川内 (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
川内
軽巡川内
軽巡川内
基本情報
建造所 三菱造船長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 二等巡洋艦(軽巡洋艦)
級名 川内型
艦歴
発注 1920年計画
起工 1922年2月16日[1]
進水 1923年10月30日[2][注釈 1]
竣工 1924年4月29日[1]
最期 1943年11月2日沈没
除籍 1944年1月5日
要目(竣工時)
基準排水量 5,195英トン
常備排水量 5,595英トン
全長 162.15 m
最大幅 14.2 m
吃水 4.8 m (常備)
主機 三菱パーソンズ式オールギアードタービン(高低圧)4基4軸
出力 90,000馬力
速力 35.3ノット
乗員 竣工時定員446名[3]
兵装 50口径14cm単装砲7門
61cm連装魚雷発射管4基8門
40口径8cm単装高角砲2門
九三式機雷56個
装甲 水線64mm、甲板29mm
搭載艇 1機
テンプレートを表示

川内 (せんだい)は[4][5]、14隻建造された大日本帝国海軍5500トン型軽巡洋艦の最終型(3番目)である川内型軽巡洋艦1番艦[6][7]

艦名[編集]

川内の艦名は、2等巡洋艦の命名慣例に従って九州南部を流れる一級河川である川内川(せんだいがわ)にちなんで名づけられた[8]川内は「かわうち」と読むこともあるが、本艦は川内(せんだい)である[9][4]。艦名は海上自衛隊あぶくま型護衛艦せんだい」に継承された。

艦歴[編集]

初期[編集]

大正時代の日本海軍は7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[10]1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻に加古(佐世保工廠で建造予定)、那珂(横濱船渠〃)、川内(長崎三菱造船所〃)、神通(神戸川崎造船所〃)の艦名が与えられた[4]。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された[11]1922年(大正11年)2月16日、本艦は三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて起工[2]。同年3月、姉妹艦加古はワシントン軍縮会議のため建造中止となり[12]、10月9日附で一等巡洋艦加古として神戸造船所で建造されることに変更された[13]。これをもって同艦は二等巡洋艦から一等巡洋艦に艦種変更、二等巡洋艦から除籍された[14]

川内は1923年(大正12年)10月30日に進水した[2]1924年(大正13年)4月29日竣工[2]佐世保鎮守府[15]。川内に先行して建造が進んでいた那珂は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災、建造最終段階の船体は大損害を受けてしまう[16][17]。このため竣工は1925年(大正14年)11月30日までずれこみ[18]、本型ネームシップは川内に変更された。

1924年5月10日、第二艦隊第五戦隊に編入[15]。12月1日、予備艦となる[15]。上海の情勢悪化に伴い、「川内」と「五十鈴」は1927年3月3日に第一遣外艦隊に編入され、「川内」は佐世保特別陸戦隊を、「五十鈴」は横須賀特別陸戦隊を乗せて上海へと向かった[19]。9月10日に「川内」は予備艦となり、9月13日に佐世保入港[15]。1929年11月30日、第一艦隊第三戦隊に編入[15]。1930年12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[15]。1931年12月1日、予備艦となる[15]。1933年6月から1934年初頭にかけて佐世保工廠で改装工事を実施[20]。呉式二号三型射出機の装備や滑走台の撤去等がなされた[20]。1933年11月15日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[15]。1934年11月15日、予備艦となる[15]。この時期、友鶴事件発生に伴う復元性能改善工事や、機関部の特定修理等が行われた[21]。1935年11月15日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[15]。1936年12月、第四艦隊事件発生に伴う船体補強工事を受ける[22]

1937年に発生した第二次上海事変では巡洋艦出雲と共に中華民国軍を撃退するなど重要な役割を果たした。その後、第一水雷戦隊旗艦として日中戦争における中国南部への日本軍の輸送を掩護した。

1938年8月1日、第三艦隊第一水雷戦隊に編入[15]。12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[15]

1939年(昭和14年)11月15日、それまで川内は第一水雷戦隊(川内、第2駆逐隊《村雨、夕立、五月雨、春雨》、第21駆逐隊《初春、若葉、子日、初霜》、第24駆逐隊《海風、江風、山風、涼風》)旗艦として行動していたが、一水戦旗艦は長良型軽巡6番艦阿武隈に変更され、川内は修理を兼ねて特別役務艦となった[23]

1940年5月1日、第一艦隊第三水雷戦隊に編入[15]

南方作戦[編集]

太平洋戦争緒戦では第三水雷戦隊の川内と第十二駆逐隊、第十九駆逐隊、第二十駆逐隊(駆逐艦1隻は除く)は第一掃海隊および第十一駆潜隊とともに馬来部隊(指揮官は南遣艦隊司令長官小沢治三郎)の護衛隊(指揮官は第七戦隊司令官栗田健男少将)第一護衛隊(指揮官は第三水雷戦隊司令官)を編成し、マレー半島への上陸作戦に参加した[24]。第三水雷戦隊は第七戦隊と共に栗田少将に率いられて11月29日に三亞に進出した[25]第25軍先遣兵団を乗せた船団や川内などは12月4日に三亞から出撃[26]。12月7日、船団は目的地ごとに分かれ、川内は第十九駆逐隊などと共にコタバル方面へ向かう船団(淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸)を護衛した[27]。12月8日に上陸が行われたが、爆撃を受けて淡路山丸は炎上し、綾戸山丸と佐倉丸も被弾した[28]。そのため淡路山丸を残し、他は避退[29]。川内はシンゴラへ向かい、他はパタニへ向かった[30]

橋本少将はコタバル再上陸実行を決断[31]。綾戸山丸と佐倉丸を川内や駆逐艦10隻などが護衛して再びコタバルへと向かい、12月9日に再上陸が行われた[32]。川内は撃墜されたイギリス軍機の乗員2名を収容し、また修理支援のため佐倉丸に工作隊を送った[33]。同日中に揚陸は終わり、川内などはコタバルを離れた[34]

12月8日に戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスの2隻を中心とするイギリス艦隊がシンガポールから出撃し、12月9日に潜水艦伊号第百六十五潜水艦がこれを発見した[35]。小沢中将は水上部隊を集結させて夜戦を行なおうとし、第三水雷戦隊と軽巡洋艦鬼怒由良の第七戦隊への合流を命じた[36]。しかし、イギリス艦隊反転に伴い、第三水雷戦隊はプロコンドル島での補給が命じられ、そこへ向かった[37]。また、川内は不時着していた重巡洋艦鈴谷搭載機を揚収した[37]。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは12月10日のマレー沖海戦で基地航空隊の攻撃により撃沈された。

マレー沖海戦より前に馬来部隊の編制は変更されており、川内、第十九駆逐隊、第二十駆逐隊(駆逐艦1隻は除く)、練習巡洋艦香椎などとなった第一護衛隊(指揮官は第三水雷戦隊司令官)は12月13日から第二次マレー上陸に参加した[38]。船団や川内などは12月13日にカムラン湾から出撃[39]。船団は途中で二分され、川内は香椎などとともにシンゴラ、パタニ方面へ向かう方を護衛した[40]。船団は12月16日にそれぞれの目的地に到着し、揚陸が開始された[40]。12月19日、コタバルの北東10海里で川内の九四式水偵はオランダの潜水艦O20を発見して60kg爆弾2発を投下し、続いて駆逐艦などが爆雷攻撃を行った[41]。同日夜浮上したO20は駆逐艦浦波と交戦して沈没した[42]。川内などはそれより前にコタバルを離れていた[43]

次いで第一護衛隊(指揮官は第三水雷戦隊司令官)は第三水雷戦隊(駆逐艦9隻除く)、掃海艇2隻、駆潜艇1隻となり、クワンタン上陸作戦に参加することになった[44]。川内と駆逐艦2隻は上陸部隊を乗せた輸送船を護衛して12月25日にサンジャックからシンゴラへ向かい、12月27日に到着した[45]。しかし、この作戦は中止となった[46]。川内は12月29日にシンゴラを離れ、12月31日にカムラン湾に着いた[47]

次に、エンドウ、メルシン上陸作戦が実施されることになり、川内などもこれに参加することとなった[48]。第一護衛隊(指揮官は第三水雷戦隊司令官)は川内、第十一駆逐隊、第二十駆逐隊、第一掃海隊、第十一駆潜隊、、海防艦占守、音羽丸、留萌丸、特設監視艇6隻となった[49]。第一護衛隊はまず1942年1月9日から1月16日にかけて第十八師団主力を運ぶ船団を萬山群島からカムラン湾まで護衛した[50]。しかし、陸軍部隊が陸路エンドウに迫ったこともありこの作戦も中止となった[51]。作戦中止に伴い、第18師団主力はシンゴラへ揚陸されることになった[52]。また、その後の航空作戦上、航空燃弾のエンドウへの輸送が必要であったことから[51]、シンゴラから輸送船2隻がエンドウへ向かうこととなった[52]。第一護衛隊から占守と特設監視艇2隻が除かれた[53]。エンドウへ向かう輸送船2隻は1月24日にシンゴラから出発[54]。一方、第一護衛隊主力は1月23日にプロコンドル島から出撃し、川内は1月25日に船団に合流した[54]。1月26日、船団は泊地に投錨して揚陸が開始された[55]。1月27日未明、イギリスの駆逐艦サネットとオーストラリアの駆逐艦ヴァンパイアが泊地を襲撃したが撃退され、サネットが沈んだ(エンドウ沖海戦)。海戦中、川内も敵駆逐艦に対して砲撃を行っている[56]。川内は第十一駆逐隊(駆逐艦1隻除く)、駆逐艦朝霧とともに輸送船1隻を護衛して1月28日にエンドウを離れた[57]。輸送船はテンゴル島付近まで護衛し、川内などは1月30日にカムラン湾に着いた[58]

