山陰電気

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山陰電気株式会社(さんいんでんき)は、鳥取県米子市にかつて存在した電気会社。

概要[編集]

県西部における電気事業の計画は、すでに明治33年(1900年)ごろから、坂口平兵衛稲田秀太郎によってたてられ、その後さらに案を練り明治39年(1906年)7月に出願、明治40年(1906年)9月に許可を得て、12月に山陰電気株式会社が設立された[1]。発起人は、坂口平兵衛を初めとする、その一族の坂口豊蔵、同武市稲田秀太郎野坂茂三郎門脇重雄、船越清太郎の7人で、取締役社長坂口平兵衛であった。当初の資本金20万円で、その一部を公募したので最初の株主は153人であった[1]水力発電所日野郡旭村に建設された[1]

この発電所は明治42年(1909年)10月に完成し、同月16日から点灯が開始された[1]。この当時の出力は250キロワット、最初の電力供給区域は米子町内のほか、成実村大字西大谷(米子駅前)、福米村大字米原(後藤駅前)、および島根県の安来町だった[1]。同年中に約2000戸に対して約4000灯の電灯が取りつけられた[1]

山陰電気株式会社は、その後も当地方の産業の発達とともに発展し、送電区域の拡張、工業用電力の増大、資本の増資などが行われ、各地域の電気会社を合併しつつ、大正15年(1926年)8月に広島電気と合併するまで存続した[1]

その他[編集]

米子市野坂寛治によれば、

「山陰電気株式会社は明治三十七八年ごろ、坂口平兵衛稲田秀太郎門脇重雄・鷲見康重の諸氏と父茂三郎などが主なる発起者で組織、同四十年十二月創立したのであるが、当時の世間は“アラ、水で電気が起うトイヤ”と目を見張った[2]
この会社のそもそもの始まりは、当時東京帝大を卒業したチャキチャキの工学士野坂康二が(というとヒドクオエライ方のようだが筆者の叔父貴で)水力電気のことを説いて、坂口翁はじめ諸先覚を動かしたのだからトモカク見上げたもので、あたかもよし、東京帝大工科大学教授大岡博士が松江を発して昨夜は東郷池の養生館に一泊されたと何処からか聞き出しソレッとばかり稲田家の前渋定太郎氏がハナ引後押しの人力車を飛ばせて博士を追い、遂に拉致して米子に帰り、大実業家諸賢が鳩首御高説を拝聴して仕事をやろうと決し、さて、日野川はすべてにおいて大に失するからとの教授先生の御教示に従って、安来町の並河理二郎翁の参加を得て、能義郡に河川を物色して資本金二十万円、社長坂口翁をすえて事業に取掛かったのは明治四十年三月であった[3]
(中略)さて、山陰電気は岩鹿の古家にペンキをぬって、天晴れ文明開化の事業と思われるうららかな眺めであった[4]支配人町長を円満辞職した渡辺駛水氏で、技師は永田与吉氏と呼ぶ学士で鵜の池を水源とする第二発電所のプランを立てた人[4]。山電を去って猪苗代水電の副技師に転じてこれを完成した[4]
明治四十一年八月、お盆三日間試験点燈をした。夕方、永田技師が歓喜を全身に漲らせながら狂気の如く飛びまわる姿は、子供上りであった筆者の眼底に今も歴々と焼付けられている[4]。」という。

参考文献[編集]

  • 野坂寛治 『米子界隈』 1969年 225-227頁
  • 『米子商業史』 1990年 134頁

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g 『米子商業史』 134頁
  2. ^ 野坂寛治著『米子界隈』225頁
  3. ^ 野坂寛治著『米子界隈』226頁
  4. ^ a b c d 野坂寛治著『米子界隈』227頁

関連人物[編集]