIT FACTORY (マイアミで行われたソロセカンドアルバムの制作風景と、プライベート写真集)
  • 1993年 TK EOS FACTORY 小室哲哉のシンセ工房
  • 1993年 告白は踊る (東京をコンセプトに、自身の哲学や、これまでの仕事を振り返ったエッセイ)
  • 1995年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol.1〜Vol.2 (音楽番組「TK MUSIC CLAMP」の対談を活字に起こした本)
  • 1996年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol.3〜Vol.5 (桑田佳祐YOSHIKI織田哲郎小林武史つんくなど多数登場)
  • 1996年 深層の美意識 /著者:神山典士 (小室哲哉監修の公式自伝本)
  • 1998年 first step in asia (「TK Presents GROOVE MUSEUM」を、ドキュメントで構成したフォト&インタビュー)
  • 1998年 プロデューサーは次を作る - ビジネス成功22の方程式 /著者:中谷彰宏・小室哲哉
  • 2003年 VOICE OF WORDS (小室哲哉が書いた詞をセレクトした歌詞集)
  • 2009年 罪と音楽 (絶頂期から2009年時点、未来をテーマにした書き下ろしエッセイ)
  • 2014年 CAROLの意味(小室書き下ろしのストーリーブック。この世界観を表現したインスト楽曲『password』をダウンロードすることができるミュージックカードが付属。)
  • 2016年 時代をつかみとる思考(『未来志向』をテーマにしたエッセイ、セブンネットショッピング限定販売)

関連書籍

  • 2000年 TKman (ティーケイマン) 1 & 2 /作:柴田亜美 1巻(第1話 - 第20話) 2巻(第21話 - 40話)
  • 2008年 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評53 TMN&小室哲哉 ポップス神話創世
  • 2008年 ミュージック葬でハッピーにいこう! /若尾裕之著(付属CD作曲・プロデュース)

ゲーム

テレビ・ラジオ・雑誌連載

※テレビ・ラジオの項ではレギュラー出演していたもののみ記す。

テレビ

ラジオ

雑誌連載

  • KEYBOARD MANUAL(Player、1984年1月号 - 1984年12月号)
  • キーボード講座(シンプジャーナル、1985年8月号 - 1987年7月号)
  • ELECTRIC PROPHET(PATi PATi、1985年11月号 - 1986年1月号、SF小説)
  • ART OF LIFE(月刊カドカワ、1991年6月号 - 1993年11月号)
  • TK MUSIC CLAMP(PATi PATi、1995年6月号 - 1998年5月号、雑誌編集版)
  • 小室哲哉のネットパラダイス(POPEYE、1996年10月25日号 - 1997年2月25日号・1997年4月25日号)
  • 小室哲哉通信(日経エンタテインメント!、1998年2月号 - 2000年12月号)
  • TETSUYAをさがせ!!(ザッピィ、2000年8月号 - 2001年4月号)
  • 小室マニュアル2001(ザッピィ、2001年6月号 - 2002年3月号)
  • TK×INTERNET(Yahoo! Internet Guide、2001年6月号 - 2001年12月号)
  • 小室哲哉×Nord Lead 3(キーボード・マガジン、2002年8月号 - 2002年10月号)
  • TK Future Lab(ローリング・ストーン日本版、2016年8月号 - )

音楽性

作風

テクノファンクユーロビートジャングルハウストランスアンビエントHIP HOPR&Bレイヴハードロックプログレ、果てはクラシックフォークAORラテンワールドミュージック純邦楽演歌等幅広いジャンルを使い分け、かつ複数のジャンルを融合させてジャンルを限定せず、どの様なジャンルにも聞こえる[54]音楽を手掛ける事を得意とする。ただ、一般には邦楽ダンスミュージックの第一人者・1990年代J-POP、又はそれにおけるデジタル・オーディオ・ワークステーション音楽プロデューサーの概念・音楽配信の普及の立役者として知られる[注釈 33]

作風の大きな特徴として「最高音の独特な使い方[注釈 34]」「狭い音域を限定したメロディ作り」「1〜2小節のメロディの繰り返し」「作詞の譜割りがゆっくりになったり早くなったりする」「息継ぎできる部分が全くないパートがある」「少ない構成パート」「唐突な転調が多い」等わかり易いインパクトを持ち、かつジェットコースターの様な緩急のメリハリがある展開が挙げられる[120][121]。その中でも特に転調を多用するようになったきっかけは、TM NETWORKの1stアルバム「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングのとき、ソフトのバグで機材に誤動作が生じた。その勝手に音調が変化し転調してしまった音源を聞き、小室が「意外と気持ちいい」と感じたことがきっかけとなり、以後の制作活動でそのフレーズが定着した。ちなみにこれらの転調は適当ではなく理論的に説明が付くと小室自身は話している[122]。反面、発見したその後も意識的に挿入していたわけではなく、寧ろ「コンピューターの誤作動による偶然の産物であり、中々思う様に表現できなかった」「サンプラーが今の様にタイムストレッチができなくてそのままの音でキーを変えられなかった。そのサンプラーの音を使いたいが為に機械的に転調させていた。逆のパターンもあって転調した後にそれまで使っていたサンプラーのボイスが無くなっていてボイスのキーと合わせられなくなった」と必ずしも好意的に捉えてはおらず、その後も如何に自由自在に使いこなすかの試行錯誤に腐心していた[123][124]

自らの行う転調のやり方について、「どこでキーが変わっているのか・どこがサビでどこがブリッジなのかをわからないようにする」[125]「声が張るピーク・一番伸びる部分をサビに持っていくため。サビに合わせるとほかのパートが低くなりすぎるため、仕方なく4度転調とか、そういう変な転調を無理やり入れる」「周囲からは『サビでいきなり転調するよね』って言われがちだが、サビが先にあって、その前のBメロで転調しておく」[126]「KCO・安室さん・華原さんは声が出るから転調無しの構成でも大丈夫だった」[123]「お互いのキーの共通コードをつないで転調する。そうすると突然転調した感じが薄れ、スムーズな感じになる」「王道としては、サビの繰り返しで半音キーを上げて高揚感を出す。共通のコードは無いけどメロディを繰り返すことで頭にそのメロディが残る」「ブリッジで転調しておくと、その後自分の演奏テクニックを披露する等やりたいことが自由にできる展開になる」と話している[124]

コード進行では「Am-F-G-C」(例:TM NETWORK「Get Wild[127]RESISTANCE」「humansystem[128]、H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」、globe「DEPARTURES[129])、「短三和音五音音階[34]、「sus4(サス・フォー)」(例:渡辺美里「My Revolution[42]、小泉今日子「GOOD MORNING-CALL[36]、篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと[42])、「add9(アド・ナインス)」(例:globe「DEPARTURES」)[43]を多用する傾向にある。

シングルをプロデュースする際は、1曲目がオリジナルで2曲目にオリジナルのリミックスバージョンを入れるのが基本構成である。リミックスバージョンで最新の音色・メロディ・アレンジに対する反応を確かめて、周囲の反応がいい時はすぐに次のデモテープに活かす[10]。リミックスバージョンを制作する際には「どの楽器を前面に出すか」「どれだけ踊れるような構成にするか」という気持ちよさを重視し[130]、その為にジャングルの制作ノウハウを踏襲している[131]。アルバム制作に発展させたい場合には、基本構成は1990年代までは通しで聴く事を前提に、1曲目と最後の曲目に注意を払う様にしていたが、2000年代以降はインターネットで試聴する1曲で印象が決まってしまうので、その1曲毎に芸術として勝負できるように心がけている[132]。制作方法はシングル用の楽曲制作の時点でコンセプトを煮詰めた後に時間をかけるか、プライベートで商業上の制約を一旦抜きにして好き勝手に曲を作りそれを商業向けに手直しするかのどちらかを選ぶ[注釈 35]。後者の一例としてTM「RHYTHM RED[133]・globe「Love again[134][10]・ソロ「Digitalian is eating breakfast[135]が挙げられる。

作詞

作詞を始めたきっかけは10代の頃に聞いていたロックミュージシャンが皆自分で作詞していたから、それに小室が続いた形で作詞家としてのキャリアをスタートさせた[136]。表現方法は人称・シチュエーションをはっきり限定させず、「私に当てはまる」と感情移入できるように曖昧さや抽象的な部分を敢えて残す形で「糊代」を作る演出・「人生」「現実」「常識」「立派」「正直」「公園」を意図的かつ潜在的に散りばめる手法・閉鎖的な言葉遣いを排除し「喧騒から『走る』『逃げる』『動き回る』『内面を吐き出す』」形で現実と立ち向かう世界観が多い。マスコミ関係者・ファンから「どうしてそこまで10代・女性の気持ちがわかるのか」「globeの歌詞や世界観に憧れた」と沢山の反響を受けた[10][137][90][138]

自身のポリシーとしては「反体制派の賞賛ではなく、スポーツ・勉強・遊び・ダンス・DJ・ソングライティングをひたすら真面目に取り組む若者のストイックな格好良さを、時代と向き合うロックの新たな存在意義にしたい。だからリスナーに対する責任は重く、歌詞には長めに2週間は時間をかけている」[90][139]「『勇気』1つにしても、言葉をそのまま使うと一気に説教臭くなってしまう。代わりにコード進行・リズム・楽器を慎重に選択したメロディで言葉をシンボリック化している」[140]「10代が必ず通らねばならない道と対峙した時に、誰かに言ってほしい言葉に結果的になっていた」[42]「女の子が女の子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』という感じだった」[59]「提供した時点でその人のものになれる様にしている。globeでは特にそれを意識している」[141]「歌手の姿形・声を通し、自分の理想とする女性像を試行錯誤しながら書いていた気がする」[43]「女性目線の歌詞を書く時は、女性は常に上から目線のキャラクター」[142]「1人の女性の全く見えない孤独・葛藤を歌詞にしてきたつもりです」[143]「常に長所・短所両面の揺れを書いている。そこに男女の垣根は関係ない」[144]「完全に自分の1人称で歌ってもらえるのはTM・TRF・globeだけ」[145]「『自分はこれが言いたかったんだ』『こういう思いで生きてるんだ』と入れるのではなく、社会への投げかけを意識しています。『こういう風に思いますよね?』という、常に『isn't it?』だったり、『don't you?』が最後に付く」[146]と回答している。

反面「CAN YOU CELEBRATE?」という英語の表現や、詞の文法がおかしいなどの指摘があるが、小室は「具体的な言葉の表現は苦手で、『宇宙』と書いて『そら』と読ませる」[147]「文法上のことはあまり考えず、曲のイメージ・16ビートのリズム・メロディにアクセントがぴったり合う英語を選ぶ。そうすれば『かっこ悪い』といわれる部分も自然と省ける」[148]「ごり押しではあるが、サビの印象的な部分に簡単で記号的な英語を入れる、ボタン一つで他国語に切り替えたり、英訳を表示する等、海外の方々への日本語の意味の伝え方はテクノロジーで克服できる。必ずしも全編他国語で作詞しなければいけないわけではない」[54]「作為的な言葉は全く考えず、自然発生的な言葉を中心にいれている」[149]「日本人が聞いて言い易い、わかりやすい英語を求めていました。文法よりキャッチーであること優先。洋画の原題が邦題になるときと同じ様に、『ちょっと格好悪いかな』って位までわかりやすくする為に何回も書き直してました」[138]と発言している。

作詞の手法においては渡辺美里[注釈 36]山下達郎[注釈 37]川村真澄[注釈 38]に影響を受けた。

基本は三部構成で行われ、

  1. Aメロ「物語の設定の説明」「友達といる時の強い自分」
  2. Bメロ「昔の事を振り返り、自分達の状況・風景・環境を説明」「一人の時の心に浮かぶ本音の様な弱い部分」
  3. サビ「相手に一番伝えたいことを伝える」

をそれぞれに振り分けて担当させている[142]

モチーフを探すための手段として、「わけがわからないけど、インスパイアされる部分が多くて面白い」と敬愛しているコリン・ウィルソンの作品群を読み込んだり[153]、大まかなテーマを絞り込んだ後に世界中のホームページを閲覧したり[95]渋谷スクランブル交差点渋谷公園通り等を主な舞台にし、書く場所を歌手毎に変えたりしている[21]

作曲

小室が作曲をする際、アマチュア時代はライブハウス・学園祭・コンテストではギタリストやドラマーが主役だったために「如何に自分の音が目立つか」だけを考えていたが、プロデビューして業界人と接する様になってからは「ボーカルを如何に目立たせるか」を考えるようになり、「この音色・パートは歌を強調させる個所とぶつかるから避けよう」等歌に合わない演奏はどんどん削っていく様になった。バックトラックを作ってから、ボーカル用のメロディを考えるのを基本にし「歌もハーモニーの一部と考えた上で、如何にトータルでサウンドを引き立たせるか?」という方針を「Self Control」制作を切っ掛けに常に考えていった[135]。そうしていく内に次第に「ダンサブルで言葉の情報量の多い楽曲作り」を志向し、「16ビートに歌詞を詰め込む」という手法を開発した[154]。同時に音色・リズムは強くスウィングしてないと生理的に受け付けなり[155]、スウィングの仕方も40通り持つようになり、1個毎に全ての触れ幅が異なっている[131]

