山下敬二郎
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山下敬二郎 | |
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生誕 | 1939年2月22日 |
出身地 |
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死没 | 2011年1月5日(71歳没) |
ジャンル | ロカビリー |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | 歌 |
事務所 | 渡辺プロダクション |
共同作業者 | サンズ・オブ・ドリフターズ |
山下 敬二郎(やました けいじろう、本名:山下 啓次郎(やました けいじろう)、1939年2月22日 - 2011年1月5日[1])は、東京都出身のロカビリー歌手。
人物・略歴[編集]
父は落語家・喜劇俳優の柳家金語楼、異母兄は作家・演出家の山下武、実妹は女優・声優の有崎由見子。祖父は三遊亭金勝。叔父は先代昔々亭桃太郎。
ウイリー沖山の弟子を経て、初期ドリフターズ(サンズ・オブ・ドリフターズ)でメインボーカルを務める。
創立間もない渡辺プロダクションの専属になり、1958年2月に開かれた第1回日劇ウエスタンカーニバルで大々的に売り出される。
持ち歌はポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カヴァーで、平尾昌晃、ミッキー・カーチスと共に「ロカビリー三人男」と呼ばれ、一世を風靡した。
5度の結婚歴があり、5人目の妻の山下直子(1991年、26歳の年齢差で結婚)とのステージを中心に、セルフ・プロデュースでカントリー・ウエスタンのCDを発表するなど、ベテランの域に達しても音楽活動を展開していた。
2008年には第50回日本レコード大賞功労賞を受賞。
2009年10月25日「ボクらの時代」(フジテレビ)に平尾昌晃、ミッキー・カーチスと出演。
2010年11月末から胆管がんで入院していたが、2011年1月5日に胆管がんによる腎不全のため東京都町田市の病院で死去した[1]。71歳没[1]。戒名は啓光院慈徳良道居士[2]。山下の訃報に、長年の友人であった平尾昌晃は「ロカビリー三人男は永遠に不滅。53年間一緒にやれて有難う」と追悼の辞を贈った[3]。
ディスコグラフィー[編集]
シングル[編集]
- バルコニーに坐って/ダイアナ(1958年4月、JPS-5008)
- クレイジー・ラヴ/愛しておくれ(1958年、JP-5010)
- 「クレイジー・ラヴ」はポール・アンカのカバーで、清野太郎との競作。
- 敬ちゃんのジングルベル/ブルー・クリスマス(1958年11月、JP-5017)
- 恋の片道切符/褐色のブルース(1960年2月、JP-5034)
- 恋はやさしい野辺の花/ディアボロの歌(1961年、JP-5075)
- 白い夜霧のブルース/今日の涙は明日の虹さ(1961年、JP-5095)
- ブロンコ/マーベリック(1961年、JP-5097)
- 可愛いティーズ/スチールギターとワイングラス(1962年、JP-5130)
- ヤング・ワールド/クライ・クライ・クライ(1962年)
- 北風を衝く男/俺は夢見る旅鳥(JP-1018)
- それが男というものさ/うき藻小唄(朝丘雪路)(JP-1174)
- 花子さん/ほんとにほんとにご苦労ね(JP-1275)
- 愛しているなら/遠くで愛して(1970年、CD-74)
- ダイアナ/バルコニーに坐って(1974年9月5日、ETP-10304)
- バイ・バイ・ブルース/僕のベッドへおいで(1977年、RVS-1081)
- 男と汽車と古い地図/なごり(1980年7月、RD-4004)
- あいつと俺/酒飲み男の子守唄(1983年、AH-362)
アルバム[編集]
- 敬ちゃんのロック
- 涙の紅バラ
- しゃれ男(JP0-1096)
- 上陸!ロックン・ロール・タイフーン/聖者の行進(1977年6月、SKM-1410)
- A面は1950年代〜1960年代のロックンロールのヒット曲のメドレー。平尾昌晃、ミッキー・カーチスと共演
出演番組[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c ロカビリーの山下敬二郎さん急死71歳がん - 芸能ニュース : nikkansports.com
- ^ 山下さん通夜「世界一の人」と妻が… - 芸能ニュース : nikkansports.com
- ^ 【山下敬二郎さん死去】平尾昌晃「あまりにも早い訃報に呆然」 産経新聞 2011年1月6日閲覧(ウェイバックマシン2011年1月9日分キャッシュ)
- ^ 檻の中の野郎たち - Movie Walker