次の作戦は南部スマトラの攻略で、第三水雷戦隊(駆逐艦8隻を除く)は第一掃海隊、第十一駆潜隊(駆潜艇1隻を除く)とともに先遣隊船団護衛を行なう第一護衛隊となった[59]。川内と駆逐艦4隻は陸軍先遣隊船団(輸送船8隻)を護衛して2月9日にカムラン湾から出撃した[60]。また、2月10日には主隊(重巡洋艦5隻、軽巡洋艦由良など)他が、2月11日には陸軍主力船団がそれぞれ出撃した[61]。2月12日、小沢中将はシンガポール方面からの脱出部隊攻撃を行うことを決めた[62]。川内は由良、第七戦隊第一小隊、第十一駆逐隊、第十二駆逐隊とともにシンケップ島東方へと向かった[62]。2月13日、川内と由良は3000トン級特設巡洋艦らしきもの1隻撃沈を報じた[63]。これは特設掃海艇ヤラク(75総トン)の可能性がある[64]。ヤラクは日本巡洋艦3隻と駆逐艦1隻に砲撃されて大破し、2月16日に沈んだ[65]、とされる[64]。2月14日、川内と第十一駆逐隊第一小隊は船団護衛に戻った[63]。2月15日、船団は泊地に到着し、上陸が開始された[66]。同日、スマトラ西方を北上する敵艦隊(カレル・ドールマン少将率いる重巡洋艦1隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)が発見される[67]。川内などは主隊への合流を命じられた[68]。しかし、敵艦隊は航空攻撃を受けると撤退した[69]。2月16日、川内はイギリス哨戒艇を撃破し、イギリス監視艇を臨検後ムントクへ回航した[70]。また、駆逐艦吹雪とともにイギリスタンカーを捕獲した[70]

この後、川内はシンガポール周辺やマラッカ海峡の水路啓開を支援し、2月27日に重巡洋艦鳥海などとともにセレター軍港に入港した[71]。 3月は北部スマトラ攻略作戦やアンダマン攻略作戦に参加した[72]。 空母龍驤が活躍したベンガル湾機動作戦では川内以下第三水雷戦隊は後方警戒隊だったため、特に戦果はなかった。4月末、川内は補修のため佐世保へ帰投した。

ミッドウェー海戦[編集]

1942年(昭和17年)5月29日、ミッドウェー島攻略作戦に当たり、第三水雷戦隊(軽巡川内《旗艦》、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》、第20駆逐隊《天霧、夕霧、朝霧、白雲》)は連合艦隊司令長官山本五十六大将直率の主力部隊に所属した[73][74]。 主力部隊の軍隊区分は、戦艦部隊(第一戦隊《大和長門陸奥》、第二戦隊《戦艦扶桑山城伊勢日向》)、巡洋艦戦隊(第九戦隊《北上大井》)、水雷戦隊(三水戦司令官、第三水雷戦隊、第一水雷戦隊《第24駆逐隊《海風、江風》[75]、第27駆逐隊〔時雨、白露、夕暮〕》)、空母隊(鳳翔)、特務隊(千代田艦長、水上機母艦《千代田日進》)、第一補給隊(駆逐艦有明、給油艦《鳴戸、東栄丸》)、第二補給隊(駆逐艦山風、給油艦《さくらめんて丸、東亜丸》)というものである[74][76]

第一艦隊司令長官高須四郎中将指揮下の警戒部隊分離後の主隊軍隊区分は、本隊(大和、陸奥、長門)、警戒隊(軽巡《川内》、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》)、空母隊(空母鳳翔、駆逐艦夕風[77]、特務隊(千代田[78]、日進[79])、第一補給隊(有明、鳴戸、東栄丸)であった[80][81]

主力部隊を護衛する水雷部隊は、第三水雷戦隊と第一水雷戦隊の寄せ集めで、各艦・各隊が内海西部に集合したのは出撃直前の5月下旬だった(川内は5月25日に内海西部集合)[82]。つまり艦隊としての総合訓練も、水雷戦隊としての訓練もできなかった[82]。連合艦隊参謀長宇垣纏少将(大和座乗)は陣中日誌戦藻録(5月29日分)に水雷部隊について「近来艦隊行動なく、直衛たる水戦の運動誠に心許なく油断を許さず。夜間配備に転換も、子供を寝床に一々連れて行くが如し」と記述している[82][83]

5月29日朝、攻略部隊本隊(第二艦隊長官)と主力部隊(連合艦隊長官)は内海西部を出撃する[84][83]。悪天候に見舞われ、巡洋艦や駆逐艦は波を被る状態だった[83]。 6月2日、連合艦隊司令部(大和)は給油艦から水雷部隊への補給を命じるが手間取り、宇垣参謀長は「骨の折れる子供共なり」と記述した[85]。 6月3日、三水戦2隻(川内、磯波)は視界不良の中で主力部隊から落伍・行方不明となる[86][87]。鳳翔所属九六式艦上攻撃機が捜索したところ、主力部隊前方43浬地点を航行中のところを発見され、連れ戻された[87][88]。 6月4日、警戒部隊(第一艦隊司令長官高須四郎中将)は主力部隊から分離、主隊(第一戦隊、第三水雷戦隊、鳳翔他)はミッドウェー島に向かった[89]。 6月5日、連合艦隊は南雲忠一中将率いる第一航空艦隊(空母赤城加賀蒼龍飛龍基幹)の後方600海里の位置に留まり、決定的な戦闘に貢献できなかった[90][91]

攻略部隊主隊(第二艦隊)や南雲機動部隊残存部隊合同後の6月7日夕刻、主力部隊護衛中の第三水雷戦隊や第十戦隊の駆逐艦は、在庫燃料半分以下になった[92]。連合艦隊司令部は第一戦隊(大和、陸奥、長門)・第三戦隊(比叡、金剛、榛名、霧島)から駆逐艦への燃料補給を発令するが、悪天候のため難航[92]。宇垣参謀長(大和座乗)は戦藻録に「時已に暗黒視界不良、而も敵潜の感あり、附近に散在する事確実、速力は増せず変針は出来ず而も四〇度の梯陣、子供を横腹に抱へて添乳しながらの一戦隊、三戦隊の進航は、難事中の難事只諦めて実行する以外何物も無し。三戦隊は矢張り上手にて此暗黒の中次の子供にも哺乳せり。」と、艦隊航行中における水雷戦隊駆逐艦への燃料補給の難しさを記述している[92]。 日本本土へ退避中の6月9日日付変更後、第一戦隊(大和、陸奥、長門)直衛中の三水戦駆逐艦(浦波、磯波)が衝突事故を起こす[93][94]。川内(旗艦)は現場に残り、処置を命じられた[93]。 6月11日、主力艦隊から落伍していた2隻(川内、浦波)は鳳翔艦攻によって発見され、同機誘導下で主力部隊に行動した[93][95]。6月14日、主力部隊(第三水雷戦隊含む)は呉に帰投した[93]

1942年(昭和17年)7月中旬、日本海軍はインド洋方面通商破壊作戦「B作戦」を発動[96]。7月15日、第三水雷戦隊は南西方面艦隊へ配属された。同作戦参加戦力は第七戦隊(司令官西村祥治少将:重巡洋艦熊野鈴谷)、第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊)、第二水雷戦隊(第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第15駆逐隊《黒潮、親潮、早潮》)等によって構成され、7月31日にマレー半島西岸メルグイに集結する[96]。8月8日、ガダルカナル島の戦いが始まった事によりインド洋での作戦は中止され、各隊・各艦はダバオを経由してトラック泊地やソロモン諸島へ向かった[96][97]。第三水雷戦隊はマカッサルダバオトラック諸島を経由してソロモン海へ進出した。

ガダルカナル島の戦い(八月〜九月)[編集]

8月24日、第三水雷戦隊(川内、天霧夕霧朝霧白雲)は輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸、〔指揮官川口清健陸軍少将、川口支隊主力約5000名〕)を護衛してトラック泊地を出撃、ガ島にむけて南下を開始した[98]。同時期に生起した第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤・駆逐艦睦月・輸送船金龍丸を喪失、輸送船団を護衛していた姉妹艦神通第二水雷戦隊旗艦)も中破した(トラック泊地へ回航)[99][100]。輸送船団によるガ島突入は中止され、駆逐艦による強行輸送作戦がはじまる[101]。 上層部の命令を受けて第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、白雲)は輸送船(佐渡丸、浅香山丸)から陸兵を受け入れると、川内と分離・先行してガ島突入を目指す[101]。だがショートランド諸島(ショートランド泊地)からガ島突入を企図する第24駆逐隊(海風、江風、磯風)との合同作戦に手間取るうち、8月28日に空襲を受け朝霧沈没、夕霧と白雲大破、駆逐隊司令山田雄二大佐が戦死、第20駆逐隊は大打撃を受けてしまった(10月1日附で解隊[102][103]。川内は輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)を護衛し、一旦ラバウルへ向かった[101]

増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官は重巡衣笠を臨時の旗艦としてブーゲンビル島ブイン近くのショートランド諸島(ショートランド泊地)から指揮をとっていたが[104][100]、作戦方針をめぐって陸軍や第八艦隊(司令長官三川軍一中将)と対立した[105][106]。8月31日午前8時、第三水雷戦隊(川内、第19駆逐隊《浦波敷波》)および第17駆逐隊《浦風谷風》)がショートランド泊地に到着[107][106]。これをもって田中少将は増援部隊の任務を解かれ、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将がその任を引き継いだ[108][109][106]

これ以降、川内はソロモン諸島で活動を行った。第三水雷戦隊を基幹とする増援部隊はブーゲンビル島ショートランド泊地からガダルカナル島への強行輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に従事した。 9月4日、増援部隊指揮官直率隊(川内、海風江風涼風)、夕立隊(夕立初雪叢雲)、浦波隊(浦波、敷波、有明)はガ島輸送のため、それぞれショートランド泊地を出撃[110]。川内隊は大発動艇のガ島輸送作戦(蟻輸送)を掩護した[111]。夕立隊は輸送終了後にルンガ泊地へ突入し、アメリカ軍輸送駆逐艦2隻を撃沈している[112][110]

9月8日午前3時、アメリカ軍は輸送駆逐艦2隻・特設哨戒艇2隻(漁船改造)を投入してアメリカ海兵隊2個大隊をガ島に上陸させ、ガ島ヘンダーソン飛行場のため展開中の日本陸軍部隊に打撃を与えた[113]。陸軍より『八日0800頃巡洋艦一隻駆逐艦六隻輸送船四隻『タイボ』岬附近ニ上陸ヲ開始セリ』の報告を受け、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は増援部隊(三水戦)等にアメリカ軍輸送船団の攻撃を指示する[113]。川内および駆逐艦部隊(白雪吹雪陽炎天霧夕暮)はガ島ルンガ泊地に突入[114][113]。だが、アメリカ軍輸送船団はすでに存在せず、掃海艇1隻を被弾座哨させたにとどまった[113]

