小山正明

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小山 正明
Masaaki Koyama 1959 Scan10016.jpg
大阪タイガース時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県明石市
生年月日 (1934-07-28) 1934年7月28日(86歳)
身長
体重
183 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年8月26日
最終出場 1973年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2001年
選出方法 競技者表彰

小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - )は、兵庫県明石市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家

優れた制球力から「投げる精密機械」と称えられ、金田正一米田哲也に次ぐ日本プロ野球歴代3位の320勝、同5位の290完投を記録した。通算無四球試合鈴木啓示に次ぐ歴代2位。2001年野球殿堂入り。

経歴[編集]

タイガース時代[編集]

小山が通った高砂高校はもともと女学校で、小山の入学する1年前の1949年男女共学となって野球部が設立されたばかりであり、野球では全く無名であった。小山は高校3年秋に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受ける。なお、小山の父が息子の入団テストを依頼する手紙を監督松木謙治郎宛に書いたが、それが大変な達筆であったと松木は数十年後に回顧しており、小山本人からはたいした印象を受けなかったとされる[1]。なお、小山の父・英一は書道塾を営んでいたという[2]。その後、タイガースからの合否通知がなかなか届かず、自宅から近い明石市内キャンプを行っていた大洋松竹ロビンスの入団テストも受けたが、当時は大洋ホエールズ松竹ロビンスの球団合併で選手が増えていたこともあり不合格となった[3]。結局、テストから5ヶ月たった翌1953年3月になって阪神から練習生として採用との通知が届き、契約金なしの月給5,000円で打撃投手も兼ねたテスト生として入団[3]。なお、小山は阪神の球団オーナーの野田誠三の遠縁にあたることから、お情け採用だった可能性もある[4]

シーズンに入ると練習生から二軍選手に昇格。さらに、8月の対近鉄戦で完投勝利を収めると、この投球が評価されて一軍に昇格した[4]。一軍に上がるとレギュラー陣の打撃投手を務めるが、藤村富美男金田正泰などのベテランや後藤次男などに指名されることが多く、打ちやすいコースに投げられないと藤村は黙って隣のケージに移動していったことが一番堪えたという。後年「クビにならないように必死だった。戦争帰りの人たちはとにかく怖かった」と述懐している。

制球の良い渡辺省三が先輩にいたことと、打者陣の厳しい要求に応えることで制球に磨きがかかり、1年目の1953年に5勝、1954年にはチーム最多となる11勝を挙げて先発ローテーションに定着[3]1956年には17勝、防御率1.66(リーグ6位)と好成績を収め、25勝の大崎三男、22勝の渡辺省三と並んでエース格となる。この年は速球で三振を取ることだけが投手の一番の仕事ではないと思い知り、いわゆる「コントロール」に目覚めた年で、この頃より自分で配球を組み立てながら投げられるようになった[5]1958年は開幕前に伊東でミニキャンプを張るが、シートバッティングで投げていた際に、ぬかるんだグラウンドに足を取られて右太股肉離れしてしまう[5]。しかし、5月から復帰すると1ヶ月の内に7勝を荒稼ぎし、シーズンでは24勝(12敗)防御率1.69(リーグ4位)と初めて20勝を達成し、阪神のエースにのし上がった。またこの年は新たにパームボールを覚え、日米野球で来日したセントルイス・カージナルスとの対戦で投げ、ことごとく空振りを奪ったという[5]1959年も20勝、防御率1.86(リーグ3位)を記録するが、同年のシーズン中の7月に大毎オリオンズのオーナー・永田雅一と東京で密会し移籍の勧誘を受ける。同年オフの契約更改において、小山は球団代表の戸沢一隆に大毎移籍を訴えるが、A級10年選手でもないため移籍できるはずもなく、小山は渋々契約更改に同意した。戸沢はセ・リーグ会長の鈴木龍二に対して大毎の協約違反を訴えるが、契約更改が完了したということで鈴木が戸沢を宥めたという[2]。翌1960年も25勝を挙げて3年連続20勝以上を達成した。

