山本周五郎

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山本 周五郎やまもと しゅうごろう
誕生 清水 三十六しみず さとむ
(1903-06-22) 1903年6月22日
日本の旗 日本山梨県北都留郡初狩村
(現:大月市初狩町下初狩)
死没 (1967-02-14) 1967年2月14日(63歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市中区本牧間門51付近、旅館「間門園」別棟
墓地 鎌倉霊園
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 横浜市立尋常西前小学校
活動期間 1926年 - 1967年
ジャンル 小説
代表作樅ノ木は残った』(1954-58年)
赤ひげ診療譚』(1958年)
『青べか物語』(1960年)
季節のない街』(1962年)
さぶ』(1963年)
『ながい坂』(1964-66年)
デビュー作 『須磨寺附近』(1926年)
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山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年6月22日 - 1967年2月14日)は、日本小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代物、歴史物で知られ、特に晩年多くの傑作を書いて高く評価された。

経歴[編集]

1903年明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる[1]。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)[1]。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある[2][1]。本籍地は北巨摩郡大草村(現:韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている[3]。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現:韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[2]

1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生する。大水害では甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受け、周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父の伊三郎、祖母の「さく」、叔父の粂次郎、叔母の「せき」を失っている[1]。大水害後、一家は東京府北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。

1910年(明治43年)、北豊島郡王子町豊島の豊川小学校に入学した[4]。8月10日、荒川が氾濫し住居が浸水し大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌年、学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校(現:横浜市立西前小学校)2年に転学した。この頃、父はの仲買を営んでいた。また、輸入用麻製真田紐の巻き取り、生糸の仲買、小口金融業、小料理店甲子屋の経営、三業組合書記などの職を転々とした[5]。4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした[5]

1916年(大正5年)、横浜市立尋常西前小学校卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災し、一旦解散となる。その後、豊橋神戸に転居。神戸では「夜の神戸社」へ編集記者として就職する[4]1924年(大正13年)、再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社、文書部に配属。その後、帝国興信所の子会社である会員雑誌「日本魂」の編集記者となる[4]

1926年(大正15年・昭和元年)、『文藝春秋』4月号の懸賞に投じた『須磨寺附近』が掲載され文壇出世作となる[6]。なお、ペンネーム「山本周五郎」の由来として、『須磨寺附近』を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋が誤って山本周五郎を作者名として発表したという説があるが[注 1]、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも洒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。そのため、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現:正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。また「山本周五郎」以外には、俵屋宗八[注 2]・俵屋宗七・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿・甲野信三などを用いたことが知られている。

1931年(昭和6年)、東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵ものや冒険活劇を書いていた周五郎だったが[9]尾崎士郎鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の『キング』に時代小説を書くようになった[9]。当時の『キング』は発行部数140万部と雑誌界の首位にあった[注 3]。また講談社には時代小説を書くと決めていたらしく、山本周五郎のペンネームだけを使った[11]

1936年(昭和11年)、講談社から新進作家として扱われ、同社発行の『婦人倶楽部』『少年倶楽部』『講談倶楽部』『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載されるほどの売れっ子となった。また博文館も周五郎の「大人向け」作品を掲載するようになった。この頃の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった[12]

1942年(昭和17年)、『婦人倶楽部』で各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3話(「松の花」「梅咲きぬ」「箭竹」。全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、残りの4話(いずれも実在の人物で、それなりの周知されている人物)は他の作家が担当した。なお、「日本婦道記」は『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣ったものだという[13]

1943年(昭和18年)、第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[注 4]。直木賞史上、授賞決定後としては唯一の辞退者となった[注 5]。辞退の理由として[注 6]、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったことなどが挙げられる[17]。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、選考委員だった吉川英治の選評への反発の可能性も指摘されている[18]。なお、この頃、周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[12]

1948年(昭和23年)、旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。

1967年(昭和42年)2月14日、間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64歳(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。

1988年(昭和63年)、功績を記念し、新潮社などにより山本周五郎賞が創設された[19]

年譜[編集]