9月12日、三水戦司令官ひきいる艦艇奇襲隊(川内、敷波、吹雪、涼風)はガ島ルンガ泊地に突入したが米艦艇を認めず、ヘンダーソン飛行場を砲撃した[115][116]。このほかにも外南洋部隊主力艦(鳥海、青葉、古鷹、衣笠)と囮部隊が行動していたが、日本陸軍の飛行場攻撃延期により、各隊はガ島から距離をとった[116]。ガ島飛行場攻撃の展開に不安をもった日本陸軍(第十七軍)は、輸送船佐渡丸(護衛、駆逐艦)に乗ってラバウルに到着した陸軍青葉支隊を、ただちにガ島へ投入する[117]。増援部隊各艦はガ島輸送を兼ねてショートランド泊地を出撃、ガ島へ突入することになった[117]。9月14日夜、駆逐艦4隻(、涼風、吹雪)はガ島輸送を実施[118][117]。奇襲隊(川内、海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雪)もガ島へ向かったが、ヘンダーソン飛行場健在の情報により昼間のガ島揚陸は中止され、川内はショートランドへ戻った[117]。このため駆逐隊のみでガ島輸送を実施した[119][117]

ガ島総攻撃に失敗した日本軍は、同島所在陸軍の兵力・物資・弾薬・重火器・糧食を増強することになり増援部隊(第三水雷戦隊および編入部隊・艦)は引続きガ島強行輸送作戦に従事した[120][121]。 9月18日、増援部隊指揮官直率隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)はアメリカ軍輸送船団(ガ島守備隊報告によると輸送船6、巡洋艦3、駆逐艦10)を攻撃するためショートランド泊地を出撃、各隊に合流を命じた[121]。しかしガ島守備隊よりアメリカ軍輸送船団全隻撤収の報告を受け、輸送隊(海風、江風、涼風、嵐)は予定とおり揚陸を実施[122]。川内以下直率隊はルンガ泊地桟橋付近を砲撃したが、効果は不明だった[123][121]

ガダルカナル島の戦い(十月〜十一月)[編集]

10月11日、ガダルカナル島飛行場砲撃に向かった外南洋部隊支援隊指揮官五藤存知第六戦隊司令官指揮下の飛行場砲撃隊(第六戦隊《青葉古鷹衣笠》、第11駆逐隊第2小隊《吹雪初雪》)は米艦隊に迎撃され、2隻(古鷹、吹雪)を喪失した(サボ島沖海戦)[124]。 並行して実施された水上機母艦2隻(日進千歳)、駆逐艦6隻(秋月綾波白雪叢雲朝雲夏雲)による輸送作戦も[125]、第六戦隊救援にむかった駆逐艦2隻(叢雲、夏雲)を空襲により喪失した[126]。 10月12日午前2時、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は米艦隊の脅威にさらされた日進輸送隊を収容するため直率隊(川内、由良、天霧、浦波、磯波、時雨、白露)をひきいてショートランド泊地を出撃した[127][128]。橋本司令官は日進隊と合流後、4隻(由良、天霧、時雨、白露)に日進隊の護衛を命じ、自身は第9駆逐隊・第11駆逐隊救援のためガ島方面へ向かった[129]。川内隊は朝雲(第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐)と白雪(第11駆逐隊司令杉野修一大佐)と合流、このあと2隻(朝雲、白雪)のみ航行不能となった叢雲救援のために引き返し、同艦を処分した[129]。 三水戦の出撃に並行しておこなわれた甲標的母艦千代田、軽巡龍田の出撃(ガ島甲標的基地建設)は中断された[130]

10月13日夜間、第三戦隊司令官栗田健男少将の指揮下、金剛型戦艦2隻(金剛榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃が実施された際には、水上偵察機2(川内、由良)が弾着観測を、水偵2(衣笠、古鷹)が照明弾投下機となって艦砲射撃を支援した[131]

10月14日、重巡2隻(妙高摩耶)と第二水雷戦隊(旗艦五十鈴)によるガダルカナル島飛行場砲撃が行われ、この間、軽巡部隊(川内、由良龍田)、駆逐艦部隊(朝雲、白雪《甲標的物件》、)による輸送作戦が行われた[132][133][134]。 並行しておこわなれた千代田、暁のガ島甲標的基地設置は途中で中断された[135]。また外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)がガ島ヘンダーソン飛行場に艦砲射撃をおこなったものの[134]、飛行場の戦力は健在だった。第四水雷戦隊(秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明、夕暮)が護衛する輸送船6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(吾妻山丸、笹子丸、九州丸)が炎上喪失、揚陸した物件もアメリカ軍機の空襲や艦砲射撃で焼き払われてしまったという[136][137]

10月16日、増援部隊指揮官直率の軽巡洋艦戦隊(川内、由良、龍田)と、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦秋月)が指揮する同水雷戦隊第1小隊:秋月・第9駆逐隊(朝雲)・第6駆逐隊()、第2小隊:第2駆逐隊(村雨夕立春雨五月雨)、第3小隊:第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第4小隊:第27駆逐隊(時雨白露有明)によるガダルカナル島輸送作戦(陸兵2159名、野砲6門、速射砲12門、軍需物資)が行われることになった[138]。17日夜、軽巡戦隊はガ島エスペランス岬にて、水雷戦隊はタサファロング岬にて揚陸に成功。231名を救助したが、この中にサボ島沖海戦で沈没した吹雪航海長以下数名が含まれていた[139]。本作戦で由良が米潜水艦グランパス(USS Grampus, SS-207)から雷撃されたが、命中魚雷は不発だったため損害は軽微だった[140][138]

11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡川内から重巡衣笠に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて甲増援隊(旗艦朝雲)と乙増援隊(旗艦浦波)のガ島輸送作戦を支援した[141]。乙増援隊の輸送は成功したが、甲増援隊は揚陸地点の悪天候により一部物資を揚陸できなかった[141]。つづいて増援部隊指揮官(橋本少将)は旗艦を衣笠から浦波に変更し、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)を指揮して11月5日のガ島輸送を実施した[142]。ショートランド泊地帰投後の11月6日、橋本少将は将旗を川内に戻し、同時に増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継いだ[142]。川内以下第三水雷戦隊各艦はトラック泊地へ向かうが、この際、橋本少将はガ島輸送作戦において常に上空直掩にあたったR方面航空部隊(水上機部隊)を訪問し、謝意を述べている[142]

11月中旬、川内以下第三水雷戦隊は第三次ソロモン海戦に参加。11月13日の第1夜戦は後方掩護に留まった。11月15日の第2夜戦における本艦は、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦愛宕)の指揮下で行動した。近藤艦隊の戦力は、戦艦1隻(霧島)、重巡2隻(愛宕《艦隊旗艦》、高雄)、軽巡2隻(川内、長良)、駆逐艦9隻(照月朝雲五月雨白雪初雪浦波敷波綾波[143][144]。橋本司令官は第二部隊/掃蕩隊(川内、浦波、敷波、綾波)を指揮して本隊の前方を進んだ。 これに対し、アメリカ軍の戦力はウィリス・A・リー少将が率いる戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)、米駆逐艦4隻(ウォーク、グウィンベンハム、プレストン)であった[145]。掃蕩隊(川内、浦波、敷波)はワシントンの主砲による砲撃を受けたが、煙幕を張って退避したため命中弾はなかった[146]。分離していた綾波は雷撃後に集中砲撃を受け沈没していった[146]。 また近藤中将(愛宕座乗)は掃蕩隊(川内、浦波、敷波)を敵艦と錯覚し、砲戦魚雷戦用意を発令したが射撃前に味方(川内)と判明している[147]。この後の戦闘で、第四戦隊、第三水雷戦隊、長良隊が発射した酸素魚雷はほとんど自爆し、アメリカの新型戦艦2隻を取り逃がした。掃蕩隊はルンガ泊地に先行して「ルンガ方面敵を見ず射撃可能と認む」と報じたものの、前進部隊指揮官より敵戦艦攻撃命令があって反転する[148]。だが戦果はなかった。 また増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)が護衛していた輸送船団も昼間の空襲で壊滅状態となっており、日本軍のガダルカナル島奪回企図は完全に頓挫した[149]。トラック泊地に戻った川内はしばらく待機した。

昭和十八年前半の行動[編集]

1943年(昭和18年)1月20日、第三水雷戦隊司令部および2隻(川内、白雪)は南東方面部隊に編入された[150]。これは南東方面部隊指揮官草鹿任一第十一航空艦隊司令長官の希望によるもので、ガ島増援輸送で尽力した三水戦司令官橋本信太郎少将にガ島撤退作戦でも活躍してもらうための措置だった[150]。1月24日、川内はラバウルへ進出[150]。26日、橋本少将は第十戦隊司令官小柳冨次少将から増援部隊指揮官の職務を引き継ぐ[150]。橋本司令官は旗艦を白雪に変更してショートランド泊地へ進出、川内はニューアイルランド島カビエンに回航された[150]。同地では外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)の重巡2隻(熊野鳥海)が待機しており、到着と共に西村司令官の指揮下に入った[150]。川内搭載水上機はR方面航空隊に派遣[151]。以後、川内はラバウルやショートランド泊地に停泊してケ号作戦(ガダルカナル島撤退作戦)の支援にあたった[152]