1962年セ・リーグ記録の5試合連続完封を含むシーズン13完封、2006年藤川球児が更新するまで球団記録だった47イニング連続無失点を記録。シーズンでは27勝11敗、防御率1.66(リーグ2位)を挙げて、25勝14敗、防御率1.20(リーグ1位)の村山実と2本柱としてリーグ優勝に貢献し、沢村賞を受賞した。一方で、最高殊勲選手投票(当時は単記制)では村山に次ぐ2位だったが、実績を考慮したセ・リーグから「優秀功労賞」として表彰された[6]。最高殊勲選手の選考結果に小山が不満を抱えていると言われるようになったが、そのようなことを言われることこそが小山本人には不満だったという[7]。この頃、記者に投手のローテーションを聞かれた監督の藤本定義が「小山、村山、雨や」と答えたのが広く知れ渡った。

同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでは4試合に登板、3試合に先発するが0勝2敗に終わる。特に阪神2勝3敗で迎えた第7戦では先発して9回を無失点で抑えるが阪神も得点できずに0-0で延長戦へ突入。10回表に小山が1点を失ったため、決着が付いたと早とちりした小山はロッカールームに引き上げて風呂に入ってしまう。しかし、10回裏に阪神が同点に追いついき延長11回に入るが、そこで小山がベンチにいないことが発覚し大騒ぎになる。あわてて村山がリリーフに出るが、12回表に西園寺昭夫に決勝本塁打を打たれて阪神は日本一を逃してしまった[2]

オリオンズ時代[編集]

村山と共にタイガースのエース格として活躍したが、「両雄並び立たず」などという声も球団内からは聞かれ、1963年に14勝(14敗)防御率3.59と不振に終わると、その暮れには小山放出のが流れた。小山は藤本が既に村山を残し自分は放出する意向であることを知っていたため、忘年会で会った藤本に「来年も頼んまっせ」と言われた時には大変な反発を覚えたという。時を移さずして、長打の打てる打者がほしかった阪神とエース投手がほしかった大毎オリオンズとの思惑が一致し、山内一弘との「世紀のトレード」が成立して大毎に移籍[8]。新聞紙上で報道が過熱する中で阪神本社からは何も連絡がないことにたまりかねて球団社長宅を訪ねたところ、「大毎の永田雅一オーナーから直接電話で『小山を譲ってくれないか』と連日連夜の催促で、大弱りなんだよ」と言われ、小山がその場で「そこまで向こうが言ってくれてるんなら、僕は別に(トレードは)構いませんよ」と答えるとすぐにトレードは成立した。後に「僕の返事を聞いたときの球団社長の、あの満面の笑みは未だに忘れられないよ」と述懐している。永田は小山の入団を大変喜び「君に馬(競走馬)をプレゼントしよう」と言って馬主になることを持ちかけたが、競馬をやらない小山には意味が通じず「自宅に馬を飼う場所がありません」と断ったため、代わりに外車を小山に贈った。

1964年に大毎から球団名を変更した東京オリオンズは、阪神甲子園球場より狭い東京球場を本拠地球場としており小山にとって移籍は不利と思われたが、阪神時代に王貞治を打ち取るために覚えたパームボールを駆使した打たせて取る投球で30勝を挙げ、最多勝利のタイトルを獲得。

1965年に20勝を上げて年俸3570万円[9]1966年も2年連続で20勝を挙げる。1966年10月4日の対西鉄ライオンズ戦では87球で完投し、西鉄の稲尾和久も75球で完投、合計162球の最少投球数試合の記録を作った。