自分の属するユニットの楽曲を作る場合は最初に「このジャンルを作りたい」と思ったら、もうその雰囲気で適当に弾き語り、出来上がった曲の事は軽く覚えておく程度にして、しばらく放っておく。そして、もし覚えていて格好よければそれを譜面にするか、録音する。覚えていて弾けても、その前に作ったときのインパクトがもう消えていたら、没にする。そして楽曲自体忘れていたら、「仕方がない、もしかしたら思い出す」と割り切る。似た作り方で、曲の構成上、歌い出しの部分だけ昔作ったものを思い出してサビの部分を新しく考える・サビだけ出来上がっていて、頭に常に置いておき、ある日それにあうイントロ等が出来ると急に引っ張り出すこともある。作った時代が、歌の場所によっていろいろあるといった感じのものも多い[156]

依頼された楽曲を作る場合は制約・締切があるから、今までのストックを基にして無理矢理作る。そして、ディレクターやプロデューサーにその楽曲を聴かせないといけないので、かならず「曲デモ」と称されるデモテープを作る。これを聴いてレコード会社の人・CMディレクターに「サビを直して」「これでは○○さんの曲みたいだよ」「いつもの小室さんがやる様なメロディでお願いします」等、色々な注文をされる。依頼された場合は、よほど制約が緩くない限りは勝手が出来ない為1回〜3回は、手直しがある。1番最初は7割程度の出来で聴かせて、2回目に全力を出して作るパターンが多い[156][157]。クレームに対しては「寧ろ、ないと僕がオファーを受けた甲斐がない」と寛容な態度を示しているが[51]、どうしてもダメ出しをされたくない場合の対策として、わざと締切日ギリギリまで作らずに周囲がいても立ってもいられない心境にさせて、別の場所で1時間程で仕上げる事もある[158][159]。1曲作るのに没になる事前提のそれぞれの微調整されたパート違いも含まれる8〜10通りのバージョンを用意しコンペに臨んでいた[160]。発売前に各媒体で流してリスナーの反応に耳を傾け、手直しを行うこともある[161]

1990年代から依頼と注文に応える事前提の楽曲制作が格段に多くなったこともあり、それ故に「起きたら突然、降って舞い降りた・湧き出てきた・何かに導かれた様に自分が閃めいたメロディだけで、周囲の介入なし・試行錯誤なし・実験性満載・楽器と向かい合ったら短時間で楽しく作れて、弾き直しも1回もなく、コンペもスムーズに通った楽曲」として、

を挙げているが「本来その様な楽曲が出来上がるのは数年に1回あるかどうかであり[157]、そこから『誰に歌ってもらって、どの様に宣伝するのか』も考えなければいけないため、最初に一瞬で湧き上がった時のテンションを維持するのは難しい[179]」と答えている。

基本的な制作工程としては、

  1. 自宅に併設した簡易的な設備を施したスタジオでベーシックとなる大まかなパート別のバックトラック・音色を作る[180][181]
  2. 貸しスタジオを予約する。
  3. 昼過ぎにコンセプトの打ち合わせを行う。
  4. 深夜にマーケティング方面のアイディアを頭に入れつつも[7]、メロディが全く思いついていない状態でスタジオに入り「この人に提供しよう」「このイントロ・コード進行・アウトロ・リフ・音色でいこう」と決める。
  5. 既存のシンセサイザーに内蔵されている音色を更に編集する[182][注釈 39]
  6. 構想にフィットしそうなリズムパターンをドラムマシンで制作する。
  7. リズムパターンにあわせて全体の構成やコード進行を考える。
  8. おおまかな構成ができ上がったら仮コードを手弾きで、またはコンピューターに打ち込んだメインのバッキングトラック、あるいは小室の知っている曲や自分で既に制作した曲を歌った鼻歌を、プリプロダクションを行わずにライヴを行う感覚で録音してしまう[注釈 40]
  9. 録音した音源を再生しながら、ベースのフレーズを考えつつ、それをミュージックシーケンサーに打ち込む[注釈 41]
  10. それぞれのシンセサイザーの担当するパート・クリック音・リズムのデータを入力し終えたら、細部を詰め、細かい音色を決めて全て録音してしまう。この段階でのオフヴォーカル音源はほぼ完全パッケージメディアに近いものとなる。
  11. 最後にもっとも曲のイメージにふさわしいヴォーカル・コーラス・ギター専用のメロディの譜面[注釈 42]を「ギターのソロパートを振られたときにギターで弾き語るような感じで乗っけるように」作る。他の楽器を担当するミュージシャンにその楽器が担当するパートのアレンジを委ねることもある[186]
  12. 作詞・譜割りは必ずオフヴォーカル音源が完成してから取り掛かる[注釈 43]

以上の工程[3][121][189][190]をTMデビュー前の時点で雛形は出来ていたが[191]、完全に確立できたと思えたのは渡辺美里の「My Revolution」を作った辺りとのこと[192][157]。その時の方向性は「当時流行していた洋楽の様に4小節とも同じコード進行・バース(Aメロ)→ブリッジ(Bメロ)→コーラス(サビ)でメロディだけは移り変わっていき、予兆無しにコーラスが流れる展開」を目指していた[36][193]

デモテープの制作はTMの楽曲の場合は一キーボーディストとして直感で生んだリフ・フレーズを中心にしたオフヴォーカル優先、globeの楽曲の場合は小室による仮歌のみで構成され、周囲に提供する楽曲の場合はメロディ優先で制作する。最初から指定のシンガーに向けて作った楽曲を結果的に別の人が歌うケースになっても、別の人が歌えるようにカスタマイズする作業をすることもある。普通に2曲作るのに平均6〜7時間はかかり[3][122][194]、余裕を持たせてクオリティを普段以上に高める場合は1日10時間はスタジオにこもる時間を作り、3〜5日はかける[139]。19歳の時にプレゼンをした際、そのデモテープが「家にあったオルガンを弾いて、犬の声も一緒に入っていた」内容だった為、レコード会社のディレクターに「これではどれがメロディだかわからない」とダメ出しされた。その苦い経験もあり、『レコード会社のカセットテープ・書類等で散らかった室内の中で、相手の顔が見えない状態でも、室内で仕事中の人にも興味を持ってもらえるか』『古いラジオカセットレコーダーで聴かれてもディレクターの気を引くことが出来るか』『レコード会社の人に如何に観客として楽しんでもらうか』『商品版の形をどこまで描けるか』を考えてデモテープの段階で本番のレコーディングと同じ環境の整ったスタジオ・機材・16~24chで録り、イントロから間奏まで完璧に作り上げ、ミキシングも行い、他のレコード会社が作る完全パッケージメディアより良い物を目指した。但し、それが他の編曲家も関わる曲だった場合には編曲家を困らせてしまう事もある[195][178][128]

テープレコーダーを使用していた際はイントロからアウトロまで流れの型を必ず存在しているためそれに合わせて考えて、その先の違う型を使いたいなら全く別の次の考えに進めなければいけないため、テープを使用するデモ作りを「時間軸に乗せる作業」と称していた。シンクラヴィアを導入した際、時計回りではなくパズル感覚でデータを介して出来る切り貼り・抜き差し等の編集作業の簡単さに感動し、次第にテープレコーダーは使わなくなる[196]

1990年代以降は「一ミュージシャンとしての技巧を凝らしたアレンジ」から「カラオケで歌いやすく、ディスコでもコンビニでもかけれるダンスミュージック」[注釈 44]「ディスコ+カラオケ÷2」[注釈 45]を主眼に置きつつ、「カードの組み合わせで曲ができる」を持論に、今まで小室自身が制作した思う様に弾いて格好良いと思ったメロディ・世界中の楽曲の音源から採取したフレーズ・リズム・メロディを音楽ジャンル別・楽器別に分けて、更に「イントロ用」・「サビ用」・「アウトロ用」等に分けてコンピューター上のデータとしてインプットさせた後(その数は音色だけでも5万はある)、シンクラヴィア(後にPro Toolsにシフト)を駆使して、楽曲のイントロ・1番・2番・ソロパート・アウトロまでをモニターに表示された高音・低音・リズム・各パートの長さを確認しながら行う様になる。いかに自らの曲のイメージにすり合わせながら「カードの様に」数々の楽曲を引用・コラージュ・再利用して組み合わせ[注釈 46]「小室サウンド」としてサンプリング、アレンジして完成させるかがポイントになっている[42][49][199][196]。この手法については「ガンズ・アンド・ローゼズの楽曲の作り方と似ている。彼らが自分達の好きなエアロスミスが制作した3曲を1曲に詰め込んだ様な感じ」[196]「いいサンプリングのネタと音色が一つでもあればそこから広げて1曲できる。海外では完全にそのノリ。もうそろそろ『サンプリング=盗む』という感覚も消えていい。ジェームス・ブラウンの様にネタを使われているアーティストがジェームスのネタを使っているアーティストプロデュースを頼むこともあるのだから」[200]「70年代の誰もが知っている曲のある部分をイントロにつける、バックトラックに知っている曲のフレーズをつけておくと通りすがりの人をも驚かせる。一種のサブリミナル効果です」[42]「機材が進歩すると共に『この部分を直せばもっといい音源になる』という思いが強くなった」[201]「自分の力で作ることはもちろん大切だけど、自分が影響を受けたものを紹介するのもまた大切」[202]「いくら真似して作ったと言っても、元ネタが見えなかったらそれは既にオリジナル」[45]「アートは中々インスパイアから逃れられない。コピーとインスパイアを積み重ねて誰もやった・使った・聞いたことのないほんの数秒間、瞬間でもいいオリジナルを発明してやっと匠になれる。僕の中で発明と思っているのが安室さんの『CAN YOU CELEBRATE?』のイントロ」[203]「過去に自分でゼロから作ってヒットした楽曲をお手本にして、フレーズの一部を再利用した方がファンの期待に応えられるし、自信になります。純粋になる、化合物が無くなる感じですね」[146]と答えている。それ故に楽曲はパート別のメロディの断片を除いても、常に100曲のストックを持っている[204]

作曲家のポリシーとしては「体を動かしたくなる『発散性』があるか、場を盛り上げるための『社交性』を持っているか、楽しいだけではないハードルの高いキーがもたらす『エクササイズ』になっているか、というカラオケでファンが求める3要素を常に意識する」[205]「一度書いたメロディは必ず使う」「メロディがボーカリストの心身にどんな作用をもたらすか細かくイメージする」「楽曲のジャンルを確立するためにデモテープのミックスの名残を出来る限り残す」[149]事を心掛けている。TMでのレコーディング作業時、宇都宮に負担を掛けすぎた事への反省から篠原涼子をプロデュースした1994年からボーカルディレクション・ミキシングの指揮を自ら行い、ビブラートを効かせたり、小節を回す等の歌い方は極力させない様になった[118][46][206][注釈 47]

劇伴を制作する際は、映像との兼ね合い等色々な条件の中で「如何に自分のエゴを出すか」を考えながら制作している[135]。そのため一応監督の話は聞きつつもあまり気に留めず、全ての映像をテレビに起こして、視聴者になったつもりでリモコンを持って画面を見ながら即興で曲を付け、映像のタイミングを確認しながら手直しする。こうして好き勝手に解釈して作った曲を10曲程コンサートの要領でスタッフに聞かせて、どのように「視聴者が感動できるか」をテーマにしながら、更にスタッフと一緒に相談して磨き上げていく[207]。ただ、小室は後に澤野弘之に「ワンフレーズのメロディでも耳に残る楽曲を作りたいから、どうしても監督の希望より音が立つ方向に物を考えてしまうので、僕はサウンドトラックの仕事にはあまり向いていない。やっぱり『好きにやってほしい』とオーダーされて作ったサウンドトラックが、世に出て残っている」と述懐している[注釈 48]

録音

レコーディングスタジオに対しては、トラックダウンからマスタリングにかけた作業段階で、音質について議論・実験を重ね、特に機材・設備・果ては土地の空気・気圧・電圧・温度・湿度・静電気・シールドケーブルに拘りを見せる[注釈 49]

短いサイクルでスタジオを世界各地に移転する。小室曰く「ヒットが生まれる場所は年月が経つと全く違う。拠点を固定してしまうと時代・テクノロジーとの矛盾を起こしてしまう為、もしかしたらサーカスの様に明日移すかもしれない」とコメントしている[208]。ただ、全ての作業を自分のスタジオで行うほどの完璧主義ではなく「場所が滞在先のホテルでも・病室でも・車内でも、打ち込み用のキーボードとパソコン等の機材が置いてあって制作ができればそこはもう立派なスタジオで、データだけでほとんどの作業が済んでしまう」[208][209][210]「5千万円あったら機材を買うより他のスタジオを回って何枚かアルバムを作った方がいい。今はどんなに高級な機材でもリースすれば簡単に届く為に、あのスタジオにはあの機材があるからすごいという訳ではなくなってきている」[208]ソフトウェア・シンセサイザーの発達によって、AIRスタジオで録音した音に遜色が無い物が作れる様になった」[211]「ロンドンでは電圧が240Vあり、それだけで音圧の高さ・倍音の気持ち良さ・鍵盤を叩いてからスピーカーが音が出るまでのスピードが日本のスタジオとは段違い。機材面のサポートが充実していて、電話するだけでオックスフォードの機材メーカーからすぐにスタッフが来てくれて、その日の内に対応してくれるので本当に大切な作品はロンドンで録音したい。今までの海外のスタジオで一番良いと感じたのはトレヴァー・ホーンがオーナーを務めるサーム・スタジオ[212]と話している。自宅でのレコーディングの際の防音対策として、壁に大量の洋服を吊り下げている[213][43][208]

