尾花髙夫
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東京ヤクルトスワローズ 二軍投手チーフコーチ #77 | |
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横浜ベイスターズ一軍監督時代 (2010年11月23日、横浜スタジアムにて) | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 和歌山県伊都郡九度山町 |
生年月日 | 1957年8月7日(63歳) |
身長 体重 |
184 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト4位 |
初出場 | 1978年4月22日 |
最終出場 | 1991年10月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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尾花 髙夫(おばな たかお、1957年8月7日 - )は、和歌山県伊都郡九度山町出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督。
経歴[編集]
プロ入りまで[編集]
PL学園高等学校ではエースとして活躍。しかし1975年夏の甲子園府予選は4回戦で初芝高校に敗れ、甲子園には届かなかった。2年下のチームメートに当時は外野手であった米村明がいる。卒業後は新日本製鐵堺硬式野球部に進む。1976年の都市対抗に出場するが、1回戦で河合楽器に敗れ、自身の登板はなかった。
現役時代[編集]
1978年ドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。1年目から一軍に上がり、1979年には先発陣の一角として起用され4勝9敗を記録。1982年〜1985年まで4年連続2桁勝利。1982年8月4日の対阪神戦と8月8日の対広島戦では、2試合連続で延長戦完封勝利(両試合とも延長10回、スコアは1-0)の珍しい記録を達成した。同年はチーム最多の12勝、1984年にもチーム最多の14勝を挙げる。
松岡弘の引退後は、チームのエースとして活躍。関根潤三の監督就任2年目の1988年には開幕投手として巨人との開幕戦に先発し、東京ドームでのプロ野球公式戦勝利投手第一号となった。1989年には通算100勝を達成。1991年10月12日に同年限りでの現役引退を表明した。先発投手としての起用が主だったが、制球力に優れていたことから、リリーフとして活躍することも多かった。
一方でチームが低迷する時期と被った事が多く、選手の駒不足から年間投球回数で200回を越えたのは6度、二桁敗戦を記録したのも6度、1986年から1988年三年連続リーグ最多敗戦を記録。これは1956年から1959年に大洋の秋山登が記録した四年連続リーグ最多敗戦投手以来の記録で右投手では尾花以降これを越えた選手は現れていない(左投手では2014年から2016年にかけて阪神の能見篤史がタイ記録となった)。特に、1982年は12勝16敗、1988年は9勝16敗であったが、いずれも防御率が2点台であり、打線によるRun supportが非常に低かった。
1992年〜1993年はフジテレビ・ニッポン放送で、1994年はフジテレビ単体で、野球解説者を務めた。
監督・コーチ時代[編集]
1994年11月1日にヤクルト入団当時の監督で、ロッテの初代GMに就任したばかりの広岡達朗に請われ、ロッテの一軍投手コーチに就任することが発表された。翌1995年のチーム2位の躍進に大きく貢献したが、翌1996年10月10日退団が発表された。
ロッテ退団直後の1996年10月30日にヤクルト一軍投手コーチに就任し、監督の野村克也の下、「野村再生工場の現場監督」として、1997年のリーグ優勝・日本一に貢献した。1998年10月13日に退団が発表された。
1998年11月4日、ダイエー監督の王貞治に実績を高く評価され、ダイエーの一軍投手コーチに就任。背番号は87。親会社がソフトバンクとなった以降も職務を続け、7年間でチームを5度のレギュラーシーズン最高勝率、3度のパリーグ優勝及び日本シリーズ進出、2度の日本一に導いた。しかし、2005年10月1日、「子供のこともあり、これ以上単身赴任を続けられない」との理由により、シーズン全日程終了後に退団することが発表された。王監督は尾花の再就職先が決まっていないと聞き、自宅のある神奈川県横浜市から通えるようにと、巨人に直々に打診した[1]。