2月中旬、第三水雷戦隊司令官は橋本信太郎少将から木村昌福少将に交替した[153]。橋本少将は海軍水雷学校長に赴任した。木村少将は白雪に乗艦してカビエンに移動し、23日に将旗を川内に掲げた[154]戦史叢書では2月24日にラバウルで橋本と交替としている[155]。ラエ方面陸軍輸送船団護衛任務(第八十一号作戦)のため、木村少将は26日に旗艦を川内より白雪に変更、ラバウルへ向かった[156]。 外南洋部隊の主要艦艇は、指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(旗艦:重巡洋艦青葉)の指揮下[157]、増援部隊指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官指揮下の増援部隊(川内、朝潮荒潮白雪初雪皐月水無月文月長月雪風時津風朝雲峯雲浦波敷波村雨五月雨)という編成である[158]。 だが3月2日-3日のビスマルク海海戦で増援部隊は駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)を喪失、白雪の沈没時に木村少将は負傷してしまった[159]。3月6日附で橋本少将は退任、江戸兵太郎少将が三水戦司令官に任命される[160]。3月23日、新たな三水戦司令官として秋山輝男少将が着任した[161]。 3月25日、第三水雷戦隊に第8駆逐隊が編入されるが[162]、既に朝潮型3隻(朝潮、荒潮、大潮)を喪失して満潮1隻(大破修理中)となっており、同駆逐隊は4月1日附で解隊されている[163]

4月1日の戦時編制改編により第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊《初雪、天霧、夕霧》、第22駆逐隊《文月、皐月、長月、水無月》、第30駆逐隊《三日月望月卯月》)は第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)に配属された[164]。第30駆逐隊は卯月型3隻で再編成されたばかりである[165]。また同日時点で本艦は増援部隊(川内、五月雨、朝雲、第10駆逐隊《秋雲、夕雲、風雲》、雪風、第22駆逐隊《皐月、水無月、長月》、天霧)の旗艦だった[166]

連合艦隊と南東方面艦隊第十一航空艦隊)が『い号作戦』を準備中の4月3日午前3時、青葉がカビエンで空襲を受け被弾した[167]。魚雷誘爆により大破、擱座した[166]。川内による青葉曳航の試みは浸水により失敗[167]。工作艦による応急修理ののち、4月21日の川内による青葉の曳航は成功、25日にトラック泊地へ到着した[168]。なお軽巡長良がカビエンで被弾・大火災を起こし、これを川内が救援したという川内水雷長の回想があるが[169]、当時の長良は第四水雷戦隊旗艦としてトラック泊地を拠点に行動しており、カビエンで被弾・大破した記録はない[170]。 本艦は5月に佐世保へ帰投。三水戦旗艦は、夕張・天霧・長月・新月等が引き継いだ[171]。同地では第24駆逐隊(涼風、江風)等の修理整備や、第134号艦(阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧)の建造をおこなっており、川内の修理もその中で行われた[172][173]。佐世保での改装で川内の5番砲塔(14cm単装砲)は撤去され、3連装25mm高角機銃2基を装備。さらに21型電探を搭載した[174]。改装は6月25日に終わり、トラック泊地へ出動。7月5日に到着、同日中にラバウルへ向かい、7月8日に到着した[175]

ニュージョージア島の戦い[編集]

川内がトラック泊地へ航行中の6月30日、アメリカ軍はカートホイール作戦を発動[176]ニュージョージア島レンドバ島などへ上陸を敢行しソロモン諸島方面の状況は緊迫の度合いを増した(ニュージョージア島の戦い)。当時の川内は外南洋部隊(第八艦隊)麾下の増援部隊(川内、夕張、天霧、初雪、長月、水無月、皐月、三日月、望月、夕凪、松風、浜風)に所属していた[177]。第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将は増援部隊指揮官としてアメリカ海軍と交戦していたが、7月5日-6日のクラ湾夜戦で旗艦の秋月型駆逐艦5番艦「新月」が撃沈された時に戦死、司令官と共に第三水雷戦隊司令部も全滅した[178]。また本海戦で駆逐艦多数(長月〔座礁沈没〕、天霧、初雪、谷風、涼風、望月)が損傷するなど、他の艦艇も被害を受けた[179][178]。増援部隊指揮官の職務を有賀幸作大佐(重巡鳥海艦長)が一時代行。7月7日、伊集院松治大佐(前職、戦艦金剛艦長)が三水戦司令官に就任[178][180]。10日に着任している[181]

7月9日夕刻、鮫島司令長官が率いる水上部隊(重巡鳥海、軽巡川内、警戒隊《雪風夕暮谷風浜風》)、輸送隊(皐月、三日月、松風夕凪)はブーゲンビル島ブインを出撃、コロンバンガラ島輸送には成功したが米艦隊と遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった[182]。 7月12日、今度は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦神通)が増援部隊を指揮して輸送作戦を実施したが、同日夜のコロンバンガラ島沖海戦で神通が沈没、神通の沈没時に第二水雷戦隊司令部も全滅した[183]。 これを受けて、第七戦隊司令官西村祥治少将を指揮官とする夜戦部隊が編制され、7月16日夜および18日夜にラバウルを出撃した[184]。16-17日の出撃は、ブイン大規模空襲により駆逐艦部隊が損害を受け(〔沈没〕初雪、〔小破〕皐月、水無月)、中止された[184]。18日夜ラバウル出撃時の戦力は、第七戦隊旗艦熊野以下主隊の重巡3隻(熊野鈴谷、鳥海)、水雷戦隊(川内、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、水無月、松風)であった[184]。輸送作戦は成功したものの米艦隊は出現せず、逆にコロンバンガラ島沖でPBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"(夜間哨戒機仕様)に誘導されたアメリカ軍機の夜間空襲を受けた[185]米海兵隊TBFアヴェンジャー雷撃機により熊野に魚雷1本が命中、駆逐艦夕暮が轟沈、救援に向かった清波B-25爆撃機により撃沈され、2隻(夕暮、清波)は全乗組員が戦死した[184]

7月27日深夜、ニューブリテン島ツルブへの輸送任務に従事していた駆逐艦2隻(三日月有明)がグロスター岬で座礁、深刻な損傷を受けた[186][187]。28日午前2時、3隻(川内、皐月、望月)は救援のためにラバウルを出撃するが、途中で反転し帰投[188]。かわりに駆逐艦秋風が現場へ向かい、沈没・放棄された2隻(三日月、有明)より生存者を収容している[189]

8月上旬、ニュージョージア島の陥落が現実的となり、日本軍はコロンバンガラ島及び周辺地域に増援兵力を送ることにした[190]。外南洋部隊は増援部隊指揮官(三水戦司令官)に駆逐艦4隻(萩風江風時雨)によるコロンバンガラ島輸送、川内によるブイン輸送を命じた[190]。8月6日午前3時、川内(人員379名、物資97トン)はラバウルを出撃、途中でコロンバンガラ輸送隊と合流して北上したのち、途中で分離[191]。川内は夜になってブインに到着、物資を揚陸した[191]。だがコロンバンガラ輸送隊はフレデリック・ムースブルッガー英語版中佐率いるアメリカ軍駆逐艦6隻に奇襲されて3隻(萩風、嵐、江風)を喪失、時雨のみ生還した(ベラ湾夜戦[192][193]。合流した2隻(川内、時雨)はラバウルへ帰投した[191]

8月15日、アメリカ軍はベララベラ島へ上陸を開始、日本軍は同方面へ緊急輸送を実施することになり伊集院三水戦司令官は旗艦を川内から駆逐艦漣に変更した[194][195]。夜戦隊(浜風磯風時雨)を率いて同島へ向かい、17日夜にトーマス・J・ライアン大佐率いるアメリカ軍駆逐艦4隻と交戦(第一次ベララベラ海戦)、輸送隊に被害はあったが作戦はおおむね成功した[194]。 8月22日より駆逐艦4隻(時雨、浜風、磯風、漣)は第七聯合特別陸戦隊(サンタイサベル島)レカタ撤退及びブイン転進作戦「E作戦」に従事するが、アメリカ軍機の妨害や敵艦隊の動向不明によりラバウルへ撤退した[194][196]。8月25日からの第2次作戦では、伊集院司令官は軽巡川内に座乗、直率3隻(川内、漣、松風)を牽制陽動部隊としてショートランド島南方海面を行動する[194]。3隻(時雨、浜風、磯風)はレカタにて陸戦隊の収容に成功するも空襲により浜風が小破、各艦はラバウルに帰投した[194][197]。 8月28日、七聯特転進隊は3隻(時雨、浜風、磯風)から2隻(川内、漣)へ移動、2隻は同部隊をブインへ輸送した[194]。なお第三水雷戦隊司令部は本艦について『昼間対空兵装ナキ川内ヲ以テ敵小型機行動圏(ルッセル島ノ300浬以内)ヲ四時間モ行動スルハ危険極リナキ』と評価している[198]

この後、伊集院第三水雷戦隊司令官は9月下旬〜10月初頭のコロンバンガラ島撤退作戦(セ号作戦)や、10月上旬のベララベラ島撤退作戦(第二次ベララベラ海戦)で陣頭に立ちアメリカ艦隊と交戦しているが、出撃のたびに川内から駆逐艦秋雲に乗り換えており、川内がアメリカ軍と交戦する機会はなかった。10月13日、第五戦隊(妙高、羽黒)、駆逐艦2隻(長波、涼風)がラバウルに到着、南東方面艦隊の一員となる[199]。10月17日、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、南東方面部隊命令作第30号により連合襲撃部隊(第五戦隊・第三水雷戦隊を基幹とする水上部隊)を外南洋部隊(第八艦隊)からのぞき、南東方面艦隊直率とする兵力部署改定を実施した[200]

ブーゲンビル島沖海戦[編集]

アメリカ軍のブーゲンビル島侵攻に伴い11月2日に生起したブーゲンビル島沖海戦で川内は、米艦隊の砲撃雷撃を受けて沈没した。経過は以下の通りである。

10月27日、連合軍約6300名がトレジャリー諸島モノ島へ上陸、海兵隊725名がチョイセル島へ上陸した[201]。連合軍の目標はブーゲンビル島タロキナ岬への上陸と飛行場建設であって、モノ島上陸はその前哨戦であった[201][202]。アメリカ軍の水上戦力は、輸送船団(駆逐艦11、輸送船12)、第39任務部隊(アーロン・S・メリル少将:巡洋艦4、駆逐艦8)、第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将:空母2隻《サラトガプリンストン》、護衛艦)で、アメリカ軍からみれば『不充分』であったという[202]。 同日の南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)直率水上部隊(連合襲撃部隊:指揮官第五戦隊司令官大森仙太郎少将)は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒、長良)、第二襲撃部隊(川内、皐月、文月、卯月、夕凪)という編制だった[203]。襲撃部隊の出撃は草鹿中将の下令により中止、同日附で軽巡長良は連合襲撃部隊からのぞかれトラックへ回航され、11月1日附で第四艦隊に編入されている[203]。 10月31日、タロキナへ向かうアメリカ軍輸送船団の発見により連合襲撃部隊(妙高、羽黒、川内、文月、水無月、時雨、五月雨、白露)は14時30分にラバウルを出撃、ブーゲンビル島方面へ向かうも、アメリカ軍輸送船団まで約30浬とせまりながら同船団を発見できなかった[203]。11月1日、輸送任務中の卯月はブカ島西方でメリル少将隊(巡洋艦4、駆逐艦8)と遭遇、砲撃を受けながらも避退に成功し「重巡2-3隻、駆逐艦5隻以上」を報告している[203]。連合襲撃部隊はメリル隊と約20〜30浬ですれ違い、双方とも敵艦隊を発見できなかった[203]。同日10時20分、連合襲撃部隊はラバウルに帰着した[203]