1990年代 - 2000年代は的確にミュージシャン・エンジニアを配置し、正確な指示を与えた上で、複数の楽曲のレコーディングを同時進行でスケジュール通りに終わらせる為に1軒のスタジオに何室もの個人用ルームを用意し、小室・木根・久保こーじ・松尾和博DJ DRAGON・当時の専属マニピュレーター・ライヴミュージシャンのリハーサル専用のスタジオとしてそれぞれに割り当てて、それぞれが担当するパートに専念させていた[181][214][36][215]。当時の状況を小室は「羽生善治さんのCMと似ています」[10]「globeの曲を作りながら安室さんの『Don't wanna cry』を作っていました」[216]、松尾は「付き合いは長いのに、TKと長く話したことがない」[217]DJ KOOは「スタジオが同時進行で3~4つは当たり前に動いていて、小室さんはその間に打合せも幾つもやっていました。1週間に10作品とかを並行してやっていて、trfだけみても絶えずリリースがあって、それをライブツアーをやりながらやっていたので、僕とYU-KIは常にスタジオに入っていました。そこに小室さんから楽曲・仮歌・歌詞が次々と届いて、それをどんどんレコーディングしていくという日々でした。できあがるものに対して、小室さんがNGを出したことはなかったです。忙しかったからかもしれないですけど、ダメ出しは覚えている限りはなかったです」[218]と振り返った。

素材を高音質に記録することを目標にして、PCM-3348・オープンリールが主流の時代でも24bit/96kHzから48kHzで録音し、ボーカル・コーラス・声等の人間の生の声を使うパートはハードディスクドライブに別に記録していた。マスタリングの際に確認できた小さなブレス音等がCDとして納品されたときに、聞こえなくなってしまうことが多々あった[219][220]。2000年に記録媒体を完全にハードディスクドライブに移行した際はPro ToolsからDream ADA-8を通してAWS 900でミキシングを行い、MERGING Pyramixに24bit/192kHzで録音する事が基本の流れになった[221][208]。理想は「大元の素材は384kHzで持っておいてもいいのではないか。下のサンプリングレートから上げることは不可能だから」「携帯電話で聴いても、潰れたり埋もれたりしない音像」[205]を目指している[注釈 50]

キーボーディスト・シンセシスト・マニピュレーター

シンセサイザーの使い方はハードウェア・シンセサイザーを重視する傾向が強く、レコーディング作業時のみソフトウェア・シンセサイザーを「楽器として重要な要素であるフィジカルコントロールの面でハードに劣る」「鍵盤の方が手っ取り早い」「マウスが使いづらい」「つまみがあって二度と出せない音を作り出せる機材に可能性を感じてしまう性分なので、マウスや数値だけでは限界がある」[68]「基本的にステップ入力はしない。1974の時その手法でイントロを作るだけでも大変苦労した。それに打ち込みから始めてしまうと音色によってデュレーションやリリースが違うので、いざ聞くとニュアンスが全く違ってしまう」[222][223][30]として使用していなかった。音自体はMIDIで作った後、それを鍵盤で即興で弾き、それをPro ToolsACID等でエディットしていく形を好んでいる[122]が、椎間板ヘルニアによる身体への負担・コンプレッサーの性能と音圧の高さとハードウェアタイプとの差の大きさ・マウスの操作性の向上(主に応答時間)・他のクリエイターからの影響を考慮し、2013年3月に個人所有のスタジオを改装する際にソフトウェアタイプの機種を導入した。また、同年の7月20・21日にさいたまスーパーアリーナで行われたTM NETWORKのコンサート『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』では初めてソフトシンセをライブで使用した。ライブのリハーサル中、PCが頻繁にフリーズしてしまったため、バックアップとして急遽パソコンをもう一台購入し、ソフトシンセももう一式購入した。そのため、「結果ハードシンセよりも高くついたが、2台あることでダブステップをやるので音を重ねていけたりする等プレイの幅が広がった」と小室は語っている[224]。それでも2013年の時点で「記念館を作れる」くらいに個人でハードウェアタイプの機種を所有している[225][226][227][228]。新しくシンセサイザーを購入した時、マニュアルは読まずに予備知識なし・直感で操作する。それ故に一度も使った事のない機能・スイッチが多いが、使いたい機能・目的がはっきりしている為、あまり楽曲制作に迷わないという[10]

ライヴでの演奏もシンセサイザー主体であり、「自分がその楽器のプレイヤーとしての腕が追いつかなくても、演奏したい楽器のボタンを押して弾くと機械の方がメロディをしっかり追えると14,15歳の頃に気づいた」[28]「アレンジ・奏法はギタリストの真似から始まっていて、ギタリストだと簡単に弾けるフレーズ・プレイをキーボーディストが担当するとどうなるかを意識している」[229]「1台の中に生のストリングス・バンドサウンド・ヴォーカルが全て入っていて再現できる。僕の音楽はシンセサイザー・コンピューターの制御があって初めて成立している」[49][194]「1台あるだけで1曲音源が作れる程、機能が充実している」[10]「バンド内でギタリストに対抗できるポジション」[216]「ギタリストがカッティングでグルーヴを生み出すように、鍵盤でも何か違った形でグルーヴが生み出せないかと思っている」[230]「数台重ねれば一人バンドができる」[159]と語る程に思い入れが強い。1990年代前半まではマルチ・キーボードでの即興演奏ミュージックシーケンサーを駆使しての多重演奏を主体としていたが、1993年よりクラブDJが行うミキシング・コンソールでのリアルタイムリミックスに興味を抱き[231]、1994年の「TMN 4001 DAYS GROOVE」にて音色をWaldorf THE WAVEに搭載されたノブ・スライダーで視覚的に操作した[197]。1997年のイベント「TK Presents GROOVE MUSEUM」以降は、小室のブースはリズムを含めたほとんどの音が内蔵されたPro Tools・ハードディスクドライブとミキシングコンソールが機材の大部分を占めるようになり[232]、ステージ上で楽曲の構成をディスプレイで確認して単音・ブラス音・パッド音をノブをつまみながら歪ませて、それをPAエンジニアのチーフに送りながら行う音色と音質の変換・パート別の音量と残響時間の調節作業が担当の9割を占めるようになり、鍵盤はほとんど弾かなくなる。どのようなミックスになるかは小室のその時の気分次第であり、公演ごとに一つひとつアレンジが異なる。元の楽曲の演奏のきっかけになり、リズムをキープするための拍子・音程をキープするために最低限必要なメロディが突然消えることが多い為、照明デザイナーPAエンジニアボーカル・ミュージシャンは通常のコンサート以上の多大な緊張と集中を強いられるという[98][233][234]。2011年のDOMMUNEでのストリーミングライブより、上記の演奏の他にも、既存の音源・事前に新規に作成した音源の上に即興演奏で全く別のメロディを重ねるスタイルを取り入れている。

長期ライヴツアーがマンネリ化しない為の工夫として、スタジオで事前に完成した映像に合わせて即興でベーシックのオケを制作し、リハーサルでは毎回映像を見ながらオケの作り直し・音色のデータのアップデートを行っている。その為に小室のブースではスタジオの環境と変わらない録音ができる機材を中心にしたシステムで構成されており、レコーディング体制・ライブ体制へとすぐにどちらにも切り替われる様になっていて、「TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-」からはリハーサルの途中でも合間を縫ってレコーディングを行なう様になった[235][224]

小室自身の感じるシンセサイザーサウンドの「賞味期限」は3か月であるため、その時になったら常に1からサウンドを練り直しているという[49][204]。これについては「長時間スタジオに篭り、コンピューターを駆使すればするほど、メロディ・音色等のデータが蓄積されていく。一度取り込んだデータは加工し、再利用し、新たな楽曲作りに活かすことができて、生産性が上がる」[49]「頭の中で鳴っている音楽は1時間で形にしたい」[208]「デモテープを作っているときが一番格好良いと思っていて店頭に並ぶ頃には飽きている。昔は周りに対して『違うんだよ、これは半年前に作った曲なんだよ』と思っていたが年々スパンが短くなるにつれストレスが大分減った」[216]「ソフトシンセはアップデートする度に月に何万もの新しい音色が来る。旅先でもダウンロード出来るので驚きつつも、エディットしてすぐにぶっつけで仕事に使う」[224][236]と語っている。

ギター

プロデュースに専念するようになった1990年代から、安室・華原・globeのレコーディングでは7:3から6:4(シンセ:ギター)の割合でギターも演奏するようになった(主にPRS Guitarsエレクトリックギターアコースティック・ギター)。理由は鍵盤に対してのサンプリングのテクノロジーが発展していなかったので、歌とギター特有の細かな動作・操作・表現を鍵盤で再現するのが不可能であり[36]、鍵盤は音を跳ねさせるのは難しいけど、ギターはテクニックがなくても音を跳ねさせることができるからであった[237]。ギタリストは「キーボードで鳴らして楽曲の元々のコードに混じると鳴らせないコードでも、ギターがその部分をサポートしてくれる。その他にもイントロで即興演奏で遊んでくれて、種類を持ち変えるだけで全てが変わるから、ライブでは特に必要不可欠」と評している[36]。小室によるギターの演奏を録音したのは篠原涼子の「もっと もっと…」が初めてであり、H Jungle with tの楽曲でもノークレジットながら演奏している[238]

歌唱

ボーカルのレコーディングは小室1人でもどうにかフォローできる余地があるためキャリアを要求しないが、ライブではデビューから早期に大勢の前でマイクの前に立つのを経験させる様に心がけている。これは「舞台監督照明スタッフ・PAエンジニア・ファンの刺さるような目線に込められた気持ちを受け止めて欲しい」「ハプニングで成功する確率には期待しない。本番を1回でも多く経験し、場数が豊富であるほど、素晴らしいエンターテイメントになる」という方針からきている[239]木根尚登のソロデビュー時に木根からどの様に歌うか相談を受けた際「失敗してもいいから場数を踏んで、自分の歌い方を見つける様に」とアドバイスしている[8]。反面ソロアルバムでは自身が歌唱する楽曲があるが、「1人でモノラルで録ったら、とても聴けるような物ではない蚊の鳴くような声」[41]「ただ1回歌っただけでは非常に心もとない、絶対に歌手にはなれない声質」[43]「全然合格点ではない。自分のソロだから許されることです」[240]と話している。

その代わりにコーラスには「狼煙を焚く覚悟で行っている」と自負する程に拘りを見せている。1人で最低でも6から8回をそれぞれ違う音程・メロディーで重ねて独特の倍音を発生させて、3人並んで歌っているシーンを連想させない様にミキシングし、「それぞれの癖のある声」が「本来のメロディを生かす為の楽器」として機能するように手間をかける。小室自身も自分が担当するコーラスには1時間に8回重ねる様にしている[128][41][43]

歌唱パートのミキシングではボーカルのトリートメントに神経を使う。昔は「下手なボーカルだから素材そのものを直す」というのもあったが、機材の性能が進むにつれ次第に「より完成度を高めるためのエフェクトの付け足し等の加工」と意味合いが正反対になっていき、小室個人でミキシングを行う場合は1曲3~5時間は時間をかける[164]

メディア上の戦略的演出

音楽プロデューサー

高校生の頃から既に音楽プロデューサーになることを志していた。「中学生の時から聞いていた洋楽にはプロデューサーの名前がメンバーよりでかく載っていて、インタビューでも『プロデューサーを選ぶところからレコーディングが始まった』『今度はこのプロデューサーでやろう』『プロデューサーと喧嘩してレコードを没にした』等、かなり立場が高かったことが伺えた。無理してフロントに出なくても存在感が確保され、上手くいけば必然的にオファーが来るポジションを目指したい」[41][注釈 51]「ミュージシャンはエゴが強いから、喧嘩にならずにバンドとして統一する為にまとめ役が必要」「自分の思いを伝えるには、自分で演奏して歌うのが一番シンプルだから。でも、そういうシンガーソングライターみたいな事はできないと自覚していたから触媒・フィルター役で音楽に関わっていきたい」「『この人と組んだらこういう音になる』というのを研究しているアーティストから選出され、世に送られて、ステータスが上昇する。そこから、楽曲を自分の好きな音楽の方向に持っていって、まとめていく。そういう洋楽案内人みたいな立場になれればいいなと思っていた」[45]と考えていた。

音楽プロデューサーとしての仕事の進め方の点で、影響を受けたのがクインシー・ジョーンズベイビーフェイスナイル・ロジャース[注釈 52]等ターゲットを絞らなくても大勢に広まる宣伝戦略・ブラックミュージック専門の黒人音楽プロデューサーの手腕に一気に魅せられた事だった[193]

本格的に裏方に徹し始めたのが1992年からで「自分が表に出てツアーや取材に時間をとられるのが嫌でその時間を裏方仕事に使えば音楽業界のどれだけお役に立てられるか」を考えていた[117]。TMNが活動終了を発表した1994年当時は以後の派手な活動とは裏腹に、ステージから降りて完全に裏方に徹する予定だった。そのため「一連の大ヒットは僕にとっても予想外の出来事だった」「僕の口から『TKサウンド』と言ったことは一度もないのに『TKサウンド』だけで独立してしまった為に、人伝えではないために良くも悪くもないそのままの言葉が伝わるから、自分の発言に責任を持てて『こんなことは言っていない』という意思表示になるホームページの必要性を迫られた」と語っている[241][158]