同年10月24日に巨人の一軍投手総合コーチへの就任が正式発表された。背番号はホークス時代と同じ87。2006年〜2009年まで務め、継投や投手運営など、投手部門の責任者であった。就任前年のチーム防御率4.80(リーグ最下位)を、就任1年目の2006年には3.65、2007年は3.58、2008年は3.37と年々改善することに成功。2009年は「チーム防御率を2点台にする」と公約しその言葉通り、球団として19年ぶりとなるチーム防御率2点台の2.94と向上し、2007年~2009年のリーグ3連覇に大きく貢献した。
投手コーチとしてヤクルト、ダイエー・ソフトバンク、巨人でレギュラーシーズン最高勝率9回、日本一に4回導いた手腕が評価され、横浜ベイスターズに監督就任を要請された。次のシーズンまで巨人とのコーチ契約が残っていたが、横浜と巨人の球団間交渉を経て、2009年11月11日に横浜監督の就任が発表された[2]。3年契約。PL学園高校出身者としては初のNPB一軍監督就任となる。
監督1年目は1955年以来球団55年ぶりの95敗を喫するなど、最下位に終わった。更にチーム防御率は12球団最下位、チーム打率は2年連続12球団最下位と低迷した。
2011年シーズンは内藤雄太のサヨナラ安打によって、チーム8年ぶりとなる開幕戦白星を飾るも、またも最下位に沈んだ。4年連続90敗だけは免れたものの、チーム防御率は2年連続12球団最下位、チーム打率・得点は11位と投打ともに奮起することが出来なかった。シーズン終了後、他の一軍コーチ陣とともに休養、事実上の解任が発表された[3]。11月22日、正式に解任を通告された。
2012年は浪人生活を経験した。11月13日に翌2013年シーズンより巨人に復帰し、二軍投手総合コーチに就任することが発表された[4]。2015年10月27日には、来季(2016年シーズン)から巨人の一軍投手コーチに就任する事が発表された[5]。 2017年7月13日に、1軍ブルペン担当に配置転換することが発表される[6]。同年10月8日、来季(2018年シーズン)から編成本部アドバイザーとなることが球団から発表された[7]。
2019年2月19日に秋田県・明桜高校の総監督兼投手コーチと系列のノースアジア大学総合研究センター主任研究員に2月18日付で就任したことが発表された[8][9]。2018年末に学生野球資格回復の研修を受け、2月5日に資格回復を認められた。
2020年11月25日、東京ヤクルトスワローズの二軍投手チーフコーチに就任することが発表された[10]。
監督としての采配[編集]
横浜監督1年目に『アナライジング・ベースボール(分析野球)』のスローガンを掲げ、詳細なデータで説得力を持たせた上で何をしなければならないかを徹底的に分析し、指導・采配を採るという采配方針を掲げた。特に「投手は四球を減らし、打者は四球を多く選ぶ」ことを選手に求めていた[11]。
投手起用は1試合に多くの投手を継投させる傾向があり[12]、2011年シーズンの投手登板延べ人数664人はプロ野球記録である。攻撃面ではスターティングメンバーは打順を変更する事はあるが、選手はよほどの事がない限り固定して使い続けていた。送りバントを多用する采配も行っていた。
2年目には伸び悩んでいた高崎健太郎を年間通して先発ローテーションに入れ、我慢強く起用し続けた。また、育成から支配下登録された国吉佑樹を起用したりした。任期の2年間で村田修一を4番スタメンから外すことは1度もなかった。
野村克也の自著「俺の苦言を聞け!」の中で、横浜の監督に就任した尾花は、野村の影響でデータを駆使した細かい野球を標榜したと述べ、その野球知識と判断には狂いはなかったと誌している。一方で、言っていることは正しいが口が悪く、人を傷つけてしまう傾向があると、横浜監督としてうまくいかなかった理由をそのように述べ、「言葉」が監督の仕事のすべてと言ってもいい。そこでつまずくと選手らからの信頼を得ることが難しくなると説いている。
エピソード[編集]
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野球関係[編集]
- 高校・社会人と線が細く球威不足で無名だった。当初、社会人捕手の中出謙二(後に南海に入団)を視察に来た、捕手出身のヤクルトのスカウト・片岡宏雄の目に留まる。当時の監督だった広岡好みの選手と考え指名したところ、広岡に気に入られてすぐに使われ、順調に主力投手に成長していった。