東京時代は独身寮に単身赴任しており、真面目で練習熱心な姿勢はチームの手本であった。入団したばかりの村田兆治が徹夜麻雀から朝帰りした時にランニングへ出かける小山と鉢合わせして、村田はとっさに何も言わず自分の部屋に逃げ込んだ。その後、練習中に謝りに来た村田に対して「お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのはさびしくないか」と言い、当時球界を代表するベテラン投手だった小山に諭された村田は感激し、真剣に練習へ取り組むようになった。また、木樽正明が入団3年目にして肩を故障してしまい、不本意な成績で野手転向も検討された時にも、「アイツ(木樽)ほど投手としての才能に恵まれたヤツはいない。もう一度考え直して欲しい」と当時の球団首脳に直訴し、投手としての選手生活を続行させた。いくら大投手とはいえ、ベテランである小山にとって若手が台頭することは自らの死活問題に関わるはずだが、そんなことよりも野球人として才能を愛する人柄がよく現れている。

1970年は16勝、防御率2.30(リーグ3位)とリーグ優勝に貢献。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも3試合に登板。最終第5戦では先発し、6回2失点と好投するが、打線の援護がなく日本シリーズ初勝利はならなかった。しかしセ・パ両リーグで日本シリーズにおいて先発登板し、日本プロ野球史上唯一の両リーグ100勝を記録した。1971年7月3日の対東映フライヤーズ戦では自ら決勝点となる勝ち越しの適時二塁打を記録して完投勝利を挙げ、日本プロ野球史上4人目の通算300勝を達成。試合後にはチームメイトから胴上げされた[3]

1972年9勝に終わると、新監督として金田正一を迎えたロッテは小山を大洋鬼頭洋安田泰一と交換しようとする。しかし、小山は前オーナーだった中村長芳との間に約束があったとして簡単に応じず、結局ロッテから功労金を受け取ってトレードを了承した[10]1973年は選手兼任コーチとなり戦列を離れていたが、シーズン途中に監督の青田昇の要請で現役復帰し、同年10月24日再び引退。

現役引退後[編集]

引退後は阪神(1974年 - 1975年1982年 - 1983年1998年一軍投手コーチ)、西武1990年 - 1991年一軍投手コーチ)、ダイエー1993年一軍ヘッドコーチ・1994年一軍ヘッド兼投手コーチ)でコーチを歴任。コーチ業の合間を縫って、朝日放送解説者(1976年 - 1981年, 1984年 - 1989年)・サンテレビジョン解説者(1992年, 1995年 - 1997年)も歴任。西武コーチ時代は2年連続リーグ優勝・日本一に貢献し、石井丈裕にパームボールを伝授したが、阪神コーチ3期目には投手陣に過多の投げ込みをさせたため、開幕時にローテーション投手が壊滅してしまった。1999年にはサンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家として活動している。

選手としての特徴[編集]

小山正明の投球フォーム(1961-1962年頃)

飄々とした無駄な力の入っていない投法で、顔をゆがめ全力投球する村山とは対照的なスタイルだった。

精密機械と称された制球力のみならず、直球の威力も本人は「ゆったりしたフォームからビュッとホップする球が来るから打者も面食らったんじゃないか」と語り、バックで守っていた吉田義男は「小山の調子がいい時は内野手はヒマだった」(飛球が多いため)、「針の穴を通す」という巧妙な制球力[11]と証言している。また、アメリカの雑誌を参考にパームボールを習得し、テスト生から300勝投手になった[12]

他の大投手と同様に走り込みによる下半身強化の重要性を説き[13]、「コマは心棒がしっかりしていてこそ安定する。投手も同様に下半身の安定があって初めてボールをコントロールできる。下半身を鍛えること、これがワシの生命や」と度々コメントしている。

1954年3月21日の中日とのオープン戦で、ノーヒットノーランを達成したことがある[14]。公式戦においてはノーヒットノーランを達成したことは無いが、1安打完封勝利が5度あり、そのうち1956年6月6日の大洋戦では1回無死から先頭の沖山光利にヒットを打たれた後に残りの27人をノーヒットに抑え完封勝利。オリオンズに移籍した1965年7月15日の阪急戦では無安打のままで迎えた9回2死からウィンディにヒットを浴び、ノーヒットノーランを逃している。