プロデューサーとしての方針として、「こういうことのために、こういう仕事をして、形にしてほしい」というビジョンの明確な依頼を外部から受け、飽くまでも1スタッフとして関わる形で成り立たせている。例として「CDを○万枚売ってほしい」という依頼がきたら、極力それに向かって進み、「アーティストを育てたい」と言われた時には、人選して、マネージャータレント・エージェントとして素材であるアーティストをあくまでもスポンサーから提示された予算[注釈 53]・スケジュール内で、音色作り・作詞・作曲・演奏・ボーカルのレコーディングに時間をかけて[195]、「服装やメイクや髪型といったビジュアルはどうするか・どんなダンスを踊るのか・どんな言動をしていくのか」の順番をコントロールして[注釈 54]、リスナーがお金を出そうと思えて、カラオケで唄い、アーティストに憧れるまでのクオリティにするまで面倒をみるのをプロデューサーとしての基本フォーマットにしている[117][244]

自身のポリシーとして「『今○○がブームだから、○○の音にしましょう』と言われても、『借り物という企画意図が見透かされてしまう』と断り、筋の通った一本道を作って、『音楽が出来る人』として自立の道を開ける様にしている」[195]「ファンが真似しやすいもの、サウンドは今日完成したら明日すぐお店に出せる品質、カラオケに通うファンに対してお酒・おつまみ・おやつが似合うものを皆に作らなければいけない」[39]「ギターのエフェクターをつなぐ順番を決めるのと同じ感覚」[239]「最終的にはアーティスト達が僕をいらなくなっちゃう位に活躍してくれたらいい。そうすれば僕もずっとスタジオで自分の本当に好きなことが出来る」[119]「一番肝心なのは、僕・スポンサー・アーティストの中ではっきりと共通の目標や目的が意思統一されていることであり、『何が何だかわからないけど、一生懸命頑張ろうよ』というのはだめ」[245]「『大改造!!劇的ビフォーアフター』と似ています」「売れなくても売れ過ぎるのもだめなんです。『小室さんの予測通りです!』でないと。いくら成功しても、また次にオファーが来た時に困るし、僕もプロデューサーとしての信頼が得られない」と答えている[117]

「主役はスターではなく、飽くまでも聴く側」「自分から名乗っても『誰、それ?』と言われる感覚を如何なる時も忘れない様にする」という意向から、流行の音楽の調査・クレームへの対応・ファンとの交流とリサーチは欠かさず、地方でのコンサートが終わった後の夜のクラブハウスに一定の間を空けた事前の予告無しで出入りし、ラフな格好でファンとも普通に話す。雑誌のチェックは隅の細かい記事まで読み、対象は主にホットドッグ・プレスPOPEYE週刊プレイボーイ等男性向けファッション雑誌・流通系の雑誌を中心にしている。女性向けファッション雑誌は「メーカーとのタイアップが多くて参考にならない」と敢えて手を出さず、直接女性ファンと交流する時にどの様な様子なのかを事細かく観察している。ギガネットワークスエクシング等の大手通信カラオケ会社から歌唱曲ランキング等細かいデータを送ってもらっている[246][18][247]。ロサンゼルスを拠点に活動していた時には、麻生香太郎を介して大量の雑誌等を送ってもらい、日本のマーケット事情を調べていた[248]。プライベートでも「スマートフォンのアプリだけで作曲しているアマチュア・若手が出ている」と聞けば、全く新しいタイプの楽曲が生まれる可能性を見いだし、話題の制作アプリにも自分から確かめ、ニュースを読む時は音楽欄・経済欄ではなく真っ先にIT欄を読む等、技術の進歩の情報収集も積極的に行っている[249]

バンドリーダー

楽曲提供や音楽プロデュースと並行して、TM NETWORKglobeGABALLなどの音楽ユニットのリーダーとしても活動する。ユニットの一員としての活動はレコード会社のディレクターや芸能事務所に任せるのではなく、飽くまでもメンバーによる提案・主導で行い、マネジメントスタッフもそれを可能に出来るほどの柔軟性のあるスタッフが配置された[27]。小室は「TM NETWORKの活動の延長線上であり、突き詰めると僕の関わる企画の全てがTM NETWORKでの試みが原点である」[250]「プロデューサーからミュージシャンに戻れる場所」[10]「音楽ユニット自体がプロジェクト・イベント・新しいサウンドの実験室であり、活動第1弾としてシングルを出し、それをコンセプトにしたアルバムを制作した後、最終的にはアルバムをテーマにしたコンサートを行うのを早めに展開して、『このプロジェクトはここまでで終了』と区切るのが基本である。こうしないと、僕も他のメンバーも今後どう進んだらいいのか困ってしまう」[251][53][252]と語っている。

「シンセサイザー・シーケンサーが発達すれば、演奏はやがてコンピューターの役割になる。しかし、曲作りとボーカルは人間の役割だ。だったらフロントマンは作家とボーカリストで事足りる」という発想から[注釈 55]、5,6人の大所帯のバンドより少人数の音楽ユニットを志向している。より高い演奏レベルを求め、どんなジャンルやビートにも対応できるように起用するその楽器を専門とするスタジオミュージシャンを楽曲毎に変える様にしている。ライブ活動にもプロデューサーとして一歩引いた目線で指揮するより、ミュージシャン・舞台監督として現場で直接指揮しながらメンバーとして参加する。それは自分を含むメンバーの顔を覚えやすくし、一定の印税が確保され、所属事務所の経費・交通費・宿泊代・公演活動に割くスケジュールの削減にもなった。他に所属している人数の多いバンドにかかる固定給との差額はレコーディング費用・衣装代に回している[8][253][41]

美術設定への関与

TMデビュー前から「本物の音と派手なビジュアルは反比例しない。イギリスでは音もビジュアルも格好いいバンドがどんどん出てくるのに、何故日本では未だにTシャツとジーンズなのか」という思いから[9]、ビジュアル面でもコーディネートを欠かさず、インタビュー前にはメイクをスタイリスト付きで施し[254]、雑誌に乗せる写真も厳選する。写っている表情も隅までチェックし、「ナチュラル」「自然体」と評されそうな写真は極端なまでに避けている[8]

「男子・女子の両方に共感を得て、安定感はありつつ、化ける可能性があり、数年後も負けないマーケット」を作る為に、CD・PVのジャケットデザイン・書体・英語の大文字と小文字・タイトルの入れ方・色調にまで細心の注意を払っている。特に女性アーティストをプロデュースする際の基本方針として、まず「女の子が『あの人かっこいい、あの人みたいになりたい』という願望を抱くような女性像を作る」と心がけ、女性の「個性の強い、葛藤と揺らぎを抱えながらもラインに対して反抗する女の子らしさ」は出しても女性の「コンプレックスを感じさせるセクシーな部分」は出さない為に、肌を強調する映像の撮影をする際はモノクロを基調にし、身体の露出にセクシーさを感じさせない様にしている。その時のブランドを把握し、「どんな楽曲を提供するか」より先にまず「どんなファッションが提供先のキービジュアルになれるのか」と周囲と区分けできるように考えることもあり、極力コンサバファッションはしない様に固めている[10][7][138]

舞台演出への関与

スタジオミュージシャン時代にYMOのライブに行った際に「数々の高級な機材を積み上げて、その中央に毅然と佇む」メンバーの魅せ方をみて、憧れながらも「自分にはできない」と諦めていた[20]。しかし、エピックのスタッフから「ヒット曲が出たら、小室君のやりたいライブをやらせてあげるよ」と言われて奮起し、CDのセールス枚数を考慮しつつ[61]ライヴステージの設計・演出にも、積極的に情報を集めて指示を出す様になる。

1980年代はステージの進行は秒刻みでコントロールされ、アンコールも行わなかった[254]。サウンド面では体育館等元々設計がコンサート向けではない会場で行う場合は1枚5万円はする吸音材を最低100枚床に貼り込み、照明を組み込んだ総重量6t以上のスピーカーを音質を考慮し前と後ろに置き、更に宙吊りにする[246][186]。音楽だけでなく視覚面でも感動してもらうために、音楽と舞台に用意された大量のバリライト等の照明・スクリーンに映る映像のシンクロの具合・照明の光量にも注意を払い、音のタイミング優先で同時制御し、演奏の途中でボーカルの人差し指の先にステージの全照明を集める[注釈 56]等、360度光と音が飛び交い、それを体感できる様に演出した[254][199][186]。この時点でステージエンジニアと舞台演出の為の機材は、音色作りのスタッフより多かった[249]

1990年代以降は、楽曲の間奏中はダンサーとDJにスポットライトが当たる様に小室が照明スタッフ・カメラマンに指示した事により、ステージの奥行きを出し、画のバリエーションを増やした[255]。ライブ会場にはテレビスタジオ5軒分の機材を持ち込み、事前に用意された100以上の演出映像ソースの他、10台のカメラによるライブで取り込んだ映像は、即高速計算されてリアルタイムCGとなってスクリーンに映し出される。コンサートが行われる時間はテレビの特番サイズを意識し、場面転換は15秒のCMを流し、演奏時の映像はメンバーのパフォーマンスの拡大映像だけでなく、メンバー出演の収録映像も事前に用意する等、テレビ放送局の送出技術を応用する様になる[59]ドーム規模の会場でライブを行う際には、ドームでの公演専用の音響機材の開発を指揮し、「ドームでの公演は音が悪い」という風評を払拭した[256]。キーボードの脇にディスプレイを置き、色んな角度から映るステージ中央部分を見ながら、イヤーモニターを使ってメンバーとサポートミュージシャンにどの様に動くか指示を出す・ミスの修正・今後の演出の強化に役立てる等、「舞台に立つメンバーを格好良く見せる」「ステージを豪華にする」「閃きを早く実行する」為に駆使する[43][7]等の舞台演出に採算度外視で挑んでいる[257]

音楽配信の開発・プロモーション

1990年代よりインターネット、特に音楽配信ウェブサイトの必要性を説いていた。最初は楽曲のデータ・リズム・アレンジの管理・やり取りに使用するつもりで、シンセサイザーのプログラミング作業の延長線上で研究していた[177]が、次第に並々ならぬ関心を抱き、1995年11月22日より自身の当時の公式サイト「Planet TK」にてNTTの音楽圧縮技術「TwinVQ」を用いた簡単な配信の実験、自身の制作した楽曲の試聴サービス、ライナーノーツと歌詞の掲載、クリスマスにサイト限定オリジナル楽曲のアップロード、バナーによる公式サイトの運営費の確保、日英2ヶ国語に対応したデータベース・バイオグラフィの紹介による両サイドの翻訳の手間の解消、「TK MIDI ZONE」にてEOS B900EXにて読み込みができる「Planet TK」オリジナルリミックスのMIDIデータの有料配信[258]通信カラオケ機器向けのMIDIデータの配信を行っていた。「もし小・中学生がECサイトにアクセスしたらどう感じるか」「如何にコストを下げて、時間短縮するか」「レコードからCDに切り替わった時、どんな状況だったか」を常に意識しながら、シミュレーションする様に指導していた[140][259][174][92]

1999年6月、小室とインテルの共同開発でPentium IIIが搭載されたパソコン向けのコンテンツ「P3TK」[注釈 57]が配信された[91]。小室がプロデュースした曲の中から50曲の1コーラス分の試聴、640×480ドットと大画面で最新のPVのダウンロード[260]、メッセージ・スペシャルライブのビデオ画像配信、ゲーム、オークション、チャット、オリジナル壁紙、スクリーンセーバー、抽選プレゼント[261]等が提供された。

2000年にはTM NETWORKの新曲を無料で配信する試みを行うが、その時の音質を「カセットテープ並み」と消極的に見ていた[262]。2005年6月avex内に設立された高音質配信研究機関「High Definition Sound laboratory」のエグゼクティブアドバイサーに就任、当時新しくavexにより設立された音楽配信サイト「@MUSIC HD Sound」(現在はmoraと共有化)より試験的にglobeの楽曲を「スタジオマスター音源並み」の音質での配信・数々の企業に音楽配信とデジタル・オーディオ・ワークステーションのプロモーションを行い、アップルへ率先して幾度も訪問し、シンポジウムに出席した[263]。2005年8月iTunes Storeの日本でのサービスが始まるとその様子を「黒船来航」と喜びのコメントを出した[264]

2012年5月「日本だけSONYの曲がiTunes Storeに置いてないのは変じゃないですか?もう売ってくれても良いじゃないかな」と自身のTwitter上で発言する等の問題提起に尽力し、多くの反響を呼んだ。2012年11月7日にSONY発売の楽曲の配信がスタートされた際「アポロ11号NASAから、発射する瞬間みたいだった」「僕の役目はここまで」とコメントした[265][266]