- 一度も押し出し四球を記録しておらず、2203イニング連続押し出し四球無しはプロ野球記録である。この間、満塁で打者と対戦した回数は163回。また、毎イニング間にベンチ前でウォーミングアップすることなく登板出来るほど、肩の仕上がりが早かった。
- 『血液型性格判断』を信じている。曰く「O型とB型にはいいピッチャーが多い」。ちなみに、尾花の血液型はB型である。
- 全国制覇した西田真二・木戸克彦よりも上の世代の為か、PL出身ということはあまり知られておらず、PLの後輩でさえも人に知らされてから慌てて挨拶しに行くことがよくあるという。本人は「隠れPLだからね」と笑う。
- 現役晩年時、入団間もない古田敦也には「インコースかアウトコース、どっちかに構えとけ」とサインを出させずに自分の配球で投げていた[13]。
- ヤクルトコーチ時代、1998年に監督の野村が勇退するのに伴い、自らも投手コーチを辞任。しばらくしてから、ダイエーの一軍投手コーチ就任要請を受けたが、尾花は阪神タイガース監督に就任した野村と行動を共にする考えでいた為、野村に「自分も(阪神に)連れて行って欲しい」と懇願していたが、野村から「自分はどうせすぐにクビになるだろうし、そうなったら(尾花もクビになるだろうから)心もとないから、最初に声をかけてくれたところに行け」と言われた為、ダイエーのコーチを受諾した。しかし、後に野村から「おい、契約はどうなった?」と電話があり、「明日、契約です」と答え、野村に「今すぐ取り下げろ!」と言われた。(「Sports Graphic Number」 751号(創刊30周年特別編集「プロ野球 人間交差点 2010」野村克也 × 尾花高夫 対談より)
- 解説者時代の関西弁で温厚な語り口や穏やかそうな表情とは対照的に、典型的な武闘派で、球団、首脳陣の顔色を窺うことなく投手陣には容赦なく叱り飛ばす。ダイエーコーチ時代には、バッテリーコーチだった若菜嘉晴と、ベンチ内で取っ組み合いの喧嘩になったこともある。
- 理論派でもあり、ロッテコーチ時代、投手と一打者につき得意コース、苦手コース、癖、構え、カウント別の対応等最低20分のミーティングを実践していたことで、阪神からFA移籍してきた仲田幸司は野球の奥深さに感銘を受けたという。コーチ時代は、常に相手打者の資料、データを膨大に用意していたという。
- ダイエーコーチ就任要請は監督である王自身からの電話だった。尾花は「まさか王さんが直接自分のところに電話してくるはずがない」と思い、王の「もしもし、王ですが」という言葉に「王さんですか?失礼ですがそのような知り合いに心当たりないのですが、どちらにお掛けですか」と答えてしまった。しかし王は「福岡ダイエーホークスの監督を務めております王貞治と申します」と丁寧に返答、これにはさすがの尾花も受話器を握りしめたまま直立不動になってしまった。
- 1999年の西武ライオンズとの開幕戦で、監督の王に対し「監督、この試合は何対何で勝つつもりですか?どの程度の得失点を想定しておられますか?」と尋ねた。王はコーチからこのような質問を受けるのは初めてで怪訝そうな顔つきをしていると、「その想定なくしては私はどのように投手を用意したらいいのですか。例えば2対1と3対2では投手継投が大きく異なります」と続けた。王が「君はどう思う?」と聞くと、「西口文也から二点取れますか?2対1または1対0で勝たないと。いずれにせよ、接戦になるでしょう」と答え、王も頷いた(結果は1対0でライオンズの勝利。西口が完封勝利した)。この試合を機に、試合前に試合展開に応じて投手起用を事前に準備する方式が、ダイエー内で確立したという。この年、ホークスは日本一となった。尾花は他のコーチとの確執が絶えず、王に辞意を伝えたが、彼の手腕を認めた王が「お前の居易いようにするから」との一声で留任を決めたという[14]。また、島田誠の存在も大きく、外様故に軽視されがちだった所を島田に助けてもらった経緯もあり、彼が王の信頼を失いかけた時は自らも島田を助ける等、互いに信頼関係を築いていた(島田の項も参照)。
- 近年、監督、コーチでもユニフォームのパンツの裾を隠す穿き方が目立つが、原点に立ち返って、裾を膝下まで上げ、白ソックスにストッキングを着用した穿き方をしている。
野球以外[編集]
- 人格者としても知られ、犯罪を犯した人の社会復帰や更生を手助けする保護司でもある。
- 夫人は元客室乗務員。1男2女。このうち次女の尾花貴絵はモデル。2010年に石川県金沢市で行われた加賀友禅の新人モデルの全国オーディションでグランプリを受賞しており[15]、2011年は旭化成グループキャンペーンモデルに選ばれた[16]。
- 巨人時代からの愛車はメルセデスベンツCLK320。