阪神時代は王貞治を苦手とし、王が新人で「三振王」と揶揄された頃の天覧試合でも本塁打を打たれており、1962年は自身は27勝11敗、防御率1.66という好成績にもかかわらず一本足打法に切り替えた王から、1試合3被本塁打を含む7被本塁打を記録した。対王貞治13被本塁打[15]。このため王対策としてパームボールを習得。1963年は14勝14敗、防御率も3点台とシーズン成績は芳しくなかったが、王からの被本塁打を0に抑え、東京移籍後も決め球として投げた。また、本人曰く3種類のパームボールを投げ分けていた[16]

江本孟紀は小山のフォームを参考にし、肩をあまり動かさず、手首を「ピュッ」と利かせてボールを切る、無駄と無理のない投球を心掛けた。もっとも「針の穴」は最後までマネできなかったという[17]

人物[編集]

妻は阪急軍初期の名選手だった宮武三郎の娘。

芥川比呂志に似ていると言われ、芥川も「テレビあれこれ」という随筆で「われながら、見れば見るほどよく似ている。横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見ると尚更らしい」と書いている[18]

2012年には兵庫県立高砂高等学校の同級生の計らいにより、小惑星に自らの名前(Masaaki Koyama)が命名されたことに驚き、「大きな土地をもろたよ。行かれへんけどな。」「現在、過去と生きてきて、天体とは全く縁がなかった。驚いてる、ビックリしてるというのが正直な感想。一度は見てみたいかな。」と語っている[19]

小山には煙草を吸う習慣がないため、天覧試合で配られた恩賜の煙草も自分では吸わずに父親に手渡した[20][21]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1953 大阪
阪神
16 10 3 1 0 5 1 -- -- .833 253 60.2 60 4 17 -- 0 22 0 0 24 23 3.41 1.27
1954 40 23 5 1 1 11 7 -- -- .611 667 166.0 148 15 44 -- 1 75 1 0 62 56 3.04 1.16
1955 27 14 5 1 2 7 4 -- -- .636 515 131.0 110 4 34 7 0 75 1 0 37 33 2.27 1.10
1956 59 14 8 4 3 17 13 -- -- .567 858 232.1 134 8 40 7 4 220 3 1 55 43 1.67 0.75
1957 52 26 14 5 6 15 17 -- -- .469 968 250.0 192 9 37 4 7 201 0 0 76 66 2.38 0.92
1958 53 34 24 4 10 24 12 -- -- .667 1193 313.1 226 15 49 7 2 252 2 1 77 59 1.69 0.88
1959 52 37 22 8 6 20 16 -- -- .556 1310 344.0 246 24 62 3 5 254 2 0 82 71 1.86 0.90
1960 60 42 23 7 5 25 19 -- -- .568 1423 362.0 287 20 63 2 11 273 2 0 106 95 2.36 0.97
1961 46 37 18 4 3 11 22 -- -- .333 1144 291.1 222 20 65 8 4 204 5 0 91 78 2.41 0.99
1962 47 40 26 13 10 27 11 -- -- .711 1354 352.2 268 19 59 9 7 270 1 0 77 65 1.66 0.93
1963 34 33 12 0 1 14 14 -- -- .500 971 233.0 218 27 66 6 4 98 0 0 108 93 3.59 1.22
1964 東京
ロッテ
53 42 25 3 3 30 12 -- -- .714 1439 361.1 300 26 87 7 6 193 1 1 112 99 2.47 1.07
1965 50 39 22 4 3 20 20 -- -- .500 1303 322.1 270 30 81 6 9 171 3 0 102 84 2.35 1.09
1966 49 34 23 7 7 20 13 -- -- .606 1191 304.0 266 24 38 0 8 187 2 0 85 70 2.07 1.00
1967 44 30 9 1 3 13 11 -- -- .542 949 225.1 223 26 55 6 7 126 2 0 101 81 3.24 1.23
1968 25 12 0 0 0 4 4 -- -- .500 372 87.0 82 11 27 2 4 53 0 0 38 32 3.31 1.25
1969 33 29 8 2 1 11 7 -- -- .611 747 182.1 173 15 31 4 5 136 1 0 70 60 2.96 1.12
1970 38 29 18 4 3 16 11 -- -- .593 952 242.2 199 19 40 3 8 141 2 0 74 62 2.30 0.98
1971 35 28 16 1 5 17 8 -- -- .680 877 211.0 213 22 42 5 5 111 2 0 92 76 3.24 1.21
1972 28 19 7 2 1 9 6 -- -- .600 639 152.1 167 21 26 3 8 57 0 0 74 69 4.08 1.27
1973 大洋 15 11 2 2 0 4 4 -- -- .500 298 74.1 64 6 15 0 4 40 0 0 24 21 2.54 1.06
通算:21年 856 583 290 74 73 320 232 -- -- .580 19423 4899.0 4068 365 978 89 109 3159 30 3 1567 1336 2.45 1.03
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