6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。
明治40年の大水害が発生する。大水害後、一家は東京府北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。
北豊島郡王子町豊島の豊川小学校に入学するものの、今度は荒川が氾濫し住居が浸水し大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。
学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校2年に転学した。
横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
徴兵検査を受けたが、視力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災し、一旦解散となる。その後豊橋神戸に転居。神戸では「夜の神戸社」へ編集記者として就職する
再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である会員雑誌「日本魂」の編集記者となる。
  • 1926年(大正15年・昭和元年)23歳
文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載され、これが文壇出世作となる。
10月20日、脳溢血で母・とく死去。
千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)に転居。
10月、勤務不良により日本魂社から解雇される。
東京虎ノ門に転居。
11月、宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護師・土生きよいと結婚。2男2女を儲ける。
東京馬込東に転居。尾崎士郎鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の『キング』に時代小説を書くようになる。
5月、『キング』に「だゝら團兵衛」が掲載される。
6月26日、中風で父・逸太郎死去。
講談社から新進作家として扱われ、博文館も周五郎の「大人向け」作品を掲載するようになる。
婦人倶楽部』で各藩の女性を扱う「日本婦道記」が企画され、周五郎も「松の花」「梅咲きぬ」「箭竹」の3話を担当した。
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退。
5月4日、膵臓癌で妻・きよい死去(享年36歳)。
自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚[20]。横浜市中区に転居。
旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。
樅ノ木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退。
文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
2月14日、間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64歳(満63歳)。

作風[編集]

周五郎は、もともとは純文学の作家を目指していた。しかし、デビュー後は作や童話少女小説の執筆を主とし、1932年(昭和7年)に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に「だゝら團兵衛」を発表して以降は大人向けの大衆娯楽雑誌を作品活動の舞台とするようになる[21]。そのため、一般からは大衆小説の作家とみなされ、新進、中堅時代には純文学作家や批評家からはほとんど黙殺された[6]。だが周五郎は純文学と大衆文芸との区別を認めず[22]、「面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない」[23]という信念の下、最大多数の読者を対象とする小説を書きつづけた[注 7]

作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。

周五郎の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも周五郎の作風である。

そうした周五郎作品の特徴を『聖書』に準えたのは映画監督篠田正浩。篠田は周五郎が庶民の哀感のようなところにスポットを当てたとする見方に対して「それは嘘です。あの人は庶民なんか信じていないでしょう。そういう読まれ方をされていることが口惜しかったのではないですか」とした上で周五郎作品に通底する「聖なるものといえる存在」を指摘。「むしろキリスト教的な人間の、この世に聖なるものがなかったら人間は存在する理由がない、という前提が山本周五郎にはある。聖なる心をいだいていながら、汚辱にまみれた世の中で、まるで見えていないものを発掘するんです。だから、観念小説ですね。どこにもリアリズムがない。もうほとんど空想小説といってもいいぐらいでしょう。聖書のように書いているんじゃないかな、物語をね」と独自の周五郎像を披露している[26]

またハードボイルド作家の生島治郎は『樅ノ木は残った』はハードボイルド・タッチの作品であるとした上で[27]、「山本周五郎自身、かなり海外の小説を読んでいるんじゃないかな。そういうテクニックを使っているということですよね」「おれは彼がチャンドラーを読んでたような気がする」とこれまた独自の周五郎像を披露している[28]。さらに生島は周五郎作品が通俗小説から脱皮して純文学作品に到達したという周五郎の文学観にも反するような評論がまかり通っていることに対して、「どう考えても、山本周五郎氏の作品は純文学ではあり得ない。私見によれば、上質な娯楽小説である」「上質な娯楽小説を書こうと努力している作者に対して『通俗小説から脱皮して』という評価は、純文学かぶれの半可通が讃め言葉と錯覚して口走った世迷言にすぎない」と断じている[29]

人物[編集]

逸話[編集]

  • 山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
  • 尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
  • 若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
  • 山本は、中原中也太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
  • ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒から「周五郎のヴァン」として販売されている。
  • 山本はウイスキーも好きであったが、好んだのはサントリーホワイトで、最晩年には角瓶を好んだ。
  • 代表作『樅ノ木は残った』執筆の前年まで睡眠薬のアドルムを常用していた。アドルムは坂口安吾も常用していて中毒になっている。夫人が心配すると「自分は大丈夫だ。自分の精神を自分で制御できる者は、薬の中毒やアルコール依存症にはならない。要するに、薬やアルコールに飲まれてしまうような、心の弱い者が中毒患者になるのだ」と答えた。
  • 山本は人間の心理描写に卓越する反面、人嫌いで人付き合いを極端に制限し、仕事場への訪問客にもめったに面会せず、座談はうまいのに講演は断り、園遊会には出席せず、文学賞と名のつくものはことごとく辞退した。
  • 山本の生活は規則正しく、51歳から晩年まで自宅から停車場3つ離れた仕事場で自炊していた。午前3時に起床、就寝は午後8時。朝食前に行水をし、後始末に雑巾がけをした。この作業に1時間半ほどかかった。午前10時まで仕事をし、散歩をして午前11時に昼食。ざるそばのつゆに生卵を入れた。午後4時まで仕事をし、夜は原稿をかかず、朝は3時に起きて朝食の準備をした。
  • 日本酒より洋酒を好み、晩酌を欠かさなかった。夜はかなりの量を食べたが、ご飯はあまり食べず、「ふろあがりののんびりした体に、めしを詰め込んでげっぷをしながらでは、創造的精神ははたらかない」というのが持論であり、「この国の広大な平野から、でき得るだけでいい、稲田を追放しよう」と述べ、を嫌っていた。編集者のひとりは「先生が亡くなられたら、お米がすごくうまいんです。もうストップをかける人がいないと思うと、つい食がすすみます」と本音を言ったという。
  • 嵐山光三郎は「米は、たぐいまれなる栄養食であり、米を主食とする日本型食生活が日本人を世界最長寿にしたのであるけれど、このころは、それを言う人は少なかった。カロリーの高いものを食べすぎた結果、周五郎は63歳で死んだのである」と評している。