11月1日午前中、第八方面軍はブーゲンビル島タロキナへの逆上陸を企図し、南東方面艦隊と協議した結果、第一航空戦隊の基地物件を輸送してラバウルに到着したばかりの各艦(軽巡《阿賀野》、駆逐艦《大波、長波、若月、初風》)をもって第三襲撃部隊を編制した[204]。連合襲撃部隊もラバウル帰投後ただちに燃料補給と打ち合わせを行い、総指揮官大森少将/第五戦隊司令官、連合襲撃部隊本隊(妙高、羽黒)、第一警戒隊/第二襲撃隊(川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊/第三襲撃隊(阿賀野、長波、初風、若月)、輸送隊(天霧、夕凪、文月、卯月、《水無月のみ単独ブカ島輸送》)という戦力が揃う[205]。各部隊は15時30分にラバウルを出撃したが、輸送隊の小発動艇搭載に時間がかかり、夜間揚陸作戦成功の見込みがなくなった[205]。本艦は19時45分と20時53分に爆撃(B-24)を受けたが、被害はなかった[206]。だがアメリカ軍に発見されたことで逆上陸の可能性は消え、草鹿中将は輸送部隊(天霧、卯月、文月、夕凪)のラバウル帰投と、連合襲撃部隊のアメリカ軍輸送船団襲撃を命じた[207]。一方、連合軍哨戒機も日本艦隊の動向を通報[208]。アメリカ軍輸送船団を護るため、メリル少将の第39任務部隊(巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)はタロキナ岬沖へ進出、日本艦隊との対決航路を取った[209]

11月2日(月齢3、海上静穏、半晴、視界8-15km)の日付変更時点で、連合襲撃部隊は大森少将(旗艦妙高)の本隊/第五戦隊(重巡妙高羽黒)が中央、第二襲撃部隊(指揮官伊集院三水戦司令官:軽巡川内、第27駆逐隊《時雨五月雨白露》)が本隊左前方約5km、第三襲撃部隊(指揮官大杉守一第十戦隊司令官:軽巡阿賀野、駆逐艦《長波初風若月》)が本隊右前方を航行、そして妙高・羽黒偵察機の触接によりアメリカ軍メリル隊の方向へ航行していた[208]。 0045、ほぼ同時に2隻(川内、時雨)が110度方向9000mに敵艦隊発見を報告[210][211]、5分後には主体(妙高、羽黒)が照明弾を発射してブーゲンビル島沖海戦(アメリカ軍呼称エンプレス・オーガスタ湾海戦)が始まった[208]。メリル隊は連合襲撃隊の左前方に位置しており、必然的に最も近い距離にいた第二襲撃隊および本艦が最初に集中砲火を浴びた[208][212]。0100前後には主機械が停止、舵故障、航行不能となった[213]。 川内指揮下の第27駆逐隊は各艦魚雷8本を発射後、0052に至近弾を受けた白露が不意の運動で五月雨と衝突、両艦とも20ノット以上を出せなくなった[214][208]。第27駆逐隊司令原為一大佐(司令駆逐艦時雨)は、先頭艦(川内)が右旋回したため時雨も転舵、その混乱により2隻(五月雨、白露)が衝突したと回想している[215]。また被弾・炎上して航行不能となった川内から伊集院司令官移乗のため時雨に対し接近命令が出たが、戦闘中のためあえて黙殺(川内に接近すると時雨も巻き添えとなるため)、戦闘終了後に救助することに決定したという[215]。 敵艦隊攻撃よりも回避運動を優先していた主隊と第三襲撃部隊は0107に妙高と初風が衝突し、初風は落伍した[208]。この間、アメリカ軍は駆逐艦フートが魚雷命中により艦尾を吹き飛ばされた。川内が発射した魚雷が命中したとする文献もある[216]。 0116、主隊(妙高、羽黒)はメリル隊にむけ初めて射撃を開始、同時に雷撃をおこなうが、メリル隊に深刻な損害を受けた艦はなかった[208]

0134、大森司令官は退却を下令、アメリカ艦隊は敗走する日本艦隊を追撃した[208]。川内は円運動を描きながら射撃を続けていたが、バーナード・L・オースティン中佐の第46駆逐隊(サッチャー、コンヴァース)に発見され、攻撃を受けた[217]。米駆逐艦2隻は魚雷8本を発射して2回の爆発音を確認した[218]。第46駆逐隊が去ったあと、今度はアーレイ・バーク大佐率いる第45駆逐隊(チャールズ・オースバーン、ダイソン、スタンリー、クラクストン)が到着し、砲撃して撃沈したという[217]。このあとアメリカ軍駆逐隊は漂流する初風を撃沈して戦場を去った[219]。本海戦でアメリカ軍駆逐隊は魚雷52本を発射、うち2本が川内に命中したとみられる[218]。 0334、戦場離脱中の白露は炎上する艦艇1隻を認めた[220]。0530、戦場に取り残されていた川内は右舷に傾斜して沈没した[221][222]。沈没地点南緯06度10分 東経154度20分 / 南緯6.167度 東経154.333度 / -6.167; 154.333。荘司喜一郎大佐(川内艦長)は脱出せず行方不明(戦死)、第三水雷戦隊司令部はカッター2隻に乗り脱出した[223]

大森少将は損傷艦乗員救助のための潜水艦派遣を要請し、派遣された呂104によって11月3日午後に伊集院司令官以下、川内に乗艦していた者75名が救助され、同潜水艦は11月5日にラバウルに着いた[224]。他に川内の乗員47名と三水戦要員4名がセント・ジョージ岬に自力でたどり着き生還した[225]。生存者311名、戦死185名(艦長含む)と記録されている[223]

1944年(昭和19年)1月5日、川内は二等巡洋艦川内型[226]、 帝国軍艦籍[227]、 それぞれから除籍された。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』162-164頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 亥角喜蔵 大佐:1923年12月1日 - 1924年4月29日

艦長[編集]

  1. 亥角喜蔵 大佐:1924年4月29日 - 1924年12月1日
  2. 伊地知清弘 大佐:1924年12月1日 - 1925年7月2日
  3. 中原市介 大佐:1925年7月2日 - 1925年11月20日
  4. 今川真金 大佐:1925年11月20日 - 1926年11月1日
  5. 相良達夫 大佐:1926年11月1日 - 1927年12月21日
  6. 伴次郎 大佐:1927年12月21日 - 1928年3月15日
  7. 間崎霞 大佐:1928年3月15日 - 1928年12月10日
  8. 和田専三 大佐:1928年12月10日 - 1929年5月1日
  9. 野原伸治 大佐:1929年5月1日 - 1929年11月30日
  10. 三木太市 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  11. 岸本鹿子治 大佐:1930年12月1日 - 1931年9月14日
  12. 後藤輝道 大佐:1931年9月14日 - 1932年12月1日
  13. 高崎武雄 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  14. 鈴木田幸造 大佐:1933年11月15日 - 1934年7月4日
  15. 吉田庸光 大佐:1934年7月4日 - 1934年11月1日
  16. 中村一夫 大佐:1934年11月1日 - 1935年11月15日
  17. 中島寅彦 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  18. 山本正夫 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日[228]
  19. 木村進 大佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
  20. 伊崎俊二 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
  21. 久宗米次郎 大佐:1939年11月15日 - 1941年7月25日
  22. 島崎利雄 大佐:1941年7月25日 -
  23. 森下信衛 大佐:1942年4月25日 - 1943年5月20日
  24. 荘司喜一郎 大佐:1943年5月20日 - 1943年11月2日戦死

同型艦[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1060-1061、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲では、大正12年11月30日進水としているが間違いと思われる。

出典[編集]

