山本封山

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山本封山
山本封山.jpg
山本封山像
藤浪剛一『医家先哲肖像集』より
時代 江戸時代
生誕 寛保2年(1742年
死没 文化10年3月7日1813年4月7日
別名 通称:仲郎、諱:有香、字:蘭卿、別号:月榭[1]、室号:読書室
主君 西本願寺文如
氏族 日下氏、山本氏
父母 実父:日下貞致、養父:山本貞徳
琉已
山本世竜、山本亡羊

山本 封山(やまもと ほうざん)は江戸時代の医者、儒学者越中国高岡日下家出身。京都に出て山本家養子となり西本願寺文如に仕え、辞職後長く儒医を務めた。

生涯[編集]

寛保2年(1742年)越中国高岡に茶木屋日下庄兵衛次男として生まれた[2]。幼少時室鳩巣門人に師事し、曲直瀬道三門人に医学を学んだ[3]

成人後京都に出て武梅竜に漢詩、吉益東洞古医方を学び、山本巨柳に学才を認められて養子となった[3]。出身地高岡と「狐死して丘に首す」の故事に因み、高い丘を意味する封の字を用いて封山と号した[2]

当初養父と同様西本願寺門跡文如上人に仕えたが[2]天明6年(1786年)退職し、西本願寺より油小路通五条上ルに学問所を与えられ[4]、また京都町奉行より浪人として帯刀を許された[2]。天明8年(1788年)天明の大火に類焼し、小屋を再建した[3]

享和3年(1804年)7月西本願寺による再勤の内命を病気を理由に断ると、御館入として用人格で遇され、土圭の間に祗候した[2]。また、加賀藩からも儒学の誘いがあり、柴野栗山にも諸藩に推挙されたが、全て断った[3]

朝鶏鳴に起きて古書を写し、食後師弟に経学を講義し、午後回診を行い、哺時に帰宅する生活を数十年続け、文化10年(1813年)3月7日病没した[3]

著書[編集]

  • 読書室筆記 安永2年(1773年) - 天明6年(1786年)[5]
  • 読書室随筆 安永8年(1779年) - 寛政6年(1794年)[6]
  • 寛政七丁卯年日記 寛政7年(1795年)[7]
  • 封山先生日記 文化6年(1809年)1月 - 4月25日[8]
  • 文化辛未日録 文化8年(1810年)[7]

親族[編集]

山本家は大内義隆の子山本左京隆貞を祖とし、封山で8代目に当たる[2]

  • 父:日下庄兵衛貞致[9]
  • 母:2歳の時に死去した[2]
    • 兄:日下庄兵衛[10]
  • 養父:山本与右衛門貞徳 - 号は巨柳。宝暦11年(1761年)2月西本願寺門跡法如上人に仕えた[2]
  • 妻:琉已(るい) - 山本貞徳の姉妹が竹内家に嫁ぎ生まれた娘で、山本家に養女として戻った[2]。文政5年(1822年)6月没[11]
  • 長男:山本世竜 - 小沢蘆庵に和歌を学んだが、17歳で病気に罹った[3]
  • 次男:山本亡羊 - 本草学者。

脚注[編集]

  1. ^ 松田 2014, p. 394.
  2. ^ a b c d e f g h i 高岡市 1909.
  3. ^ a b c d e f 富士川 1984.
  4. ^ 松田 2014, p. 5.
  5. ^ 松田 2014, p. 9.
  6. ^ 西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース”. 西尾市岩瀬文庫. 2016年1月20日閲覧。
  7. ^ a b 松田 2014, p. 304.
  8. ^ 松田 2014, p. 302.
  9. ^ 松田 2014, p. 373.
  10. ^ 松田 2014, p. 155.
  11. ^ 松田 2014, p. 243.

参考文献[編集]