主な作品[編集]

小説[編集]

  • 廣野の落日 (1920年)
  • 明和絵暦 (1934年)
  • 風雲海南記(旧題:浪人時代及び武士道春秋) (1938年)
  • 日本婦道記 (1942年)- 「日本婦道記」を企画、命名したのは『婦人倶楽部』編集部。それが評判になって定着していった[31]。独立した作品を集めて単行本にしたもの。『日本婦道記』自体にも二種類ある。1943年(昭和18年)講談社(当時は大日本雄弁会講談社)版と1958年(昭和33年)新潮文庫版である。収録作品は同じでない。後者は周五郎自身が作品を選定しており、現在ではこれが底本とされている。竹添敦子は、女性を主人公にした周五郎の連作(シリーズもの)と捉えている[32]。底本とされている新潮文庫版には、「松の花」「梅咲きぬ」「節竹」「不断草」「藪の陰」「糸車」「尾花川」「桃の井戸」「墨丸」「萱笠」「風鈴」の11編が収められている[33]。現在は講談社・新潮社どちらからも31編全てを収めた完全版が出版されている。
  • 新潮記 (1943年)
  • 柳橋物語 (1946年)
  • 寝ぼけ署長 (1948年)
  • 楽天旅日記 (1950年)
  • 山彦乙女 (1951年)
  • 火の杯 (1951年)
  • 風流太平記 (1952年)
  • 栄花物語 (1953年)
  • 正雪記 (1953-54年、1956年)
  • 樅ノ木は残った (1954-58年)
  • 赤ひげ診療譚 (1958年)
  • 天地静大 (1959年)
  • 五瓣の椿 (1959年)
  • 彦左衛門外記(旧題:ご意見番に候) (1959年)
  • 青べか物語 (1960年)
  • 季節のない街 (1962年)
  • さぶ (1963年)
  • 虚空遍歴 (1963年)
  • ながい坂 (1966年)

全集[編集]

  • 『山本周五郎全集』(全13巻、講談社、1963年 - 1964年)
  • 『山本周五郎小説全集』(全33巻・別巻5、新潮社、1968年 - 1970年)
  • 『山本周五郎全集未収録作品集』(全17巻、実業之日本社、1972年 - 1982年)
  • 『山本周五郎全集』(全30巻、新潮社、1981年9月 - 1984年2月)
  • 『山本周五郎長篇小説全集』(全26巻、新潮社、2013年6月 - 2015年2月)
  • 『山本周五郎探偵小説全集』(全6巻・別巻1、作品社、2007年 - 2008年)、末国善己

日記[編集]

  • 『青べか日記』(大和書房、1971年、内容は1928年8月12日~1929年9月20日の戦前期の日記、のち新潮文庫・光文社知恵の森文庫)
  • 『山本周五郎 愛妻日記』(角川春樹事務所、2013年、内容は1930年1月14日~1941年12月7日の間)
  • 『山本周五郎 戦中日記』(角川春樹事務所、2011年、内容は1941年12月8日~1945年2月4日の間、のちハルキ文庫)太平洋戦争中の全文を一挙収録[34]

関連書籍[編集]