- 新日鉄堺時代は同社の環境技術部門に配属され、30メートルもある煙突に登り、煙の成分を検出する業務を担当。煙突から排出される煙を採取し、ろ紙を電子顕微鏡にのせ、付着した成分の水分やダストの量を調べていた。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978 | ヤクルト | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 58 | 13.1 | 15 | 3 | 4 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 6 | 6 | 4.15 | 1.43 |
1979 | 36 | 22 | 2 | 1 | 0 | 4 | 9 | 0 | -- | .308 | 615 | 137.0 | 163 | 15 | 49 | 4 | 7 | 75 | 1 | 0 | 84 | 75 | 4.93 | 1.55 | |
1980 | 34 | 26 | 10 | 0 | 0 | 8 | 13 | 1 | -- | .381 | 857 | 209.1 | 182 | 20 | 70 | 2 | 2 | 123 | 3 | 0 | 91 | 70 | 3.01 | 1.20 | |
1981 | 30 | 19 | 4 | 1 | 0 | 6 | 6 | 0 | -- | .500 | 532 | 125.2 | 135 | 18 | 34 | 2 | 4 | 84 | 2 | 0 | 65 | 59 | 4.21 | 1.34 | |
1982 | 42 | 32 | 14 | 2 | 6 | 12 | 16 | 4 | -- | .429 | 996 | 246.0 | 226 | 21 | 45 | 4 | 6 | 154 | 2 | 0 | 84 | 71 | 2.60 | 1.10 | |
1983 | 41 | 16 | 4 | 0 | 1 | 11 | 10 | 6 | -- | .524 | 712 | 165.0 | 193 | 19 | 44 | 9 | 2 | 88 | 1 | 0 | 93 | 86 | 4.69 | 1.44 | |
1984 | 45 | 20 | 8 | 1 | 2 | 14 | 8 | 7 | -- | .636 | 723 | 175.0 | 172 | 27 | 47 | 9 | 3 | 106 | 6 | 0 | 70 | 67 | 3.45 | 1.25 | |
1985 | 40 | 25 | 10 | 1 | 1 | 11 | 8 | 7 | -- | .579 | 893 | 205.0 | 229 | 23 | 57 | 3 | 12 | 107 | 4 | 1 | 108 | 100 | 4.39 | 1.40 | |
1986 | 34 | 27 | 9 | 1 | 3 | 9 | 17 | 1 | -- | .346 | 878 | 201.1 | 241 | 22 | 39 | 7 | 8 | 86 | 4 | 0 | 105 | 95 | 4.25 | 1.39 | |
1987 | 33 | 29 | 9 | 2 | 2 | 11 | 15 | 3 | -- | .423 | 869 | 206.2 | 227 | 24 | 37 | 7 | 5 | 145 | 4 | 0 | 111 | 91 | 3.96 | 1.28 | |
1988 | 31 | 31 | 10 | 3 | 4 | 9 | 16 | 0 | -- | .360 | 949 | 232.0 | 242 | 17 | 42 | 5 | 1 | 125 | 2 | 0 | 81 | 74 | 2.87 | 1.22 | |
1989 | 27 | 25 | 8 | 0 | 1 | 11 | 8 | 0 | -- | .579 | 738 | 167.2 | 225 | 21 | 35 | 1 | 2 | 77 | 4 | 0 | 91 | 82 | 4.40 | 1.55 | |
1990 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 100 | 21.2 | 29 | 2 | 6 | 1 | 2 | 9 | 0 | 0 | 17 | 12 | 4.98 | 1.62 | |
1991 | 21 | 14 | 3 | 0 | 1 | 5 | 8 | 0 | -- | .385 | 416 | 97.1 | 109 | 10 | 19 | 2 | 3 | 40 | 4 | 0 | 55 | 47 | 4.35 | 1.32 | |