後進への対応

プロになりたいという志を持つアマチュアに対しては「夢を与える産業の裏側を公開しないのが美徳かと言うと、そんなことはない。音楽はヒットしないと意味がない。だから僕に対してどんな感情を持ってもいいから、『とりあえずここから入ろう』と少しでも思って育ってくれたら嬉しい」という意向から楽曲の機材の選択・音作りの感覚・コード進行・メロディーのパターン・歌詞のイメージを戦略的にアピールし、他よりも制作時の裏話・苦労話・エピソードを積極的に公開している[247][90][248]。業界人に対してもキャリアに関係なく「作曲する時点で側近のスタッフが過程・手法の全部を知って驚く様なエンターテイメント性がある」「昨日頼んだ仕事がもう出来上がっていて、その時点で相応のクオリティになっている」と言う定評を持ってくれる様に心がけている[267]

プロとしての心構えとして「世界に進出するには、いくつもの自分の世界を作れるタレント性が必要。音楽にボーダーラインは無いけど、相手に合わせたローカライズは必要。地元は勿論アジアでの人気も両方ないと駄目。最低でもバイリンガルであるべき、できれば海外に移住してその土地のミュージシャン・エンジニアと仕事して海外の音像を学んで欲しい」[268][205]「色んな会社の人が、会議でホワイトボードに『小室哲哉』と書いていた。方法・売り方・売れ方・『小室はこうやっている』…真似をされたり、参考にされたり、それは嬉しいことで。どんどん真似して欲しい」[189]「皆が共感できる普遍性のあるわかりやすさを重視しても、迎合してはだめ。オタクと言われようが、『自分の部屋で作ったものを配信するだけ』という気持ちで数打ってそれの何発かが当たればそれが普遍性のある作品になる」[269]楽典の勉強は絶対にして置いた方がいいと思います。まずはクラシック音楽を聴く事ですね。知れば知るほどヒントになる部分が沢山あるジャンルだと思いますよ。第三楽章や第四楽章の主題の後ろで第一楽章のメインテーマが演奏されることがあります。僕の作る曲は第三楽章だけが作品としてリリースされている様な形なんですよ」[118]「スポーツ選手の場合は1回失敗するとそこで人生が変わる。それを見ていると音楽の人は楽をしすぎ。特にバンドの場合ちょっと間違っても『まぁいいか』『走っているけど、編集してズラせばいいや』『音が外れちゃったけどピッチ・クオンタイズを掛けて合わせておこう』『最後コンプレッサーでまとめちゃえばなんとかなるよ』となりがち。生舞台での大変な失敗等の経験・練習・音質の向上をどんどん進めて元を出す人間が一番しっかりした方がいい。気持ちよく不快な思いをさせないようにというのがエンターテイメントの基本」[270][228][注釈 58]「職種を2つ以上持ち、平行すること。そうすれば違うファンも開拓できるし、選択肢も広がっていく。別方面が上手くいかない時の救いにもなる[注釈 59]」「打ち合わせの時に、『僕ではない、他のアーティスト風にしてほしい』という要望が出た時に大切なのは『僕の色はいらないのか!』と怒ることではなく、どれだけ相手のオーダーに近づけるかということ。働く上では一度、自分の色を全部消して別人になる必要に迫られることがあるかもしれません。でも、自分の願望やエゴを出さなくても実は自分の色はちゃんと出る。どんなに消したつもりでも確かに残る。だから、時には相手の要望を『わかりました』と受け止めてみることも大事なことだと思います」[272]という旨の発言をしている。

人物

本人について

早稲田実業学校高等部商業科卒業後、早稲田大学に進学・在籍するが除籍、しかし現在は推薦校友になっている。2001年に早稲田実業学校開校百周年記念に百周年記念歌『ワセダ輝く』を作曲(作詞は奥島孝康)。母校の早稲田実業学校には『小室哲哉記念ホール』がある。

かなりの偏食であり、大の魚介類嫌いで有名である。原因は1歳半頃、目の前に突然鯉のぼりが落ちてきて、それがトラウマになった為と言われる[6]。それを最初に吹聴して回ったのは、木根尚登宇都宮隆である[273]。魚は嫌いというよりもむしろ「魚を見るのが怖い」(本人談)だった。またかなりの小食・早食いであり、いわゆる小室ブームの時も食事のほとんどはコンビニ弁当・インスタント・ファーストフードで済ませていた。当時のマネージャー曰く「世界一エンゲル係数の小さい人」とのこと[7]ファミリーレストラン好きで、TM NETWORK時代にラジオ「小室哲哉のSF Rock Station」(東海ラジオ)の企画で結成したユニット「ハンバーグ&カニクリームコロッケ」は、当時お気に入りだったすかいらーくのメニューから名づけたほどであった。近年は麻布十番の「豆源」のお菓子を好物として挙げている。

業界人からは「アイドル評論家」と言われる程にアイドルに詳しい。「普通の女の子がどうしてビッグスターになれるのか」とプロデューサーとして興味を持ち[274]、常日頃から「自分が管理できる、時代を象徴するアイドル」という企画を機会があったらやりたいと思っていて、ある人から「小室は自分で究極のアイドルを作りたいのか!」と問われた際、「当たっているじゃん!」と喜んだという[130]。日頃からアイドルは「大衆芸術の一つ」「社会や時代を映す鏡であり、どれだけクリアに映すかで存在の大きさが決まる」「日本には必要不可欠です。良い意味で玩具業界の様なエンターテイメントだと思うから。無くなってしまったらつまらないし、寂しい」「僕達はテレビに出ても隅っこでいい。アイドルの人達が真ん中に座って欲しいんです。ミュージシャンは隅で白けているのが逆に絵になる。アイドルが隅に座って寂しそうじゃ絵にならない」と捉えつつ期待していて、そのアイドルに自己投影するファンが楽曲提供する過程や結果で見えるため、アイドルに楽曲提供する時のポイントは事前に『アイドルが誰を相手にしているのか?』『アイドルの鏡に映るのはどんな人たちなのか?』『アイドルは今どんな時期にいるのか?初動期なのか?成長期なのか?安定期なのか?』等立ち位置と時代性を加味しつつ、声質・声域を調べていく。個人としての好みのアイドルとして、「僕の用意した曲に乗ってくれて、『このパートはキーボードにするか?ギターにするか?』と尋ねた時にハッキリと答えられて、結果に責任を持てるアイドル」と答えている[195][178]

自他共に認める「怒らない性格」であり[275]阿川佐和子は「淡々とした語り口、やさしく、腰が低く、親しみやすい雰囲気」[276]岩佐俊秀は「自分の不注意で大切なデータを消してしまったのに、『仕方ないね』の気楽な一言で済ませてしまう性格は真似したくてもできない」[194]と語っている。

自他共に認める「ワーカーホリック」であり[7]、1年の内の8割をスウェット姿でスタジオで過ごし[277][139]、特に年末年始を世間の喧騒から逃れられる貴重な時間として好んでいる[10]。小室は「スタジオが好き。『メロディが出来て、こんなアレンジで完成して、この様な広がり方で売れて、こんなコンサートがあって』と夢を膨らませることが出来る」と語っている[119]。TMデビュー前より親交のある麻生香太郎は「貸しスタジオにも関わらず、何時間も一人でクラシックのピアノソロを弾きながら楽曲の構想を練っていた」[34]「シャイで『24時間スタジオ作業できれば食事も睡眠もいらない』という不思議な人」[278]小坂洋二は「彼は昔から1日中スタジオにいるのが苦にならなかった。キーボードに向かっている姿は、おもちゃをいじっている子供みたいでした」[279]浅倉大介は「仕事が始まると、いつ寝ていつ食べているのか、こちらが心配する」[7]松浦勝人は「365日ほとんどスタジオにいること自体が大好き」[49]と称している。

1980年代後半より、ライブツアーの際にスポンサーが手配した宿泊先で自腹で追加料金を支払い、スイートルームを使うようになる[9]。全盛期には複数台の高級車とレコーディングシタジオを併設した別荘を所有していた。大のフェラーリファンとしても有名で、色違いのフェラーリを複数台所有している。過去にはプライベートでF1観戦に訪れ、フェラーリチームのピットでレースを観戦している姿も何度となく目撃されている。また、メルセデスベンツ・CLK-GTRも所有していたが、並行輸入で購入していたものであったため乗ることができず、飾り物にしていたとのことである(なお、実際には一般人の運転には危険が伴うため、製造したダイムラーは購入者の技能を調べた上で販売している。詳細は当該項を参照)。カリフォルニア州に6億3千万円の住宅・オアフ島に1億2千万円の住宅・バリ島には2億円の住宅を建てていた。アーティスト・スタッフへの労いとして、関係者を引き連れて自家用ジェットでラスベガスに行き、カジノの軍資金も全額負担した。TRFのメンバーとクリスマスパーティを行った際、メンバー一人ひとりに現金1千万円をプレゼントし、YU-KIには更に「誕生日プレゼント・御苦労さん代」と称して1千万円以上もするベンツをプレゼントした[279][280]。これはステータスの誇示の為だけではなく、仕事の関係者との打ち合わせの場所と時間を確保するためでもあった[9]

漫画・アニメ・SFに造詣が深い。高校時代にはアーサー・C・クラークを敬愛し[281]、2001年には世間的な評価が低かった劇場版ファイナルファンタジーにも賛辞のコメントを呈している[282]。また、さくらももこの携帯公式サイトを短いサイクルで確認し、実際に本人にあった際「僕はキャラは友蔵に近いんですよ」と話したという[283]。そして最近はケロロ軍曹のファンを公言しており[213]、自身のブログ・Twitterでも時折口調を真似る等、守備範囲は幅広い。

左腕下部に入れ墨が2つ有る。1990年代にTKロゴを、2000年代にその上に別のマークを彫った[233]

まだインターネットが一般的になる前だった90年代からネット配信に注目しており、小室が趣味でiTunes Storeからダウンロードした楽曲は2万曲に上る[284]

自身のTwitterで、佐久間象山柴田勝家の血をひいている可能性があることを明らかにしている[285]

仕事について

現在は国際麻薬統制委員会(UNODC)の親善大使も務めており、2007年4月から2008年11月4日まで尚美学園大学の芸術情報学部・音楽表現学科・特任教授に就任して、音楽特論(新世紀音楽概論)を担当していた。

仕事に対しての姿勢は「アーティスティックで難解な作品を作るのではなく、アンディ・ウォーホルみたいに何十万人もの老若男女に受け入れられるコピーを作るのが僕の役目」[139][19]「まず最初に企画書があって、たくさんの人から提供された情報から一番企画に合う人を絞り込んでいく」[286]「『始まりがあって、観客の心が揺れ、高揚感を覚え、静寂に戻って終わる』というストーリーのある観客の反応ありきの音楽作り」[287]を心掛けている。小室はそれを「古典派音楽の時代に活躍したオペラの宮廷楽長と立場は変わらない。自分で曲を書き、劇場で観客を楽しませ、王様にも喜んでもらい、次の仕事をもらわなければいけない」[267][153]と例えている。

他の芸能人と比べ個人レーベル・個人企業・個人スタジオを設立した数が比較的多い。小室曰く「今日思いついたアイディアを明日実践する機動力を持って面白い事をする為」「必ず結果を出す前提で一から十まで好き勝手やりたい放題行うための責任表明」とのこと[288]。しかし、後に「僕は事業運営に向いていなかった」と親交のあるテリー伊藤に述懐していた[289]

雛形あきこの歌手デビューにあたって雛形の所属事務所からプロデュースを依頼されていたものの、「彼女はこれからの人だから僕のイメージがあまりついてはいけないと思う」と断り、代わりに浅倉大介を起用させた。

華原朋美のプロデュースを兼ねた交際を「フライデー」1995年6月23日号に掲載された際、小室は同誌の記者を自身のスタジオに招き「アーティストに手をつけたのではなく、自分の恋人に曲を提供し、プロデュースを始めることにしただけです」と語った[10]。そしてすべての活動に至るまで「ツーショットでいく」ことにした結果、華原を大ヒットさせた。

1997年、「SPEED TK RE-MIX」をマイケル・ジャクソンが気に入ったのが縁でマイケルと知り合い楽曲提供を依頼されていた[10]。当時の小室のロサンゼルスでの活動をバックアップをしていたショービジネス専門の弁護士ジョン・ブランカによる仲介もあったが[290]、制作した楽曲は採用されなかった[291]。小室の見立てでは「『Invincible』に収録されるかもしれなかったが、R&B色の強いあの内容では僕の入る余地はない」と振り返っている。その後デモ音源の3曲の内1曲はMUSEUMの音源として発表したが、2曲は「永遠にマイケルの物だ」「発表することはない」という旨でコンピュータ上のデータとして封印している[292][43]。またハンソンア・トライブ・コールド・クエストのメンバーと意気投合しニューシングルのプロデュース作業も、発売こそされなかったが実制作が行われてレコーディングが完了していた[293][294]