  • 『山本周五郎』(上・下、アールズ出版) 木村久邇典
  • 『わが山本周五郎』(文藝春秋、のち文春文庫) 土岐雄三
  • 『わが師 山本周五郎』(第三文明社、のち集英社文庫) 早乙女貢
  • 『山本周五郎最後の日』(マルジュ社、2009年) 大河原英与(文藝春秋の編集者)
  • 『周五郎伝 虚空巡礼』(白水社、2013年) 齋藤愼爾
  • 『泣き言はいわない』(新潮文庫、改版2009年)
  • 『周五郎流 激情が人を変える』(NHK生活人新書、2003年)高橋敏夫
  • 『山本周五郎のことば』(新潮新書、2003年)清原康正編
  • 『山本周五郎で生きる悦びを知る』(PHP新書、2016年)福田和也
  • 『また明日会いましょう 生きぬいていく言葉』(河出書房新社、2018年)
  • 『文藝別冊 山本周五郎 背筋を伸ばす反骨の文士』(河出書房新社、2018年)

翻案作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

ほか多数

舞台[編集]

  • こんち午の日/季節のない街/ながい坂/さぶ/柳橋物語/梅咲きぬ/つゆのひぬま/夜の辛夷/赤ひげ/わたくしです物語/青べか物語/かあちゃん/地蔵/ひとごろし/裏の木戸は開いている/おたふく物語 ほか(前進座
  • 夢ごころ(名鉄・東宝提携特別公演/名鉄ホール
  • 川霧の橋(1990年/宝塚歌劇団月組) - 『柳橋物語』『ひとでなし』が原案
  • 小さな花がひらいた(1971年・1981年・1982年・1991年・1992年・2011年/宝塚歌劇団花組星組) - 『ちいさこべ』が原案
  • いのちある限り(1978年/宝塚歌劇団雪組)- 『野分』『釣忍』が原案
  • 落葉のしらべ(1972年/宝塚歌劇団雪組) - 『落葉のとなり』が原案
  • 白い朝(1974年・1997年 - 1998年/宝塚歌劇団月組・花組) - 『さぶ』が原案
  • 沈丁花の細道(1984年/宝塚歌劇団月組)- 『半之助祝言』が原案
  • TRUTH(1999年・2005年/演劇集団キャラメルボックス)- 『失蝶記』(『日日平安』に収録)が原案
  • 五瓣の椿(2005年6月4日 - 6月28日/明治座
  • まつさをな(2007年/演劇集団キャラメルボックス)- 『みずぐるま』(『おさん』に収録)が原案
  • 赤ひげ(2008年1月/劇団俳優座
  • おたふく/ゆうれい貸屋(演劇倶楽部『座』
  • さぶ(劇団俳小)
  • おたふく物語(2016年9月/明治座/主演:藤山直美

オペラ[編集]

  • 松とお秋(2004年/「周五郎の世界」/東京文化会館小ホール、2006年/NPOみんなのオペラ/江東文化センター、2010年12月4日/大中恩作品の会/津田ホール、脚色:岡村喬生、作曲:大中恩) - 『嘘アつかねえ』『ほたる放生』(『日日平安』に収録)が原案

