小笠原東陽

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小笠原 東陽(おがさわら とうよう、文政13年(1830年) - 明治20年(1887年8月)は、江戸時代後期の姫路藩士、儒学者

来歴[編集]

美作勝山藩士の小笠原忠良の三男として生まれ、3歳で父を失う。26歳で昌平坂学問所に入り、佐藤一斎安積艮斎に学び、林鴬渓の門下生となる。31歳の時に姫路藩に仕官し、藩の学副督になる。36歳の時、藩主酒井忠績に対し、同志20余名と共に徳川氏と生死をともにすべしと主張するも受け入れられず、職を辞した。

明治維新後、1869年(明治2年)に池上本門寺から招聘され、僧に漢学を教えるまでは、周易で生計を立てていた。

羽鳥(現在の神奈川県藤沢市)に移り、1872年(明治5年)3月に、羽鳥村名主の三觜八朗右衛門に招かれ読書院(5年後に耕余塾改称)を開き、教育指導を行う。

58歳で没し、墓所は汲田墓地に所在する。