人間関係

1983年頃、他のミュージシャンのローディーをしていた久保こーじにバックバンドをしていた小室が「バンドやろうよ」と声をかけたのが切っ掛けで以来小室と共にスタジオ作業を行うようになり、小室に引きずられる形で徐々に段階を踏んでプロデューサーが担当する作業に手を付けるようになった。その関係は久保が「小室の一番弟子」と名乗る程の師弟関係を超えて生き、次第に久保が「小室ファミリー向けの曲は本当に小室さんと僕で作っている」「日本の電子楽器発展の歴史そのもの」[注釈 60]と語るほどのブレーンであり、パートナーになった。二人の楽曲の作り方は様々でtrfは二人で音色作りの段階から関わり、globe・華原は小室のみで進めていき、hitomiは久保主導で行い、アーティストの選定は小室中心で進行していく等、ケースバイケースで立ち会う[295][197]。はっきりとしたサビ・大まかなメロディとコード進行等の60%を小室が作り上げ、イントロ・編曲・マスタリング等残りの40%をテーマ・イメージ等をまとめた企画書を渡した上で久保率いるロックバンドNo! Galersがアレンジをまとめ上げて、完全パッケージメディアに仕上げるための海外のエンジニア達を管理する作業を一手に担う[296][297][197]。2人の共通点について久保は「タイアップ先を先に決めて、それに合わせた楽曲を作って、最後にアーティストをはめていく制作手順」を挙げている[197]。2人の違いについて篠原涼子は「小室さんの歌詞は女性の力強さにポイントを置いて書いていて、久保さんはロマンティックな恋愛をしている女性を語りたい様な感じがする」と話し[298]鈴木亜美は「小室さんは得意な所をどんどん引き出してくれるので、好きなジャンルをいっぱい歌えるんですよ。久保さんはしっとりとした歌が多いのと『次はこれ、次はこれ』と言う感じで新しい分野に挑戦させてくれる所がある。どちらも必要なことだと思うので、すごくバランスが取れている感じです」[299]と評している。

浅倉大介がヤマハでシンセサイザーの開発者として携わっていた時に小室から「ほぼ打ち込みのサウンドをライブで再現したい」というオファーが来た際にヤマハの意向で当時のMIDIサンプラーデジタルシンセサイザーの事情を熟知して、音楽理論にも精通していた浅倉が出向したことから、浅倉との付き合いが始まる。「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」が始まる2週間前に2人で音色の打ち込み・ライブアレンジを施し、小室の描いたセッティング表を基にライブ用の機材の同期システムの構築を担当して、ヤマハ・EOSシリーズの開発にも小室と共に関わった[290]。「TM NETWORK RHYTHM RED TMN TOUR」において、アルバムと同様ロック色を打ち出すため当初、ベーシストとして浅田孟の起用が予定されていたが、諸事情により断念。代わりに小室の推薦により、バンド・ライヴ経験の全くない浅倉がシンセベーシストとして参加、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせ[8]、ステージに立ちながら、ライブでの照明とバックバンドの配置・パフォーマンス等の演出等のエンターテイメントの仕組みを実地で学んでいった。アーティストとしてデビューする時も小室から様々なアドバイスをもらい、その時の浅倉は「正にプロデュースするというのはこんな感じなんだ」と振り返っている。小室ブームが起こり浅倉も音楽プロデューサーとして活動していた時でも、合間を縫っては浅倉が小室のライブを見に行き、音楽シーンについて2人で世間話をしていた。その際、小室の「リリースや制作の仕方が早くなっていくから柔軟に対応できるように自分のスタジオを持ったほうが良い」とアドバイスされ、浅倉専用のスタジオを準備した結果、「1-2年でここまで変わるとは思わなかった」「空いた時間にアマチュア感覚で作れるようになった」と語っている。浅倉は小室との共通点として「締め切りとの付き合い方、失敗してもいいから可能性にかける姿勢、スタジオでの場所を選ばない柔軟さ」を挙げている。相違点として、浅倉は「聞こえる音色・音の跳ね方・鍵盤を押してから音が鳴るまでのスピード」をモニター上に波形として映る数値・データを見ながらテンキーで数字を打ち込んで修正していくが、小室は最終的な判断は全部自分の耳で行っていく点を挙げ[300]、小室も浅倉と直接共同で作業する際は理数系・コンピューターの問題・最終的な形の仕上げは浅倉に任せ、小室は話や言葉を思い描き、世界観・歌詞を作っていく役割を分担し、その関係性は出会った時から変わっていない[210]

1990年にX日本武道館公演を見た小室がYOSHIKIに興味を持って、吉見佑子の紹介でスタジオを抜け出して麻布台キャンティで対面した[301][302]。その際、初対面であるにも関わらずYOSHIKIのインディーズで自分達のレコード会社を作ることから始めて、その戦略をソニーに持ち込んだことに対して、今まで所属する前から存在するレコード会社・マネジメント事務所内の契約書をどう利用するか考える所から仕事を始めていた小室が驚愕したこと[301]・非情とも取れるサウンドプロデューサー気質にお互いが共感したこと[注釈 61]から、交流が始まる。業界ではYOSHIKIと小室の関係をよく知る人からは「YOSHIKIの猛獣使い」と呼ばれている[213]。後にピエール中野との対談の際に当時を振り返り、「彼が言うことを聞いたのはhideと僕ぐらいだったんじゃないかな。まあ僕に関していえば、言うことを聞くっていうよりも、意見を聞いてくれるって感じだったけど。僕が出す意見に『いいよね』って耳を傾けてくれるというか。V2のレコーディングでは、『小室君に任せるよ』っていうことが意外とあったので」「今でもすぐに連絡を取り合えて、なんでも遠慮なく言い合える関係」と語っている[230]

1991年、小室が本格的にエレクトロニック・ダンス・ミュージックの制作を開始した際、以前より顔見知りであった千葉龍平の紹介で松浦勝人と対面。以後、二人は音楽制作での重要なブレーンとなる。主にタイアップ交渉・所属会社の壁を越えた撮影チームの融通、カラオケ画面でのアーティスト本人のPV映像の上映を実現するためのコーディネートに奔走していた[33]。しかし、制作・セールス方針、印税の分配等[注釈 62]で松浦・千葉と小室の意見が決裂、1997年に絶縁[32]。その時の状況を松浦は「完全に小室さんをライバル視していた」「目標は『打倒小室』だった」「小室さんから『頑張ってくれてありがとう』って、ちゃんと言われたことがないような気がする」[33]と語り、当時チーフマネージャーを務めていた伊東宏晃は「私が判断してるわけではないのに、各事務所・レコード会社からのクレームがほぼ全部私個人に集中してきた。毎日『明日辞めよう』と思いながら1994年に書いた退職届を携えていたが、小室さんの仕事を間近でみて『この凄い天才の名曲が生まれる瞬間に立ち会えているのは、自分しかいない』『小室さんの喜ぶ顔が見たい』と辞める気持ちすら上回るオーラがあった」と複雑な心境を語っている。その後はエグゼクティブ・プロデューサーとして企画のチェックに関わる事はあっても、マネジメント等の協力・プライベートの交流は皆無に等しかった。しかし、2008年に小室が逮捕された際、その翌年に小室の債務の一部を肩代わりし、今後の制作の為のスタジオ・小室夫妻の為の部屋を用意する。公判の際にも、「何もわからない音楽業界について色々教えてくれて、今のエイベックスを作ってくれた恩師」「類まれなる才能を持つ稀有な音楽家」と話したことに小室が感動し、松浦・千葉と和解する[56][269][304]

横浜ベイサイドクラブのイベント「TK RAVE FACTORY」を開催する際、横浜ベイサイドクラブからDJ KOOにオファーが舞い込み、クラブの紹介で小室と対面した。小室の造詣の深さに感動し、「押しかけ付き人」と称して小室の作業を見ながらリハーサル・レコーディング作業・雑用等をこなした。ふと小室のソロ楽曲「Omoide o Okizarinishite」を聴いた時、「こんなに素晴らしい曲を作る人なんだ、何も考えずに信じてついていこう」と厚い信頼を置くようになった[184]。「EZ DO DANCE」からプロデューサーとしても関わるようになり、主に小室から仮歌が入ったデモテープと簡単なイメージワードをもらい、その意図をくみ取る形でYU-KIのボーカルディレクションをDJ KOOとYU-KIの主導で行っていき、出来上がったボーカル音源を小室がチェックするという流れが基本となった[305][218]。その他にも小室の色々なセッションにクレジットの有無に関わらず必ずスタッフとして付く様になり[306]マルチトラック・レコーダーが回る前からレコーディング作業に関わるようになる。小室とサウンド関連のコンセプトのミーティングを行い、ハイハットの音色が1個入る所からプロモーションまで密着し、マルチトラック・レコーダーを抱えて次のスタジオに走ることもあった[307]

坂本龍一とは「クリエイティブな少数派に向けた作風」を追求する坂本と「メジャーでスターになるための方法論」を追求する小室、インターネットでのファンに対するアプローチの方針の違い[注釈 63]からして、小室曰く「お互い中和しない関係」と称しつつも、「何をどうするかが絶対に違うけど、無い物ねだりながらもお互いに無い物を求めている」「誤解されるのを承知で言えばホモセクシャルな感覚を持っていて会うと安心できる」と話している[140]。反面「芸術家であり、その方面では未だに何一つ彼との差は縮まっていない」と賛美と嫉妬を込めた発言をしている[308]

ジャン・ミッシェル・ジャールとは1997年12月に直接会う前からお互いの音楽活動に際しての将来のビジョンを知っていたため、年齢・国民性に関係なく会った途端に意気投合した。二人が「本当にやりたい」と改めて確認しあったことは「場所・観客・時代に関係なく人間の気持ちを伝えていくことであり、問題はそれを如何にその時点のツール・スタイル・サウンド・リズムを生かして表現していくか」であり、ジャン曰く「極端に言えば料理人が寿司にするかパスタにするのかを決めるのと同じこと」と語っている[309]

福島県中島村村長を務めた小室康彦は遠縁にあたる[注釈 64]

近年ではマルチタレントのリリー・フランキーと仲が良い。2013年にはリリー・フランキーが主催するライブイベント「ザンジバルナイト」にも出演した。

年齢も職業も異なる人たちと異業種交流を行う会である「異能会」を主催し、定期的に行っている[310]

使用機材

関連企業

  • Office TIMEMACHINE(株)
1983年TM NETWORKデビュー前から小室・木根が所属していたJun & Kei社内に設立されたTMのマネジメント・コーディネート業務専門の芸能プロダクション[324]。別名「TIMEMACHINE CAFE」・「TIMEMACHINE CORPORATION」・「TIMEMACHINE GROUP」・「Timemachine」。1990年「TMNリニューアル」の際、事務所社長に就任[9]。一時期、葛城哲哉阿部薫浅倉大介貴水博之も所属しており、「TMN終了」以降も1995年までのaccessのマネージメント、1998年まで宇都宮のマネジメントを行っていた。
  • T-MUE-NEEDS(株)
TM NETWORKのグッズ・イベント等の企画・運営会社。「TMN終了」時に解散。
  • グラデミー(株)
小室が1991年に設立し、代表取締役社長に就任した映画製作会社(宇都宮、木根も取締役に就任、角川春樹三菱商事もバックアップとして参加していた)。社名の由来は、「グラミー」と「アカデミー」を掛け合わせた造語とも[9]、英語で「引力」と表す「gravitation」と英語で「純粋・学術的」と表す「academic」を掛け合わせた造語とも[325]いわれる。木根尚登著「月はピアノに誘われて」の映画化、TM NETWORKの楽曲「THE POINT OF LOVERS' NIGHT」をモチーフにした映画製作(小室、原案・脚本、木根)[231]、「チーム・グラデミー」名義でのF1参加[325]の企画が持ち上がったものの、それ以降公式のアナウンスが無いまま自然消滅した(F1参加は実現した)。
小室の個人レーベル運営及びイベント制作のために設立された会社。現在では小室とは離れた事業会社としての性格も持つ。
TK TRACKSの子会社。小室と直接の関係はない。
  • TK state(有)
    • TK MUSEUM
    • TK state America MUSEUM
    • TK SEQUENCE
    • TK SEQUENCE America
    • TK ENTERTAINMENT SERVE
    • Prime Direction TK Room
    • tetsuya komuro rise
1994年から2000年まで運営されていた小室の個人事務所。「TK MUSEUM」はイベント限定で音楽ユニットとしても活動していた(このノウハウは後のTKCOMに活かされる)。
小室と丸山茂雄ニューズ・コーポレーションが共同で設立したアジアマーケットをターゲットとした事業会社。「SPEED TK RE-MIX」のスーパーバイザー・中国で放送されたオーディション番組「TK NEWS -小室魔力-」の番組監修を務め、JスカイB(現スカパー!)の小室のタイアップによる音楽専門番組「Sky Music」で小室プロデュース楽曲とPVを流す予定もあった[326][327]。後に本社を母体としてRojam Entertainmentに発展する形で解散・吸収合併した。
香港を拠点とした本格的なアジア進出を目的とした総合音楽プロダクション。小室は2004年5月に全持株を売り実質上経営から撤退するも、プロデューサー契約として残っており(専属ではない)、小室の個人スタジオを運営・管理する等関係は2008年まで続いていた。
サッカー関連のマーケティング、制作などを行うための会社として設立、後に実質的な小室・木根(一時期のみ)の個人事務所となる。TKCOMの発足に伴い、休眠。
  • High Definition Sound laboratory(株)
  • TKCOM(株)
    • TKCOM Studios
  • a nine(株)

個人スタジオの変遷

※太字は2011年現在使用しているスタジオである。

評価

チャート

1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートで、小室哲哉が作詞・作曲・プロデュースした楽曲が1位から5位までを独占した。同一作曲家、兼プロデューサーによる上位5曲の独占は、日本のみならず世界の音楽チャートにおいても史上初めてのことである。

1995年度のJASRAC発表の著作権使用料の分配額ランキング(JASRAC賞)では、小室哲哉が作詞・作曲した楽曲が国内作品の1位から3位までを独占した。同一作曲家による上位3曲の独占は、同ランキング史上初めてのことである。