  1. ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲。
  2. ^ a b c d #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『川内|二等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-2-16|12-10-30|13-4-29|(艦装備略)』
  3. ^ 大正13年4月29日付 海軍内令 第108号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  4. ^ a b c #達大正10年3月p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』
  5. ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.37『二等巡洋艦"川内せんだい" 全要目{略} 川内は神通と要目を同じうする同型艦で多く水雷戰隊の旗艦になつてゐたようである。ちょつと艦型を見ただけでは巡洋艦中これほど搭載兵器に無理をしてないものはないやうに思はれる。然しながら5,195噸の排水量に14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、高角機銃も少からず搭載機もまた兵器の一つである。しかも速力は驅逐艦につぐものでなければならぬし、その航海は如何なる罐にも増して遠海を目指す軍艦である。他に同型艦"那珂 なか"がある。』
  6. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|川内型|川内、神通、那珂』
  7. ^ #日本軍艦集2600年版p.31『二等巡洋艦 川内(せんだい) 基準排水量5,195噸、長さ152.4米、幅14.4米、平均吃水4.84米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高射砲2門、魚雷發射管8門、起工大正11年2月16日、進水大正12年10月30日、竣工大正13年4月29日、建造所三菱長崎造船所-那珂と同型。いわゆる球磨型の改良型として造られた艦である。』
  8. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.136『川内(せんだい)|艦種二等巡洋艦 球磨改良型|艦名考川名に採る、川内川は又千臺川、仙代川に作る、薩摩國の大河なり。|艦歴神通・那珂は姉妹艦なり、球磨型の改良せられたるものにして煙突1個を増し4個と爲れり。 -要目-(略)起工 大正11-2-18 進水 同12-10-30 進水 同13-4-29 建造所 三菱長崎造船所』
  9. ^ #艦艇要目及建造の計画等問合に対する回答(大正12年1月23日)p.5
  10. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵 斎藤實 |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』
  11. ^ #達大正10年6月p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄鬼怒ノ下ニ、加古、那珂、川内、神通ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎』
  12. ^ #軍艦加古工事に関する件p.5『理由 軍縮ノ結果船型ノ変更(職工維持上製造所変更)必要アルニ由ル』
  13. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎』
  14. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ加古、衣笠、古鷹ヲ加ヘ同二等ノ欄加古、ヲ削ル』
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m 軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表、36ページ
  16. ^ #連合艦隊第1艦隊(9)p.12『那珂ノ船体工事ハ来ル十月十日頃進水セシム可キ豫定ニテ船台上ニ盤木ヲ作リ進水用意中ナリシモ該盤木ニ延焼シタル為メ裸体トナリ船台上ニ約十度右舷ニ傾キ横掛ス船体鋲板ハ赤銅色ニ変色シ「ビーム」ト共ニ波状ヲ呈スル處多シ機関ハ主トシテ陸上ニアリ損害ハ比較的小ナリ主機械ハ完全ノ状態ニアリ』
  17. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(災害後ノ現状及災害概要)船体 盤木支柱全焼シ船台上ニ墜落シ右舷ニ約十二度傾斜ス船底局部ノ屈曲ハ全長ニ亘リ全体ノ屈曲モ約二尺ニ及ブ(以下略)』
  18. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『那珂|二等巡洋艦|(艦要目略)|横浜船渠會社|大正11-6-10|大正14-3-24|大正14-11-30|(艦装備略)』
  19. ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、137-138ページ
  20. ^ a b 図で見る軽巡『川内型』変遷史、26ページ
  21. ^ 図で見る軽巡『川内型』変遷史、26-27ページ
  22. ^ 図で見る軽巡『川内型』変遷史、27ページ
  23. ^ #支那事変旗艦一覧表p.1『第一水雷戦隊』
  24. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、128、358-359、365ページ
  25. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、366ページ
  26. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、380、382ページ
  27. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、393ページ
  28. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、398-399ページ
  29. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、399-400ページ
  30. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、400ページ
  31. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、409ページ
  32. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、410-411ページ
  33. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、411-412ページ
  34. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、413ページ
  35. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、431-432、488ページ
  36. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、434-435ページ
  37. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、453ページ
  38. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、425、428、508、511ページ
  39. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、511ページ
  40. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、516ページ
  41. ^ 潜水艦攻撃、22ページ
  42. ^ 潜水艦攻撃、22-23ページ
  43. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、519ページ
  44. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、544-545、550-551ページ
  45. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、553ページ
  46. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、555ページ
  47. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、556ページ
  48. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、571-572ページ
  49. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、578ページ
  50. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、580ページ
  51. ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、128ページ
  52. ^ a b 戦史叢書第1巻 マレ-進攻作戦、390ページ
  53. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、589ページ
  54. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、590-591ページ
  55. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、591ページ
  56. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、593ページ
  57. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、596-597ページ
  58. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、597ページ
  59. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、270、274ページ
  60. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、294ページ
  61. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、294-295ページ
  62. ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、295ページ
  63. ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、296ページ
  64. ^ a b 日本軽巡戦史、130ページ
  65. ^ Don Kindell, British and Other Navies in World War 2 Day-by-Dayによれば、ヤラクは2月18日に自沈
  66. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、297-298ページ
  67. ^ 日本軽巡戦史、131ページ
  68. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、301ページ
  69. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、303ページ
  70. ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、310ページ
  71. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、622-625ページ
  72. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、596-609ページ
  73. ^ #S1612連合艦隊日誌(2)pp.23-24『別表第二 第二段作戦第二期兵力部署(五月下旬ヨリ「ミツドウエー」「アリウシヤン」方面地攻略作戦既成(6-20)頃迄』
  74. ^ a b 戦史叢書ミッドウェー海戦188-199頁『三 主力部隊』
  75. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦193頁(涼風は修理中)
  76. ^ #ミッドウエー海戦日誌(1)p.3『聯合艦隊編制表(六月一日現在)』
  77. ^ #日本空母戦史299頁『鳳翔・瑞鳳』
  78. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦272頁(千代田は主力部隊と共に内海西部出撃)
  79. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦173頁(日進はウォッゼ環礁およびウェーク島で魚雷艇搭載のため、第二艦隊に続行。主隊とは別行動)
  80. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦191-192頁『主隊/警戒部隊』
  81. ^ #S1706三水戦日誌p.22『(ロ)任務編制配備 本月當初M.I A.L作戦開始期ニ於テ3sd 24dg(涼風、山風欠)及27dg(有明欠)ヲ併セ指揮シ主力部隊水雷戦隊トシテ主力部隊直衛トナル』
  82. ^ a b c 戦史叢書ミッドウェー海戦193頁
  83. ^ a b c 戦史叢書ミッドウェー海戦272-273頁『主力部隊進出』
  84. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦241-243頁『出撃時の聨合艦隊司令部』
  85. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦274-275頁(戦藻録6月2日分)
  86. ^ #戦藻録(1968)124頁
  87. ^ a b 戦史叢書ミッドウェー海戦275-276頁(戦藻録6月3日)
  88. ^ #日本空母戦史300頁
  89. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦276-277頁『警戒部隊の分離』
  90. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦291-293頁『敵空母来襲、三空母被爆』
  91. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦441-442頁『三空母被爆の悲報』
  92. ^ a b c 戦史叢書ミッドウェー海戦497-498頁(戦藻録6月7日)
  93. ^ a b c d 戦史叢書ミッドウェー海戦534-535頁『主力の内地帰投』
  94. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦601頁『水上艦艇の被害』
  95. ^ #日本空母戦史302頁
  96. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)97頁『機動部隊(3F)の進出』
  97. ^ #叢書83ガ島戦23-24頁『外南洋部隊の増援輸送計画』
  98. ^ #叢書83ガ島戦10頁『川口支隊』
  99. ^ #叢書83ガ島戦5-6頁『船団によるガ島輸送の挫折』
  100. ^ a b #叢書83ガ島戦23-24頁『外南洋部隊の増援輸送計画』
  101. ^ a b c #叢書83ガ島戦21-22頁『輸送開始と外南洋部隊の延期命令』
  102. ^ #内令昭和17年10月(1)pp.1-2『内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル 第三十驅逐隊ノ項中「睦月」ヲ削ル 第三十一驅逐隊ノ項中巻波ノ下ニ、高波」ヲ加フ』
  103. ^ #叢書83ガ島戦24-28頁『第一次輸送の挫折』
  104. ^ #S1708二水戦日誌(1)pp.3-4『8月25日神通ハ敵「グラマン」戦闘機4ノ爆撃ヲ受ケ損傷「トラック」ニ回航。同日陽炎ニ将旗ヲ移揚、28日「ショートランド」ニ於テ衣笠ニ、31日夕霧ニ夫々将旗ヲ移揚、31日増援部隊ノ指揮ヲ(旗)3sdニ引継グト共ニ夕霧「トラック」ニ向ケ「ショートランド」発』
  105. ^ #戦藻録(1968)179頁
  106. ^ a b c #叢書83ガ島戦31-33頁『増援部隊指揮官の更迭』
  107. ^ #S1708外南洋部隊増援部隊詳報(1)p.61『31日 二.0800川内19dg(磯波綾波缺)17dg(浦風谷風)「ショートランド」着|三.0605将旗ヲ衣笠ヨリ夕霧ニ移揚ス|(略)五.0800増援部隊ノ指揮ヲ3sd司令官ニ引継ヲ了ス』
  108. ^ #S1708外南洋部隊増援部隊詳報(1)p.23『(33)8月29日附増援部隊ノ指揮ヲ3sd司令官ニ継承セシムルコトトナリタルヲ以テ31日0600川内「ショートランド」入港ト同時ニ将旗ヲ衣笠ヨリ夕霧ニ移揚シ、0800増援部隊ノ指揮ヲ3sd司令官ニ引継グト共ニ24dg陽炎、11dg(叢雲缺)、天霧(陸兵約1200名)ヲシテ「ガダルカナル」ニ向ケ「ショートランド」ヲ出撃セシム』
  109. ^ #戦藻録(1968)180-181頁
  110. ^ a b #叢書83ガ島戦53-55頁『九月四日』
  111. ^ #叢書83ガ島戦56-58頁『川口支隊の舟艇機動』
  112. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.14『第十九駆(綾波磯波缺)有明夕立初雪叢雲|9月4日2200|KXN陸兵898輸送 夕立初雪叢雲ハ巡洋艦1駆逐艦1ト交戰之ヲ撃沈セリ』
  113. ^ a b c d #叢書83ガ島戦91-92頁『敵のタイボ岬上陸』
  114. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.15『川内第19駆(2D缺)第11駆(初雪叢雲缺)陽炎天霧夕暮|9月8日|「タイボ」岬ニ敵巡1、駆6、輸送船6出現ノ報ニ依リ直ニ進撃同日2130湾外ニ於テ敵駆1撃沈、1隻大破ス』
  115. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.15『川内敷波吹雪凉風|9月12日|「ルンガ」沖ニ突入照射砲撃』
  116. ^ a b #叢書83ガ島戦103-104頁『奇襲隊のガ島陣地砲撃』
  117. ^ a b c d e #叢書83ガ島戦104-106頁『青葉支隊第三次輸送』
  118. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.16『第七駆(曙缺)涼風吹雪|9月14日2115|「ルンガ」沖ニ突入、陸戰協力ノ爲砲撃ヲ行フ陸兵600糧食弾薬揚陸』
  119. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.16『第二十四駆(涼風缺)第十九駆(磯波綾波缺)第十一駆(吹雪初雪缺)|9月15日0040|聯隊砲6速射砲4陸兵1116弾薬糧食ヲ揚陸』
