少弐資元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
少弐資元
時代 戦国時代
生誕 長享3年/延徳元年(1489年[1]
死没 天文5年9月4日1536年9月19日
改名 初法師丸[2]/松法師丸[3]→資元
戒名 心月本了大居士[3]
官位 大宰少弐
氏族 少弐氏
父母 父:少弐政資
兄弟 頼隆、高経資元、江上資種、南殿(松浦政室)
正室:大友親治
冬尚千葉胤頼政興元盛、松浦鎮
テンプレートを表示

少弐 資元(しょうに すけもと)は、戦国時代大名少弐氏16代当主。

生涯[編集]

長享3年/延徳元年(1489年)、肥前国戦国大名少弐政資の子として誕生。

明応6年(1497年)、父・政資と兄・高経は、室町幕府からの追討令を得た周防国大内氏によって攻め滅ぼされたが、資元は横岳資貞ら旧臣たちや豊後国大友政親の後押しを[4]受けて、少弐氏を再興する。

享禄3年(1530年)、大内義隆の命を受けた筑前国守護代杉興運の侵攻を受けるが、田手畷の戦いにて家臣の龍造寺家兼らの働きによりこれを撃退した[5]。しかしこのため、龍造寺氏の力が台頭することにもなり、少弐氏の力は次第に衰退してゆく。また、度重なる大内氏の侵攻に耐えられなくなり家兼の進言を受け義隆と和議を結ぶが[6]、この和議は謀略で、天文4年(1535年)、資元は大内氏に領地をすべて取り上げられた。

しかし天文5年(1536年)、大宰大弐の官を得た義隆の家臣・陶興房に攻撃され、資元も自害された[7]。資元の子・冬尚は蓮池城の小田資光(政光の祖父)の下に落ち延び[8]、少弐氏の血脈を保った。

なお、資元の最期の地となった梶峰城は父・政資が自決をした場所でもある。

偏諱を受けた人物[編集]

  • 江上種(江上氏江上武種の叔父にあたり、資元の擁立に貢献)
  • 小田光(小田氏、資光の子、政光の父)
  • 少弐(四男、※資元が自害した当時まだ1歳であり、元服の際に亡き父・資元の1字を取った。)

脚注[編集]

  1. ^ 死没年から『歴代鎮西志』にある「行年四十八」を逆算した。
  2. ^ 『歴代鎮西要略』
  3. ^ a b 『歴代鎮西志』
  4. ^ 『史料綜覧』第8編之909 62頁
  5. ^ 『史料綜覧』第9編之909 608頁
  6. ^ 『史料綜覧』第9編之909 717頁
  7. ^ 『史料綜覧』第9編之909 762頁
  8. ^ 『史料綜覧』第9編之909 745頁

出典[編集]

  • 『歴代鎮西要略』
  • 『歴代鎮西志』
  • 『北肥戦誌』