山内一唯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山内一唯
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年(1600年
死没 寛文3年6月27日1663年7月31日
改名 吉助(幼名)、一唯
戒名 冷伯院殿釈風残大居士
墓所 埼玉県さいたま市西区中釘の妙玖寺
官位 従五位下伊豆守[1]豊前守
幕府 江戸幕府 書院番
主君 徳川家光
氏族 土佐山内氏庶流 指扇(新橋)山内家
父母 山内康豊、妙玖院
兄弟 与祢、忠義、慈教院、政豊深尾重昌
一唯、郷
小出吉英長女、栄松院
一輝、女子、一俊
テンプレートを表示

山内 一唯(やまうち かつただ)は、江戸時代前期の武将旗本武蔵国指扇山内家(新橋山内家)の祖。

略歴[編集]

慶長5年(1600年)、山内一豊の弟・山内康豊の四男として掛川にて誕生。

大坂の陣で戦功を挙げて、元和9年(1623年)、武蔵指扇領18か村3000石を与えられて書院番となり、領内中釘村に陣屋を築く。後に酒井忠行の組に加わる。

寛文3年(1663年)、死去した。

逸話[編集]

60歳の時、家臣高村権之丞の妻の妙陽(19歳、2児の母)に惚れ、妙陽に親子夫婦の縁を切らせ側室とした。権之丞父子は家老となり、荒川の堤防の構築したり、新田の開発をした。一唯の没後も復縁せず、主従の関係を崩さなかった。

系譜[編集]

一唯以後は嫡男・一輝が相続するが、26歳での死去を受けて次男・一俊が相続する。しかし一俊も27歳で死去したため、一俊の長男豊房が4歳で相続する。その頃、本家である土佐藩4代藩主・山内豊昌に嗣子が無かったため、元禄元年(1688年)に本家の養子となり、元禄13年(1700年)には豊昌の死去により土佐藩主となった。なお、養子となった際に指扇領を幕府に返上したため、指扇山内家(山内一唯家)は断絶している。豊房も35歳で嗣子なくして没したため、弟・豊隆が藩主となった。

脚注[編集]

  1. ^ 元和元年(1615年)叙任。