  120. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.17『陸軍ハ九月十二日ヲ期シ總攻撃ニ決ス 「カ」號作戰部隊ハ右ニ應ズル如ク行動セリ 十三日朝飛行機ヨリ陸軍「ガ」飛行場占領ノ電アリシモ其ノ後未ダ占領シアラザルコト判明セリ即チ陸軍ハ「ジャングル」内前進意ノ如クナラズ且各部トノ連絡不如意ノ爲攻撃ヲ十四日一二〇〇ニ延期セリ 十四日「ガ」飛行場ノ奪回作戰成功スルニ至ラズ之ガ爲陸軍兵力ノ増強ヲ俟ッテ再興スルコトニ決ス 各部隊ハGF電令作第二八九號ニ依リ作戰スルコトトナレリ』
  121. ^ a b c #叢書83ガ島戦137-139頁『十六日〜十九日』
  122. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.16『第二十四駆嵐|9月18日|野砲4陸兵170弾薬糧秣「カミンボ」ヘ揚陸ス』
  123. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.16『川内浦波白雪叢雲浜風|9月18日|「ルンガ」桟橋附近集積地ヲ砲撃ス』
  124. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.42『第六戦隊、第十一駆逐隊|10-11|KXI砲撃ノ為進撃中「サボ」島ノ280度15浬ニ於テ敵巡洋艦、駆逐艦数隻ヲ発見之ト交戦ス』
  125. ^ #叢書83ガ島戦190-191頁『「日進、千歳」の輸送』
  126. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.41『第九駆(峯雲夏雲欠)、第十一駆(二小隊欠)、綾波|10-11|聯隊砲1、大隊砲2、速射砲2、迫撃砲1、兵400其他ヲRXNニ揚陸、帰途空爆ニ依リ夏雲ト叢雲ヲ失フ』
  127. ^ #叢書83ガ島戦200頁(註:白雲と夕霧は日本本土で修理中のため不在)
  128. ^ #S1710千代田詳報p.13『3Sd司令官|12日0030三水戦天霧艦長由良(増援部隊)|一.全力出撃待機トナセ/二.00出動南口経由日進千歳ヲ収容セントス/三.出撃順序19駆27駆天霧川内由良』
  129. ^ a b #叢書83ガ島戦201-203頁(前述のように白雲は8月28日の空襲で大破。サボ島沖海戦時、内地で修理中)
  130. ^ #S1710千代田詳報p.6『12日|0126|一.0126千代田龍田ヲ率ヒ「ショウトランド」出撃第三水雷戦隊ニ続行0643反転1303「ショートランド」着』
  131. ^ #叢書83ガ島戦213頁
  132. ^ #S1710四水戦日誌(2)p.28『13日1055(将旗)3sd(宛略)本職川内由良龍田朝雲白雪暁雷ヲ率ヰ14日0400出撃陸兵1100名兵弾薬糧食ヲ「エスペランス」岬南東ニ揚陸白雪ハ途中分離甲標的基地員基地物件ヲ「カミンボ」ニ揚陸スベシ』
  133. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)pp.42-43『川内由良龍田朝雲白雲暁雷(増本隊)|10-14|陸兵1129、野砲4、速射砲4、弾薬ヲ「エスペランス」ニ揚陸ス。友軍5S(羽黒欠)、摩耶ハRXIノ艦砲射撃ヲ実施ス』(註:白雲は内地で修理中。白雪の誤記)
  134. ^ a b #叢書83ガ島戦220-221頁『外南洋部隊のガ島飛行場砲撃』
  135. ^ #S1710千代田詳報p.6『14日|0358|一.0358「ショウトランド」出撃1950「サボ」島沖ニ於テ反転千代田暁ヲ率ヒ「ショートランド」ニ向フ 二.標的基地員「ガ」島上陸』
  136. ^ #叢書83ガ島戦220-221頁『船団の揚陸』
  137. ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.43『輸送船(崎戸九州笹子佐渡南海及吾妻山丸)|10-15|14日「タサファロング」ニ入泊セル船団ハ15日0335以後ヨリ連続的敵機ノ爆撃ヲ受ケ0945吾妻山丸火災續イテ笹子山丸1120九州丸火災擱坐、1530残存船団帰途ニ就ク』
  138. ^ a b #叢書83ガ島戦224-225頁『十七日の輸送』
  139. ^ #S1709四水戦詳報(5)p.23『18日1120 4sd司令官→3sd司令官/昨夜「タサハロング」ニ於テ収容セル人員左ノ通 海軍32内重傷13(准士官1)軽傷8(吹雪航海長)、陸軍100内将校2重傷10軽傷49、吾妻丸船員33(船長)内軽傷5 陸軍輸送船員66内重傷7軽傷29 計231』
  140. ^ #S1710四水戦日誌(3)p.49『19日1050由良|4sd参謀|タナ二四 応急修理所要日数約二日間ノ見込』
  141. ^ a b #叢書83ガ島戦344-347頁『十一月二日の輸送』
  142. ^ a b c #叢書83ガ島戦347-350頁『五日の輸送』
  143. ^ #愛宕(第3次ソロモン海戦)p.5『「ガ」島攻撃隊 愛宕高雄霧島川内長良朝雲照月19dg(浦波敷波綾波)五月雨白雪初雪電』
  144. ^ #叢書83ガ島戦383-384頁『第三次ソロモン海戦-十四日の夜戦』
  145. ^ #ニミッツの太平洋海戦史139頁
  146. ^ a b #叢書83ガ島戦388-389頁『第一次戦闘』
  147. ^ #愛宕(第3次ソロモン海戦)p.23『2119「右戦斗砲戦魚雷戦」/2122 更ニ敵艦一ツ45度ニ認ム「右照射用意」味方(川内19dg)ト判明』
  148. ^ #叢書83ガ島戦391頁
  149. ^ #ニミッツの太平洋海戦史140頁
  150. ^ a b c d e f #叢書83ガ島戦634-636頁『外南洋部隊兵力部署』
  151. ^ #叢書83ガ島戦537頁『R方面航空部隊の作戦準備』
  152. ^ #軽巡二十五隻128頁
  153. ^ 昭和18年2月14日付 海軍辞令公報(部内限)第1053号。アジア歴史資料センターref.C13072089700 pp.27-28 で閲覧可能
  154. ^ #戦場の将器57頁
  155. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後55頁
  156. ^ #戦場の将器59頁
  157. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.10『主隊|(長官)8F|青葉|全作戦支援』
  158. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.9『増援部隊|(司令官)3sd|3sd司令部 川内8dg(朝潮荒潮)11dg(白雪初雪)22dg 16dg(雪風時津風)9dg(朝雲峯雲)19dg(浦波敷波)2dg(村雨五月雨)|敵艦隊撃滅』
  159. ^ #戦場の将器67頁
  160. ^ 昭和18年3月6日付 海軍辞令公報(部内限)第1064号。アジア歴史資料センターref.C13072089900 p.29で閲覧可能。
  161. ^ 昭和18年3月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1078号。アジア歴史資料センターref.C13072090100 pp.33-34 で閲覧可能
  162. ^ #S1709第八艦隊日誌(7)p.24『艦隊編制(昭和一八年三月二五日)|第三水雷戦隊|川内 八駆逐隊、一一駆逐隊、二二駆逐隊』
  163. ^ #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中村雨、ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中朝雲、峯雲ヲ朝雲、薄雲、白雲ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中白雪、ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中、時津風ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  164. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後93頁
  165. ^ #内令昭和18年3月(3)p.47『内令第五百二十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二十九驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||第三十驅逐隊|三日月、望月、卯月|』
  166. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後130-131頁『外南洋部隊の作戦の概要』
  167. ^ a b #戦藻録(1968)279-280頁『四月三日土曜日晴ラボール第一日 GF長官陣頭指揮の為ラボール進出。以號作戦(X・Y作戦)。修理完成内地より歸投せる青葉敵機の為又々大損傷。GF陣頭指揮進出の理由』
  168. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)321-322頁『青葉、川内に曳航されてトラック入港』
  169. ^ #軽巡二十五隻129頁
  170. ^ #S1712四水戦日誌(6)p.46『四参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動|長良』
  171. ^ #戦隊行動調書p.39『三水戦司令部』
  172. ^ #S1805佐鎮日誌(1)pp.24-25『(二)作戰地ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事ヲ實施セリ 千歳伊一六六潜涼風伊一六五潜夕凪伊一〇潜江風足柄三日月日向川内瑞鳳文月朝凪大鷹』
  173. ^ #S1806佐鎮日誌(1)p.16『(二)作戰地ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事實施セリ 千歳伊一六六潜伊一六五潜夕凪三日月日向川内文月朝凪大鷹瑞鳳常磐追風羽黒妙高』
  174. ^ #S1806佐鎮日誌(2)pp.12-15『軍艦川内ニ電波探信儀装備等ノ件訓令』
  175. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.25『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  176. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後233頁『連合軍の作戦計画』
  177. ^ #S1709第八艦隊日誌(8)p.67『兵力部署(昭和十八年六月三十日現在)|増援部隊|(将旗)3sd|川内夕張11dg(天霧、初雪)22dg(長月水無月皐月)30dg(三日月望月)夕凪松風浜風』
  178. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後230頁
  179. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.15『被害 新月沈没 長月座礁後被爆大破 天霧初雪谷風中破、涼風望月小破』
  180. ^ 昭和18年7月7日付 海軍辞令公報(部内限)第1167号。アジア歴史資料センターref.C13072092100 p.4で閲覧可能
  181. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.7『3.七月十日第三水雷戦隊司令官伊集院大佐着任増援部隊指揮官トナル』
  182. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後245頁『水上部隊の作戦』
  183. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後237-238頁
  184. ^ a b c d #戦史叢書96ガ島撤収後247頁『水上部隊の作戦』
  185. ^ #ニミッツの太平洋海戦史172頁
  186. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.20『30dg(三日月)有明7月27日1000「ラバウル」発「ココボ」ニ於テ陸兵搭載1059同地発航行中2300三日月有明相次デ「グロセスター」岬ノ49度5浬ノ地点ニ坐礁…』
  187. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後249-250『経過概要と南東方面部隊等の作戦指導』
  188. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.44『二八(天候略)二.0155 3sd(川内、皐月、望月)三日月有明救難ノ為遭難現場ニ向ケ「ラバウル」発、途中0400反転0710「ラバウル」着』
  189. ^ #S1807三水戦日誌(1)pp.44-45『三.0800秋風遭難現場ニ向ケ「ラバウル」発/二九(天候略)二.0735秋風「ラバウル」着』
  190. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後257頁
  191. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後260-261頁
  192. ^ #ニミッツの太平洋海戦史174頁
  193. ^ #原(復刻版)103頁
  194. ^ a b c d e f #戦史叢書96ガ島撤収後267頁『外南洋部隊の作戦』
  195. ^ #S1808三水戦詳報(2)p.12『八月十七日0247(将旗)ZOB(宛略)漣17dg(浜風磯風)27dg(時雨)ヲ率ヰ0300RR出撃SNB電令作第四八一號ニ應ズル如ク行動ス本職本行動中代将旗ヲ一時漣ニ移揚ス』
  196. ^ #原(復刻版)90頁
  197. ^ #原(復刻版)91-92頁
  198. ^ #S1807三水戦日誌(2)p.27『(二)輸送隊行動 第二次輸送隊搭載中ノ第七聯合特別陸戦隊ヲ午前中ニ磯風時雨ノモノヲ川内ニ浜風ノモノヲ漣ニ移乗、3sd(川内)漣1200「ラバウル」出撃「ボーゲンビル」島東側ヲ通過28日0300「ブイン」着揚搭同終了次第「トノレイ」入泊昼間同地ニ避泊1800同地発逆路帰投(0300入泊セバ出港ハ最善ノ情況ニ於テ0400ナリ昼間対空兵装ナキ川内ヲ以テ敵小型機行動圏(ルッセル島ノ300浬以内)ヲ四時間モ行動スルハ危険極リナキヲ以テ味方基地ニ於テ航空機掩護下ニ避泊スルヲ可ト判断…』
  199. ^ #S1712五戦隊日誌(3)p.14『十三(天候略)0518 5S長波涼風「ラバウル」着』
  200. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後376-377頁『わが軍の北部ソロモン防衛計画』
  201. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後375頁
  202. ^ a b #ニミッツの太平洋海戦史176頁『ブーゲンブィル作戦』
  203. ^ a b c d e f #戦史叢書96ガ島撤収後386-388頁『水上部隊の第一回出撃-敵を逸す』
  204. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後388-390頁『タロキナへの逆上陸輸送計画の生起』
  205. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後390-390頁『第二回出撃-輸送隊の反転帰投』
  206. ^ #S1712五戦隊日誌(4)pp.23-24『1945|川内爆撃ヲ受ク被害ナシ/2053|川内爆撃ヲ受ク被害ナシ』
  207. ^ #原(復刻版)132頁
  208. ^ a b c d e f g h #戦史叢書96ガ島撤収後391-394頁『ボーゲンビル島沖海戦・その一』
  209. ^ #ニミッツの太平洋海戦史178頁
  210. ^ #S1712五戦隊日誌(4)p.19『0045|川内、時雨110度方向距離約9000米ニ艇発見ノ報アリ』
  211. ^ #原(復刻版)134頁
  212. ^ #軽巡二十五隻310頁
  213. ^ #S1712五戦隊日誌(4)pp.41-42『5日0500(将旗)2SYB|6日0753NTB戦斗概報|2SYB戦斗概報(十一月一日二日)2SYB(川内、27dg《時雨、五月雨、白露》)ハ十一月二日〇〇四五「ムッピナ」岬ノ285度45浬附近ニ於テ主隊5Sノ左斜前約五粁ニ占位針路130度速力24節ニテ警戒航行中左40度(眞方位90度)約10,000米ニ敵ラシキ艦影(背景暗雲)ヲ認メ直ニ砲戦魚雷戦開始敵ハ間モナク南北ニ分進我ヲ襲撃スルガ如ク行動セリ我ハ主トシテ南方隊(大型駆逐艦数隻)ニ對シ交戦雷撃ニ依リ其ノ二隻ヲ轟沈セシモ川内ハ同隊及北方隊(巡洋艦四隻)ヨリスル集中砲火ヲ受ケ先ヅ射撃指揮所次テ〇〇五五頃三、四缶室ニ被弾(二十糎程度)蒸気管全壊ノ為主機械停止引續キ後甲板ニ爆弾命中同所一帯破壊舵破損航行不能ニ陥ル其ノ後両舷側ヨリスル敵ノ集中砲火ヲ蒙リ死傷者被害續出〇五三〇遂ニ右ニ傾斜沈没セリ 位置「ムツピナ」岬ノ280度45浬 其ノ他聯合襲撃部隊戦斗概報所報ノ通』
  214. ^ #S1712五戦隊日誌(4)p.39『2日0307白露(宛略)我航行不能後部至近弾ニ依リ浸水(四區ニテトメタリ)舵故障ノ為五月雨ト觸衝セリ0300ノ一「ムツピナ」岬ノ300度57浬』
  215. ^ a b #原(復刻版)135-137頁
  216. ^ #ニミッツの太平洋海戦史181頁
  217. ^ a b #ニミッツの太平洋海戦史181頁
  218. ^ a b #軽巡二十五隻195-196頁『集中砲火を浴びた川内』
  219. ^ #ニミッツの太平洋海戦史182頁
  220. ^ #S1712五戦隊日誌(4)p.29『0034白露130度方向ニ火災中ノ一隻ヲ認ム』
  221. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後394-395頁『ボーゲンビル島沖海戦・その二』
  222. ^ #S1712五戦隊日誌(4)p.44『川内 敵ノ集中砲火及爆撃ニ依リ二日〇五三〇沈没』
  223. ^ a b #軽巡二十五隻130頁
  224. ^ 戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、394-395ページ
  225. ^ 戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、395ページ
  226. ^ #内令昭和19年1月(1)p.47『内令第四十三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年一月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等川内型ノ項中川内、ヲ削ル|驅逐艦、一等卯月型ノ項中、望月ヲ、同不知火型ノ項中、初風ヲ、夕雲型ノ項中、涼波ヲ、同二等若竹型ノ項中、早苗ヲ削ル|潜水艦、一等伊十七型ノ項中、伊號第三十四」ヲ削ル|海防艦、占守型ノ項中、若宮ヲ削ル』
  227. ^ #内令昭和19年1月(2)p.1『内令第四十九號 佐世保鎮守府在籍 軍艦 川内 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 驅逐艦 初風 驅逐艦 早苗|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 望月|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 涼波 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(略)昭和十九年一月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  228. ^ 海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 