漫画[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 例えば、池内紀は「問われるたびに山本周五郎はそんなふうに答えた」と書いている[7]
  2. ^ 最初期からのペンネームである。また山本周五郎に次ぐ位置づけである。このペンネームによる随筆等もある[8]
  3. ^ 『キング』は、「天皇制ナショナリズム、それも、モダニズムと立身出世・修養主義を加味した新しいナショナリズムを思想的主柱とし(中略)批判力に乏しい民衆を意のままにファシズムに動員した先導者、ファシズムへの地ならしをした極めて保守的なジャーナリズム」との評価もある[10]
  4. ^ 「直木三十五賞『辞退のこと』」が『文藝春秋』(昭和18年9月号)に掲載された。その前文は、「こんど直木賞に擬せられたそうで甚だ光栄でありますが、自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰いました。この賞の目的にはなにも知りませんけれども、もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、そういう気がします。新しいとだけでは漠然としすぎますが、とにかくいまの清新なものがほしいという感じは誰にもあると思う。局外者がこんなことを云うのはおせっかいに類するけれども、新人と新風とを紹介する点にこの種の賞の意味があるので、もちろん在来もそうであったとは思いますが、今後もなおそういうものが選ばれてゆくことを希望したいと思います」である[14]
  5. ^ 1940年(昭和3年)上半期の第11回芥川賞を高木卓が辞退して、世上騒然たる物議を醸し出している。両文学賞史上、受賞辞退はこの二名だけである[15]
  6. ^ 某評論家は、周五郎が辞退した理由を、当時の周五郎の「主要な作品発表の舞台は、おおむね博文館系の雑誌だったために、博文館への義理立てとでも云った心情から、文藝春秋の文学賞を遠慮したのではないか。そういう律儀な性格がとらしめた、一見、佶屈たる行動」と述べているらしい(木村久爾典『山本周五郎-馬込時代』(福武書店)の第12章「直木賞を蹴る」による)[16]
  7. ^ 朝日新聞の担当記者として周五郎の信頼も厚かった木村久邇典は『随筆 小説の効用』(中央大学出版部)の解題で周五郎の文学観を次のように代弁している――「十年ほどまえ、一部の評論家からは、〝大衆文学芸術派〟などと、一種の敬遠とも受けとれる呼称で別格扱いにもされたが、著者は実作ひとすじによって、ぬき難い偏見の所有者たちをも説得しつづけてきた。著者においては文学には〝純〟も〝不純〟もなく〝大衆〟も〝少数〟もない。最大多数の庶民の側に立つよりよい文学の創造以外にはないのである」[24]。ただし、周五郎は「中島健蔵氏に問う――自省と批判――」で「最大多数の読者」[25]とは書いているものの、木村が書くように「最大多数の庶民」とは書いていない。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 山梨県立文学館 1998, p. 6.
  2. ^ a b 歴史読本 2012, p. 298.
  3. ^ 山梨県立文学館 1998, p. 8.
  4. ^ a b c 山本周五郎 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館. 2021年5月14日閲覧。
  5. ^ a b 歴史読本 2012, p. 299.
  6. ^ a b 山本周五郎とは”. コトバンク. 2021年5月14日閲覧。
  7. ^ 池内紀 『作家のへその緒』 新潮社、2011年5月、205頁。ISBN 978-4-10-375506-7。 
  8. ^ 竹添 2015, p. 161.
  9. ^ a b 竹添 2015, p. 99.
  10. ^ 竹添 2015, p. 101.
  11. ^ 竹添 2015, p. 100.
  12. ^ a b 竹添 2015, p. 103.
  13. ^ 竹添 2015, p. 108.
  14. ^ 齋藤 2013, p. 280.
  15. ^ 齋藤 2013, p. 294.
  16. ^ 齋藤 2013, p. 296.
  17. ^ 竹添 2015, p. 151-152.
  18. ^ 竹添 2015, p. 152-153.
  19. ^ 付録 山本周五郎賞受賞作候補作一覧”. 直木賞のすべて. 2021年5月14日閲覧。
  20. ^ 清水きん 『夫山本周五郎』 福武書店〈福武文庫〉、1985年5月。ISBN 4-8288-3075-8。 
  21. ^ 竹添 2015, p. 90-100.
  22. ^ 全エッセイ 1980, p. 30.
  23. ^ 全エッセイ 1980, p. 5.
  24. ^ 全エッセイ 1980, p. 349.
  25. ^ 全エッセイ 1980, p. 22.
  26. ^ 歴史読本 2012, p. 113-120.
  27. ^ 五木寛之 『五木寛之雑学対談』 講談社、1975年11月、103頁。 
  28. ^ 生島治郎 『生島治郎の誘導訊問 眠れる意識を狙撃せよ』 双葉社、1974年11月、42-43頁。 
  29. ^ 生島治郎 『生島治郎自選傑作短篇集』 読売新聞社、1976年11月、308-309頁。 
  30. ^ 竹添 2015, p. 102.
  31. ^ 竹添 2015, p. 53.
  32. ^ 竹添 2015, p. 1.
  33. ^ 竹添 2015, p. 14.
  34. ^ 竹添 2015, p. 92.
  35. ^ 大河ドラマ『樅(もみ)ノ木は残った』”. NHKアーカイブス. 2021年5月14日閲覧。
  36. ^ 金曜ドラマ『赤ひげ』”. NHKアーカイブス. 2021年5月14日閲覧。

参考文献[編集]

  • 山本周五郎; 木村久邇典 『完本・山本周五郎全エッセイ』(増補版) 中央大学出版部、1980年2月。 
  • 山梨県立文学館 『曲軒・山本周五郎の世界 : 読者の支持を賞とした作家』 山梨県立文学館、1998年10月。 
  • 歴史読本編集部 『山本周五郎を読む』 新人物往来社、2012年1月。ISBN 978-4-404-04138-8。 
  • 齋藤愼爾 『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社、2013年6月。ISBN 978-4-560-08270-6。 
  • 竹添敦子 『「日本婦道記」論』 双文社出版、2015年10月。ISBN 978-4-88164-634-2。 

関連項目[編集]

  • 神戸文学館
  • 黒澤明 - 映画監督。作品の愛読者であり、『日日平安』、『赤ひげ診療譚』、『季節のない街』、『雨あがる』、『なんの花か薫る』、『つゆのひぬま』の6作品が映画化された。
  • 山本周五郎賞 - 1988年に発足