  • シーズン30勝以上:1回 (1964年)
  • シーズン20勝以上:7回 (1958年 - 1960年、1962年、1964年 - 1966年)
  • シーズン13完封勝利 (1962年) ※セ・リーグ記録
  • シーズン10無四死球試合 (1958年、1962年) ※セ・リーグ記録
  • 5試合連続完封勝利 (1962年7月7日 - 7月22日) ※セ・リーグ記録
  • 47イニング連続無失点 (1962年7月7日 - 7月29日)
  • 両リーグ100勝以上 (セ:180勝、パ:140勝) ※日本プロ野球史上唯一
  • オールスターゲーム出場:11回 (1957年 - 1960年、1962年 - 1967年、1970年)

背番号[編集]

  • 49 (1953年)
  • 6 (1954年 - 1956年)
  • 14 (1957年)
  • 47 (1958年 - 1973年)
  • 71 (1974年 - 1975年)
  • 81 (1982年 - 1983年、1998年)
  • 87 (1990年 - 1991年)
  • 82 (1993年 - 1994年)

関連情報[編集]

解説者としての出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年
  2. ^ a b c 『日本プロ野球トレード大鑑』44頁
  3. ^ a b c d 【7月3日】1971年(昭46) 丈夫で長持ち テスト生投手、パームボールで300勝達成[リンク切れ] - スポニチ
  4. ^ a b 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』151頁
  5. ^ a b c 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』154頁
  6. ^ 野球殿堂記者投票への考察=第44回(2001年度)根本陸夫が競技者、長谷川良平が特別表彰。これは逆でしょ
  7. ^ 『プロ野球20世紀の男たち 山内一弘&小山正明「“世紀の大トレード”の覚悟」/プロ野球20世紀の男たち』週刊ベースボールONLINE 2019年10月1日
  8. ^ 【12月26日】1963年(昭38) 小山正明と山内一弘“世紀のトレード”異例の同席発表
  9. ^ 金田正一、巨人入団前夜/週べ1965年1月4日号 - 野球:週刊ベースボールONLINE
  10. ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』100頁
  11. ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P35
  12. ^ 【7月3日】1971年(昭46) 丈夫で長持ち テスト生投手、パームボールで300勝達成 Sponichi Annex
  13. ^ 球界勝利数トップ3「投げすぎで投手の肩は壊れぬ」で意見一致
  14. ^ 朝日新聞東京本社版、1988年3月24日付朝刊18面
  15. ^ クラシックSTATS鑑賞 : 王貞治、投手別本塁打数|本塁打大全
  16. ^ 文春Numberビデオ「魔球伝説」
  17. ^ 江本孟紀著、野球バカは死なず、文藝春秋、2018年、P128
  18. ^ 『決められた以外のせりふ』(新潮社 1970年)に収録。丸谷才一『文章読本』(中公文庫・141頁)にも同文が引用されている
  19. ^ 小山正明氏“虎の星”に!小惑星に命名 デイリースポーツ 2012年3月8日閲覧
  20. ^ 月刊タイガース小山正明氏特別インタビュー
  21. ^ 「制球王小山正明1」特別な土産(後編)

参考文献[編集]

関連項目[編集]