小澤開作
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小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。
生涯[編集]
山梨県出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満州・長春へ赴任。1928年に満州青年聯盟を、1932年に満州国協和会を結成し、さらに1937年には中華民国新民会を結成して活動した。戦後、しばらく歯科業を離れ、他の業種に携わるも上手く行かず、結局、神奈川県川崎市で歯科医院を開業した。
満州事変の立役者であった板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。満州での立場は満州国を日本の統治や傀儡国家としてではなく、五族協和の王道楽土として実現させようとする熱烈な理想主義者であった。宣撫官の最高責任者であった八木沼丈夫とは、中国人を同胞として尊重しようという部分では一致していたものの、細部において理念が異なったため、関係は険悪であった。また息子の俊夫によると「日本から満州に来た官僚の中で一番悪いのは岸信介だ。地上げをし、現地人は苦しめ、賄賂を取って私財を増やした。だから、岸が自民党総裁になったときにこんなヤツを総裁にするなんて、日本の未来はない」と語っていたと述べている[1]。1940年に雑誌『華北評論』を創刊、日中戦争の非を唱える。
戦後、浅利慶太のつてによる、中曽根康弘(のちの首相)の紹介で、当時、アメリカ司法長官であったロバート・ケネディと会見し、「このままいくとベトナム戦争は失敗する」と、かつての日本が満州国で民政をおろそかにした例を挙げて指摘した。これにロバート・ケネディは意見書の提出を求め、その後ハワイで書き上げたものを提出した。
1970年11月21日、歯科診療後の遅い夕食後、心筋梗塞で急死。享年71。
家族・親戚[編集]
妻・さくらとの間に四男をもうけた。長男・克己は彫刻家、次男・俊夫はドイツ文学者、三男・征爾は指揮者、四男・幹雄は俳優。俊夫は下河辺牧場の創業者・下河辺孫一の次女・牧子と結婚し、経済界の名門家系である下河辺家と閨閥で繋がった。俊夫・牧子夫妻は二男をもうけ、次男がミュージシャンの小沢健二である。また、俳優の小沢征悦は征爾の長男で、健二と共に開作の孫にあたる。
小澤開作 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
下河辺孫一 | 江戸英雄 | 入江麻木 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小澤克己 | 小澤俊夫 | 小沢牧子 | 江戸京子 | 小澤征爾 | 入江美樹 | 小澤幹雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小沢健二 | 小澤征良 | 小澤征悦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献[編集]
- 『父を語る』(1・2)(小沢征爾編、中央公論事業出版、1972年、1975年)
- 『昭和に死す - 森崎湊と小沢開作』(松本健一著、新潮社、1988年1月)ISBN 978-4103684015
- 『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』(田中秀雄、芙蓉書房出版、2008年6月)ISBN 978-4829504239
- 『満州ラプソディ 小澤征爾の父・開作の生涯』(江宮隆之、河出書房新社、2018年10月) ISBN 978-4309027425
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ “「小澤俊夫氏が警鐘 「共謀罪で言論の息の根が止められる」(注目の人 直撃インタビュー 日刊ゲンダイDigtal)” (2017年4月3日). 2017年4月13日閲覧。