1998年10月19日付けのオリコンシングルチャートで、小室がリーダーを務めるglobeの楽曲4曲が同時にベスト10入りし、当時として史上初の記録を達成した。この記録は「発売日が異なる再発でない同一アーティストによるシングルの複数チャートイン」として現在も記録が保持されている。

オリコン

シングル総売上枚数 - 4,219万枚(作詞家歴代4位)2011年6月20日現在
順位 売上枚数
(単位:万枚)
作詞家
1 6,828 阿久悠
2 4,984 松本隆
3 4,576 秋元康
4 4,219 小室哲哉
5 3,718 稲葉浩志
6 3,570 桑田佳祐
7 3,467 つんく♂
8 2,850 桜井和寿
9 2,596 なかにし礼
10 2,473 山上路夫

主な提供曲(1980年代〜2011年)

下記は一部にすぎない。詳細は小室哲哉提供楽曲一覧を参照

  • 岡田有希子
    • 「Sweet Plant」 生前最後のアルバムに収録された下記曲を含むアルバム曲で、2曲とも作詞は三浦徳子、編曲は松任谷正隆が担当。
    • 「水色プリンセス」
  • 福永恵規
    • 「10月はさよならのパームツリー」 元おニャン子クラブのメンバーに初めて提供したミディアムテンポの歌謡曲。編曲は下記曲と共に大村雅朗。
    • 「ハイパー・ラッキー」 こちらはアップテンポの楽曲で、小室哲哉の特徴的な早口のアイドルPOPS。
  • 岩崎良美
    • 「哀愁クルーズ」 アルバム『cruise』に収録。
    • 「スロープに恋をして」 作詞は松井五郎。編曲は武部聡志で、小室哲哉の80年代の楽曲提供曲を多くアレンジした一人。
    • 「Blizzard」 作詞は麻生圭子、編曲は上記曲と同じく武部聡志。収録アルバム『blizzard』の表題曲にあたる。
  • 原田知世
    • 「家族の肖像」 作詞・秋元康、編曲・後藤次利というゴールデンコンビでの楽曲。
  • 荻野目洋子
    • 「NONSTOP DANCER」 アルバム「ノン・ストッパー」に収録されている楽曲で、荻野目洋子自身が一番好きな曲と公言した曲。
    • 「ジャングル・ダンス」 NHK「みんなのうた」で何度も流れていた楽曲。
  • 松田聖子
    • 「Kimono Beat」 元レベッカ土橋安騎夫がサウンドプロデュースしたアルバムの「Strawberry Time」に収録されている楽曲。
  • 大西結花
    • 「パンドーラ」 小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。
  • 八木さおり
    • 「月と恋心」 同じく小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。作詞は森雪之丞で、編曲は武部聡志。
  • 沢口靖子
    • 「Follow me」 沢口靖子が出演した「痛快!ロックンロール通り」の挿入歌。作詞は川村真澄で編曲は大村雅朗。同ドラマではTMNetworkが主題歌を担当した。
  • 郷ひろみ
    • 「空を飛べる子供たち〜Never end of the earth」 アルバムの最後に収録されている楽曲で作詞は秋元康。
  • 中山美穂
  • 堀ちえみ
    • 愛を今信じていたい(1987年)引退前のラストシングル
  • 伊藤かずえ
    • 星屑のイノセンス(1988年
  • 小泉今日子
  • 宮沢りえ
  • 田中美奈子
    • 夢みてTRY(1990年)田中美奈子が主演の「トップスチュワーデス物語」の主題歌。
    • 「I say Hello Again」 こちらは「夢みてTRY」のカップリング曲で、B'z松本孝弘がエレキギターを弾いている。
  • 観月ありさ
  • 東京パフォーマンスドール
    • キスは少年を浪費する(1993年)サウンドプロデュースと作曲・編曲を担当。
    • ダイアモンドは傷つかない(1993年)楽曲提供のみでなく、ミキシングまで手掛けた楽曲。
    • 「Sanctuary〜淋しいだけじゃない」 所属していた篠原涼子穴井夕子が歌唱している楽曲。後に小室哲哉プロデュースで篠原涼子がセルフカバーしている。
  • バックストリート・ボーイズ
  • 森進一
    • 眠らないラブソング(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。
  • SMAP
    • Trust(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。アルバム『We are SMAP!』に収録。
    • グラマラス(2010年)作詞・作曲を担当。シングル『This is love』のc/w。
    • 意外にもジャニーズのアイドルグループに楽曲を提供するのはこれが初である。
  • 浜崎あゆみ
    • crossroad(2010年)作曲・編曲を担当。
    • Virgin Road、Last angel(2010年)作曲を担当。シングル『L』収録。
    • アルバム『Love songs』では収録曲のほとんどを小室が作曲した。
  • やしきたかじん
    • その時の空(2010年)作曲を担当。
    • やしきたかじんの冗談で楽曲提供が決まった。作詞は秋元康が手がけた。
  • 坂本美雨
    • True Voice(2011年)作曲を担当。アルバム『HATSUKOI』収録。
    • 坂本美雨は同時期に小室のソロアルバム『Digitalian is eating breakfast 2』にも参加している。

主なヒット曲(1993年〜)

1994年、小室哲哉は、trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」で初めて100万枚以上のヒットを達成。

1997年の華原朋美の「Hate tell a lie」まで20曲のミリオンヒット曲を世に送りだした。(小室ブーム参照)。

※下記は主な小室哲哉プロデュース作品であり、一部にすぎない。 ☆ … ミリオン ☆☆ … ダブルミリオン

1993年

1994年

1995年

1996年

1997年
1998年
1999年
2000年
2001年

個人レーベル

参加ユニット

関連人物・交友関係

  • 関連人物
宇都宮隆木根尚登KEIKOマーク・パンサー麻生香太郎松浦勝人、千葉龍平、丸山茂雄小坂洋二小室みつ子松本孝弘葛城哲哉阿部薫久保こーじ渡辺美里、藤井徹貫、日向大介浅倉大介YOSHIKIDJ KOO岩佐俊秀坂元裕二伊東宏晃前田たかひろ松尾和博志村明TRF浜田雅功安室奈美恵hitomi観月ありさ篠原涼子華原朋美ジャン・ミッシェル・ジャール鈴木亜美浜崎あゆみ原田大三郎DJ DRAGONニック・ウッドPurple Days
  • 交友関係
アーサー・C・クラーク秋元康浦沢直樹大江千里大多亮、喜多村豊、木村カエラ近田春夫坂本美雨ZEEBRAshinnosukeスティーヴィー・サラススティーヴィー・ワンダー鈴木大輔高見沢俊彦玉置浩二田村淳デュラン・デュランテリー伊藤tofubeats中田英寿中田ヤスタカHYDEVERBAL原田大三郎FENCE OF DEFENSE松任谷由実鎧塚俊彦リリー・フランキー、若尾裕之 (五十音順)