通算:14年 | 425 | 291 | 91 | 12 | 21 | 112 | 135 | 29 | -- | .453 | 9336 | 2203.0 | 2388 | 242 | 528 | 56 | 58 | 1225 | 37 | 1 | 1061 | 935 | 3.82 | 1.32 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績[編集]
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2010年 | 横浜 | 6位 | 144 | 48 | 95 | 1 | .336 | 32.0 | 117 | .255 | 4.88 | 53歳 |
2011年 | 6位 | 144 | 47 | 86 | 11 | .353 | 27.5 | 76 | .239 | 3.87 | 54歳 | |
通算:2年 | 288 | 95 | 181 | 12 | .345 | Bクラス2回 |
表彰[編集]
- 月間MVP:1回 (1984年9月)
記録[編集]
- 2203イニング連続押し出し四球無し
- オールスターゲーム出場:3回 (1982年、1985年、1988年)
背番号[編集]
- 32 (1978年 - 1991年)
- 84 (1995年 - 1996年)
- 74 (1997年 - 1998年)
- 87 (1999年 - 2011年、2013年 - 2017年)
- 77 (2021年 - )
関連情報[編集]
出演番組[編集]
- ナイター中継/プロ野球中継(西暦='92~'94)(フジテレビ。テレビ新広島等系列局のローカル中継への出演もあり)
- プロ野球ニュース(フジテレビ)
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送)
脚注[編集]
- ^ 永谷脩「『投手王国』を築いた男、一人静かに福岡を去る。」 Sports Graphic Number640号、文藝春秋、2006年、116頁。
- ^ 横浜新監督に尾花氏 時事通信[リンク切れ]
- ^ “横浜、尾花監督が休養 球団売却で人事不透明に”. 共同通信 (2011年10月22日). 2011年10月24日閲覧。
- ^ 来季のコーチングスタッフが決定読売ジャイアンツ(2012年11月13日)
- ^ 来季の一、二軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月27日)
- ^ “【巨人】斎藤2軍監督が1軍投手コーチに 2軍監督には内田氏(スポーツ報知)- Yahoo!ニュース” (2017年7月13日). 2017年7月13日閲覧。
- ^ “巨人・尾花投手コーチ、来季は編成本部アドバイザーに転任 村田善コーチはスコアラーに” (日本語). SANSPO.COM (2017年10月8日). 2020年12月22日閲覧。
- ^ “元巨人投手コーチ、横浜監督の尾花高夫氏が秋田・明桜高野球部総監督に就任” (日本語). Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ―. 2020年12月22日閲覧。
- ^ “尾花高夫氏 秋田・明桜高野球部総監督に就任”. スポニチ. 2020年12月22日閲覧。
- ^ “コーチの就任について” (日本語). 東京ヤクルトスワローズ. 2020年12月2日閲覧。
- ^ “日めくりプロ野球10年1月”. Sponichi Annex. 2010年10月10日閲覧。
- ^ ただし、この采配は前監督の大矢明彦と同じくここ近年の横浜の先発投手陣が脆弱ゆえに取らざるをえなかった戦略であるが、それに伴い中継ぎ陣への負担も増すなど、苦しい采配を強いられていた。
- ^ 2012年7月14日放送分の、虎バンにゲスト出演した古田本人が語っていた。
- ^ 飯田絵美「王の道 王貞治を演じきるということ」 メディアファクトリー
- ^ [1]
- ^ 旭化成キャンペーンモデルに横浜・尾花監督の次女起用 - スポーツニッポン2011年1月12日
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 尾花高夫 - NPB.jp 日本野球機構
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