山村良候

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山村良候
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年(1545年
死没 慶長7年11月20日1603年1月2日
別名 通称:三郎九郎、七郎右衛門、三郎左衛門
戒名 道勇[1]
墓所 長野県木曽町興禅寺
主君 義昌義利
氏族 山村氏
父母 父:山村良利
千村八郎左衛門重政娘
千村氏室、良勝千村良重室、千村重照室、三得、一生、千村重次室、山室倹校、良士

山村 良候(やまむら よしとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将木曾氏の家臣。信濃国妻籠城主。

生涯[編集]

天文14年(1545年)、山村良利の子として生まれる。弘治5年(1555年木曾義康甲斐国武田信玄に降ると父・良利は信玄に重用された。

元亀3年(1572年)9月、武田氏の西上作戦に際し、木曾義昌は長峰峠を越え、日和田口より三木自綱を攻めてこれを破った[2]。この時、良利・良候親子は檜田次郎左衛門を討ち取り、信玄から感状を貰い[3]美濃国恵那郡安弘見の3百貫、千旦林、茄子川の両地でさらに3百貫を与えられた[4]

武田家滅亡後、天正12年(1584年)3月、徳川家康羽柴秀吉の間で小牧・長久手の戦いが起こると木曾義昌は秀吉に恭順した。このため同9月、徳川家康は菅沼定利保科正直諏訪頼忠に良候が守る妻籠城を攻めさせたが、良候はこれを撃退した。しかし、秀吉と家康の講和により、木曾氏は家康の傘下に入れられ、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、これに同行した。良利は木曾義昌没後はその子・義利に仕えた。しかし義利が不行状により改易されると徳川家康の家臣となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の石川貞清により犬山城に拘禁されたが、子・良勝が武功を挙げたことにより、美濃の一万六千二百石を与えられた。

慶長7年11月20日、死去。享年59。子孫は尾張藩付属となり代々、木曽谷代官となった。

脚注[編集]

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』第627
  2. ^ 『恵那郡史』p.154-173
  3. ^ 『木曽考』元亀3年9月26日山村三郎左衛門衛宛信玄書状「飛州の調略別而馳走祝着候、因茲於濃州之内一所可相渡候、名所等可有言上者也、仍如件」
  4. ^ 『中津川市史』P.611

参考文献[編集]