山名豊暄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山名豊暄
時代 江戸時代中期
生誕 正徳4年6月25日1714年8月5日
死没 明和6年8月1日1769年8月31日
別名 隼之助、主殿(通称)
戒名 即心院殿高山浄輝大居士
墓所 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の法雲寺(坪谷御廟)
官位 従五位上、中務少輔
幕府 江戸幕府交代寄合
但馬村岡領
氏族 山名氏
父母 父:山名豊就
兄弟 豊寛、豊暄、豊知、豊陽、喜蔵、佐助、季豊
正室:喜連川茂氏の娘
栄之丞(早世)、娘(山名義徳室)
養子:山名義徳

山名 豊暄(やまな とよあきら)は、江戸時代交代寄合但馬国村岡領主。

経歴[編集]

山名豊就の子。延享元年(1744年)、父の死去により、家督を継ぐ。 正室は下野喜連川藩藩主 喜連川茂氏の娘。

寛延3年(1750年)の須原屋版武鑑に「七千石 但州志津見 てつほうす 山名主殿」とある。[1] 明和2年(1765年)4月、実子の栄之丞が早世していたため、柳川藩主・立花鑑通の弟である立花致知(靱負、立花貞俶の八男)を婿養子とする。[2]。致知は山名家に入って豊貴、後に義徳に改名。

明和6年(1769年)、死去。享年56。

脚注[編集]

  1. ^ 「大武鑑・中巻」。なお、同書には延享3年の武鑑の内容も掲載されているが、山名豊就が生存中の時と内容の更新がないので省略。なお延享3年の武鑑の内容は「七千石 但州志津見 てつほうす 山名因幡守 当時寺社御奉行」で元文6年のものと同じ
  2. ^ 「立花貞俶の八男の貞俊を婿養子とし、義徳と名乗らせ家督を継がせた(翌年5月入部)」とするものもあるが、少なくとも「柳川市別冊・図説立花家記」、「旧柳川藩志・上巻」、「寛政重修諸家譜」のいずれにも山名義徳が柳川藩立花家にいた頃に「立花貞俊」と称した旨の記述は見られない。山名家側史料にある可能性がなくはないので脚注とす。

参考文献[編集]

  • 「柳川市別冊・図説立花家記」(柳川市・柳川市史編集委員会編集・平成22年(2010年))
  • 「旧柳川藩志・上巻」(柳川・山門・三池教育会編、昭和32年)
  • 「寛政重修諸家譜」
  • 「改訂増補 大武鑑・中巻」(橋本博、名著刊行会、1965年5月10日)