脚注

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注釈

  1. ^ 浜田雅功とのコラボレーション時に使用。
  2. ^ SERIKA with DOGのサウンドプロデュース、篠原涼子とのコラボレーション時に使用。
  3. ^ SPEEDWAY参加時に使用。
  4. ^ クレジットに乗る際の大部分の名義として定着している。
  5. ^ 2010年から使用。
  6. ^ 1997年の全米進出時に使用。
  7. ^ dosのアルバム『chartered』に使用、またTM NETWORKのオフィシャルサポーターユニットのグループ名として命名、バリ島の別荘の表札に使用。
  8. ^ mF247への楽曲提供時に使用、現在も時折使っている。
  9. ^ TRFの海外用PR盤制作時に使用。
  10. ^ global trance 2』制作時・『Cyber TRANCE』プロジェクト参加時に使用。
  11. ^ 『Embryo』の発表時に使用。
  12. ^ 銀星団参加時に使用。
  13. ^ ハンバーグ&カニクリームコロッケ』での活動時に使用。
  14. ^ 「運指の粗さ・ミスタッチをアドリブでどうごまかすか、どの様にお客さんを驚かせて喜ばせるかがすごく勉強になった」と話している[14]
  15. ^ 「テクニックや正確さよりも、それぞれが気持ち良いと思う響きを奏でようとする姿勢に共感しました」と話している[15]
  16. ^ 「懇意にしている洋服のブランドを日を空けてまた買いに行くと、全く違う系統のデザインや色使いになっていた様な感じだった。それを2時間のライブにどう持ち込んで凝縮させるかを考えていた」と話している[16]
  17. ^ 哀婉・あのねのね白竜原田真二等のバックバンド(キーボードを担当)、SPEEDWAYへの参加等。
  18. ^ ビルボードでも堂々と1位を取ったり等大衆性があった。とにかく歌う側も『誰かに形にしてもらって当たり前』と完璧に開き直っていました。そんなすごく華やかなシーンに注目していたので、この時期の日本の動きにはほとんど目がいってませんでした」と話している[27]
  19. ^ 「『サンプリングのドラムの音をあそこまでピッチを高くして上げて、高くなった音にまた別の音とリズムを重ねる』という当時の自分のスタジオでも30分で出来たことだった。当時発表しても『音がペラペラでこういうリズムでは踊れない』と言われたかもしれないが、古いシンセサイザーでも一番安く誰でもすぐ作れるのに第一発見者になれなかった」と振り返っている[28]
  20. ^ 主に春夏秋冬通してスタジオでTRFに向けた音色作りを中心にしていた[35]
  21. ^ trfの1stアルバム「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜」をリリースした後、自身のソロアルバムを制作していたが「これはTMで発表したい」という気持ちが強くなり、急遽中止した。その時に作られた素材はすぐに商品として発表できるレベルまで煮詰めていた[37]。そして「ループ素材を使ったグルーヴを軸にした音楽」「カラオケで気軽に歌えない音楽」を1994年春のTMのコンセプトとし、「一途な恋」を初めとするパイロットとなるシングルを3〜4枚出し、リードシングルの無いオリジナルアルバムを出すという予告があった[38]が中止になった。
  22. ^ 実際にtohko「BAD LUCK ON LOVE 〜BLUES ON LIFE〜[10]を例に衣装の提案・イメージ戦略の統括を担当し、楽曲制作には全く関わらないケースもあった[45]
  23. ^ 「TRF・安室さん・globe等で書いてきた『女の子同士の共感・友情・仲間意識』『女子が裏側で流行を仕切っていて、女子が男子を品定めしている時代』『女子が主人公で表舞台に立って時代をリードしよう』より彼らの書く『異性に対するきっちりとした愛情』の方が受け入れやすくなった。女子が女子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』から女子が男子に『貴方は素敵なんだから頑張って』という時代になった」と話している[59]
  24. ^ 「歌唱力があったり、メロディが良かったり、歌詞が良かったり。僕には彼のしょっぱい感じが出せなかった」と話している[60]
  25. ^ 「作詞の概念を変えられてしまった。とにかく僕には『Automatic』っていうのは出て来なかった。出ないってこと自体、クリエイター側からすると『出てこないんだ自分は…』ってなるんです」「歌詞のハメ方、ラジオの喋り方等、何から何まで自由で『うらやましいなあ、こんな好きに喋っていいんだ』っていうことだったり」[60]ブラックミュージックを原風景に育ったネイティブな日本人が21世紀を引っ張っていく」[21]「ものすごい枚数が売れたと同時に『これ以上はCDの枚数は稼げないだろうな』という直感があった」[61]と話している。
  26. ^ 日本大学名誉教授板倉宏は、「巨額詐欺なので、被害者が許した場合でも執行猶予の確率は30%。実刑になった場合は1億円なら1年が相場、今回は弁済しているので3年くらいが妥当」と述べている“執行猶予30%…小室哲哉、まだまだ続くいばら道”. 夕刊フジ (ZAKZAK). (2009年3月13日). http://www.zakzak.co.jp/gei/200903/g2009031324_all.html 2011年2月3日閲覧。 
  27. ^ 早稲田実業学校時代より複数のバンドで活動。
  28. ^ 特例として、外部からの依頼に関しては全方位外交で臨む許諾をソニーから得ていた。globe等ユニットで活動する場合は「専属解放」という形になり、1曲毎の許諾を得て、レコーディング・歌唱・ライブ活動・テレビ出演・CM撮影を行い、写真撮影1枚に至るまで詳細な契約書が制作された。麻生香太郎曰く「Jリーグの選手の期限付き移籍みたいな形」と称している[86]
  29. ^ 一例として、H Jungle with tは2枚目のシングル「GOING GOING HOME」の発売とそれに関連した活動で終わる予定であり[87]、小室はいつでもエイベックスから離れられる関係であった。そこから、小室は「誰をどのレーベルに所属させれば、製作費が多くもらえるか」を考えていた[88]。契約した最初期は小室自身のボーカル・コーラス等の歌唱を録音することが出来なかった[89]
  30. ^ これは依田巽の「エイベックスが小室さんを独占し、小室さんに安住することを防ぎ、如何にエイベックスが小室さんに魅力的な提案をしていけるのかを考えるのがエイベックスの仕事」という思いやりもあった[87]
  31. ^ 他国への発売はiTunes Store配信版のみ。
  32. ^ trfのプロモーションを兼ねて、横浜ベイサイドクラブで小室の個人名義の主宰で開催されたライブイベント[116]
  33. ^ 特に一職業としての音楽プロデューサーに対する思い入れは強く、「プロデューサーという言葉を浸透させたのは僕で間違いないですね。全体を統率する者がいないと駄目なんだということを業界に一応認知させることができたかなと思います」と話している[117]
  34. ^ 一つに「冒頭から最高音」もう一つは「比較的低い音から始めて最高音へ徐々に上げていく」流れがある[118]。ハイトーンのボーカルには赤ちゃんの泣き声を意識している。基本的には「本能的に声を絞り出して」「喉から声を出さないで」「赤ちゃんは本当に心から泣きたいからファルセットを使わないで」「高いキーで泣く様に」歌う様に指示し、「そばに来て・助けて」という様な欲求を訴える雰囲気を出すようにしている[119]
  35. ^ 特に後者の方法は「こんな内容で叩かれないだろうか?」というプレッシャーとストレスの解消・スランプの防止・アイディアの開発に役立ったという[130][10]
  36. ^ 「美里ちゃんの詞の世界を参考に、自身の視点から同じテーマを書くとこうなるというアプローチ的手法で作詞していた」[150]「渡辺さんの影響でドア・イノセント・ジェントル・少年・少女をテーマにするようになった」[42]と語る。
  37. ^ 「流行語を使わない、10〜20年後でも何かに当て嵌めようとすれば誰でも主人公になれる様な、あまり時代に寄り添い過ぎない普遍的なワードしか使わない」と語る[151][152]
  38. ^ 「せめて音楽位は女の人の味方にならないといけないと感じて作った」と語る[117]
  39. ^ 一連の工程の9割は音色作りに割り振り、一つひとつの音色をしっかりオーディションしつつ編集して、『どの音色で弾けば下のベーシックなパートが浮かび上がってくるか』『現場のDJが聴いてすぐに印象に残って使おうと思えるか』まで考えてオーケストレーションのアレンジに近い感覚で作業する[30][183]
  40. ^ その直後に突発的に新しいメロディ思いつくことがあるので、それが活かされつつ、楽曲全体の足枷にならない為に最初からこの段階で終わらせる事もある[121]。その状態をDJ KOO曰く「音数がすごく少ない。メロディも無くて、リズムとシンセがコードで入ってるくらい」と例えている[184]
  41. ^ 個々のシンセサイザーでも特徴が違い、「楽曲作りに威力を発揮する機材」「アレンジで役に立つ機材」等とその時の局面で切り替えている[10]
  42. ^ 譜面はスタジオ内で共有するために手弾きでコンピューターにもインプットさせる形で行い、手書きはしない[185]
  43. ^ ただし、hitomiと作業する場合は、デビュー前にhitomiに一定期間日記を付けさせた結果「どこで探してきたんだという位古い言葉を使うのが好き」[41]「思っていた以上に丁寧で、同世代の女性の代弁者になれる」[187]と見込んだ為、hitomiがメモの落書きの要領で書いた歌詞に対して小室が歌詞を厳選し、音源を後付けしていく方針をとった[188]
  44. ^ 小室は「本格的に意識したのは『Love Train/We love the EARTH』を制作した時から」とのこと[197]
  45. ^ ただし、この発言は「久米宏さんをフィルターとした番組である「ニュースステーション」の放送時間帯での久米さん以上の年齢の視聴者の反応を考慮したフェイク」とも答えている[198][51]
  46. ^ 3小節以上使うと著作権使用料が発生するため、2小節以内に抑えている。
  47. ^ ただし、自ら「生歌では困難」と称する程のメロディではレコーディング技術を駆使してクリアした部分がある[120]
  48. ^ これに対して澤野は「耳に残らずに流れていくようなメロディも作品の演出上で情景を表す為にやっているので、何が良くて何が悪いかというものでもないのですが…。僕は小室さんの作った作品の様にメロディの残る楽曲があるサウンドトラックが好きですし、そうした作品が世に増えたらいいと思う」と語っている[157]
  49. ^ 特にシールドケーブルに対しては「シールドケーブルの中を音が流れるだけでも、その音の音質は劣化する。それを防ぐ為に1本100万円以上の最高品質の物を指定している[43]」「今までのスタジオの建築費にはどれ程無駄遣いしたかわからない[208]。しかし、シールドケーブルに関しては今でも無駄遣いだとは思わない[43]」と話している。
  50. ^ ただし、音声圧縮に対しても「いい音が全てではなく、無料で試聴できたり、早く聴けたりするなど圧縮にもメリットがある。確実に音質は劣化するが、圧縮=劣化=ダメということではない」と一定の理解を示している[219]
  51. ^ それでもフロントに出ていた理由として、「プロモーションの都合上、一緒に登場しなければいけなかった自分の周囲に対するせめてもの弁解として『with t』等を付けた」「ミュージシャンとしての小室哲哉を演出したかった」[10]「TMの固定ファンを取り込もうとしていた」[48]と答えている。
  52. ^ 「ナイル・ロジャースはマドンナの『Like a Virgin』をプロデュースしたけど、ターゲットとした市場は世界の10億人くらい。それに対し日本が1億人だとすれば、たった1割。そこで『たかだか1~2割程度なら、敢えて日本の音楽ファンにだけ向けて作らなくても、『Like a Virgin』みたいな曲を作って、日本でも世間にごり押しすれば1億人に広まるんじゃないか』と思った」と語っている[193]
  53. ^ シングル1枚に対しての総製作費は最高で500万円だった[242]
  54. ^ プロデュースする人全員に小室が思い描いたイメージ・キャラクターは、相手の本質とは違う勝手なイメージであったとしても0から作り上げる。一番難しいのは自らも正式メンバーとして所属する音楽ユニットで、ただ小室の主導で動かすのではなく「自分も映るんだ、僕たちは何になればいいんだ?」と悩みながら、メンバーの内面に入り込んで意向を汲んだ上でテーマや方向性等の構想を固めていき、「大衆に認知される為にはどうするか」を考えている[195][243]
  55. ^ ただし、2000年代以降はボーカルの声を事前に打ち込み、ボーカルに合わせて鍵盤で弾いてコーラスの代わりにしたことから、VOCALOIDにも一定の関心を示している[120]
  56. ^ この照明の演出を見た渡辺美里は「私も同じような演出をやりたい」と直接スタッフに申し入れた程気に入った[249]
  57. ^ 「P3」は「Pops」「Power」「Passion」という意味を込めている。
  58. ^ 反面、自身のコンサートのリハーサルは回数的には少なく、大抵は長くて通しで1週間・準備は打ち込みのデータを渡し、細かい点の確認のみで反復練習はほとんどしない。これについては「セッション・即興演奏が好きで最初から決めた上で出来上がってしまうと長いツアーの場合3・4回で飽きる」「ライブのリハーサル所か、本番にかける時間すらもったいないから、その時間をレコーディングに回せば1曲できる」と語る[48]
  59. ^ 「でも、このギリギリで必死で切羽詰まった感じは1990年代は通じたけど、今の時代にそぐわないかもしれない」とも答えている[271][206]
  60. ^ 例えばMIDIサンプラーが出てきて、それまでは全部打ち込みだったのが、「リズムは録音したフレーズをまるごとサンプリングすればいい」とその時々の新しい機材を駆使しての制作方法を掴むのに2人で試行錯誤した[197]
  61. ^ スタジオミュージシャンにやれるだけの大量のテイクを要請した後、そこから音・タイミングが外れているミステイクを選んで消したり、本来ギタリストが担当するはずのパートを自身が担当するキーボードのパートに差し替える小室と、PATAの担当したギターのパートを「やっぱりいらない」と全て没にするYOSHIKIはお互いの共通項である「作品にいらない音は容赦なく抜く」という思想に共感し合った[303]
  62. ^ globeをエイベックス・エピックのどちらでデビューさせるか一悶着があった、丸山茂雄の要請で華原朋美をエイベックスの事務所がマネジメントする、戦略上の事務所同士の権力争い等[32]
  63. ^ 坂本はライブの生中継を目指し、小室は音源データの配信を意図していた[140]
  64. ^ お互いの祖父がいとこ同士(出典:時計寄贈の過去も…小室哲哉の遠縁村長自殺か(社会)――スポニチ Sponichi Annex ニュース
  65. ^ 反面「当時SNSがあったら、たぶん否定的な意見に負けてしまっていたと思うんですね。1990年代はまだそこまでネットの時代ではなかったので、否定的な言葉が直接飛び込んでこなかった。いい話だけを聞けて、否定的な話には耳を閉じることが可能でした。だから前に進めた。『これでいいんだ』と」とも語っている[329]
  66. ^ 基準として「鼻声は駄目。声が顔のイメージと一致しない人も駄目。初対面で声が抜けて耳と五感に響けばそれで良かった」「『誰からも好かれる声』ではなく『頑張ればあの人になれるという希望を持てるような、嫌われない声』を選んでいた」と語っている[43][120][46][206]
  67. ^ それに対して宇都宮は「一人だから細かい所まで目が行ってないと全部自分に跳ね返ってくるからね」と答えている[38]
  68. ^ これに対して小室は「僕もダンサブルな要素が必要と思いながら作っていた」と答えている。
  69. ^ これに対して小室は「ロサンゼルスに住んでいた頃は2日に1曲作っていた。日本向けのミックスを制作するという発想すらなかった。ミキシング作業は僕の意図が早く通じるイギリスかアメリカ出身のエンジニアが中心でした。だから日本のマーケットの耳も洋楽的な音像に慣れてきた」と語っている[205]
  70. ^ これに対して小室は「教育活動と言うほど押し付けがましいことは全然していない。トラック・テンポ等考えているけど、どうしても色は出てしまうので困る。ただ、今実験しているのが『ポップだね』と言われたらこれ程嬉しいことはない」と答えている。
  71. ^ これに対して小室は「年をとってその道へ入学・卒業等の通過儀礼を繰り返した後でも恥ずかしくなく照れずに入れる様な、誰の心にもあるテーマを歌詞にしている」「できるだけ同じ音色に嵌りたくない、常に新しいリズムを追求したい」と答えている[140]
  72. ^ 『HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE』での冨田勲との対談で発言。
  73. ^ これに対して小室は「確かに僕の場合は、企画が立ち上がってから誰かに頼むという必要がないですからね。曲も詞も自分で作る場合が多いし、完成した姿がイメージできないと引き受けませんから。完成したイメージが描ければ、後はそれを現実に落とし込んでいけばいいだけですから」と答えている[42][9]
  74. ^ これに対して小室は「『自分から仕切る』のはプロデューサーではないと思ってますから。僕のプロデュースの原点は最初にその人ありきで、まずその人が『何をしたいのか、どうなりたいか』をインタビューすることから始めて、僕が『叶えてあげられそうだ』と思ったら話が成立する。やり方はプロ野球監督やサッカーのコーチに近い。『成功するために一緒に幾つかのハードルを超えていこうよ』ってなるんです」と答えている。
  75. ^ これに対して小室は「テレビのドキュメンタリー番組を作るような感じです。直接取材したり、資料を見ながらイメージする内に同一化して10代の気持ちになれるのかもしれません」と答えている。
  76. ^ これに対して小室は「もしかしたら潜在的に女性願望があるかもしれない(笑)。だから『女装しても自然に入り込めちゃうんじゃないか』という変な自信があるんですよ。だから『どうしてもわからない』って感じたことがないんです」「『曲』という部屋を用意した後、『壁紙は何色だろう?』『机はどんなだろう?』『電話は誰からかかってくるんだろう?』という設定を作りながら1番を書き終えると、キャラクターが見えてくる。そしてエンディングを迎える頃にはある程度主人公がハッキリしてくる」と答えている。
  77. ^ FM802NACK5の「JAPANESE DREAM」が代表的である[466][422]
  78. ^ 小室・西村麻聡山田わたるによる企画ユニット。FENCE OF DEFENSEのデビューによりTM NETWORKのサポートメンバーから抜けざるを得なくなった西村・山田への返礼として結成され、1987年1月に全国8ヶ所を周った。ハワード・ジョーンズのコピー・TMの楽曲のインスト・吸血鬼ハンター“D”の楽曲・未発表のオリジナル楽曲が演奏された[469]
  79. ^ 1993年の「avex rave '93」まで正式メンバーとしてキーボードで参加。
  80. ^ 山羊智詞率いるロックバンド。小室はキーボーディスト・作曲家としての参加であり、水江慎一郎(ex UP-BEAT)、横内健亨(ex ハイソサエティーTENSAW)、朝井泰生今川勉(ex ECHOES)もメンバーとして名を連ねていた。ツアー途中からに太田明(ex 筋肉少女帯)が参加、1993年頃にデビューアルバムをリリースする予定だったが、レコード会社・所属事務所の都合でアルバムリリース直前に解散。EPIC・ソニー(現エピックレコードジャパン)から発売予定だった1stシングル「No! Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。
  81. ^ 東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトの為に結成された小室と久保こーじと松本みつぐ・田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。

出典

  1. ^ a b 「Bio File 1970」より。
  2. ^ Music Voice 小室哲哉が武蔵国府中大使に任命「文化都市になるよう」。木根尚登もアドバイザーに任命。
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  4. ^ 「Bio File Intro」より。
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  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 飛鳥新社刊 『プロデューサーは次を作る』:中谷彰宏・小室哲哉著より。
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  13. ^ ソニー・マガジンズ刊『GB』1986年12月号より。
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関連項目