参考文献[編集]

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6。
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃』光人社、2000年、ISBN 4-7698-2289-8
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
    • 当時 四駆逐隊付・海軍少尉候補生戸田専一『乗艦「舞風」「萩風」ネズミ輸送の悲惨を語れ 駆逐艦の損傷相次ぎ風雲急を告げるソロモン戦線五ヶ月の体験
    • 当時嵐水雷長・海軍大尉宮田敬助『第四駆逐隊「嵐」「萩風」ベラ湾夜戦に死す 昭和十八年八月六日夜、コロンバンガラ輸送の途次に魚雷をうけて三隻沈没
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 永井喜之・木俣滋郎「第2部 第二次大戦/日本編 1章 イギリス駆逐艦「サネット」」『新戦史シリーズ 撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
  • チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第1巻 マレ-進攻作戦』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7。
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
    • 当時「川内」水雷長・海軍少佐浅野市郎『俊鋭軽巡「川内」タロキナ岬沖の悲運 速力三十五ノット五五〇〇トン最終発展型軽巡のブーゲンビル島沖海戦
    • 戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • 「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • 戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X
    • 22-28ページ、阿部安雄「図で見る軽巡『川内型』変遷史」
    • 36-38ページ、伊達久「軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表」
  • 官報
  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月。
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。
    • 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08051772000『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
    • Ref.C13071974300『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。
    • Ref.C14120609900『支那事変功績便覧索引 附/旗艦一覧表』。
    • Ref.C08030725700『昭和16年12月 第3水雷戦隊戦時日誌 作戦及一般之部(1)』。
    • Ref.C08030725800『昭和16年12月 第3水雷戦隊戦時日誌 作戦及一般之部(2)』。
    • Ref.C08030103500『昭和16年12月4日~昭和16年12月11日 第3水雷戦隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030103600『昭和16年12月4日~昭和16年12月11日 第3水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030103900『昭和16年12月11日~昭和16年12月21日 第3水雷戦隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030104000『昭和16年12月11日~昭和16年12月21日 第3水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030104400『昭和17年1月1日~昭和17年1月30日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030104500『昭和17年1月1日~昭和17年1月30日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030104600『昭和17年1月1日~昭和17年1月30日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030104900『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030105000『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030105100『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030105200『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030105300『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030105400『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030105500『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。
    • Ref.C08030017900『昭和16年12月1日~昭和17年6月連合艦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030040400『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030040100『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。(自昭和十七年六月一日至昭和十七年六月三十日 第三水雷戦隊戦時日誌作戦及一般ノ部)
    • Ref.C08030095600『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030096400『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030586700『昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030586800『昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030022500『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030022600『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030022700『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030022800『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030022900『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030023000『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。
    • Ref.C08030023100『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(7)』。
    • Ref.C08030023200『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)』。
    • Ref.C08030584500『昭和17年10月6日~昭和17年12月23日 軍艦千代田戦闘詳報』。
    • Ref.C08030113300『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030113400『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030113800『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030113900『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030114000『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030114100『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030114200『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030114300『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。
    • Ref.C08030114700『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030114800『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030114900『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030115000『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030115100『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030051800『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030051900『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030115400『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030115500『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030115600『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030115700『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030745200『軍艦愛宕戦闘詳報(第3次ソロモン海戦)』。
    • Ref.C08030752300『昭和17年7月6日~昭和17年12月3日駆逐艦電戦闘詳報原稿その1(1)』。
    • Ref.C08030116500『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。
    • Ref.C08030344600『昭和18年5月1日~昭和18年5月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030345500『昭和18年6月1日~昭和18年6月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030345600『昭和18年6月1日~昭和18年6月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030105800『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030105900『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030106000『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030106100『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030106200『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030726100『昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(1)』。
    • Ref.C08030726200『昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(2)』。
    • Ref.C08030044900『昭和17年12月1日~昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030045000『昭和17年12月1日~昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C04015099400『軍艦加古工事に関する件』。
    • Ref.C11080370100『大正12年1月23日 艦艇要目及建造の計画等問合に対する回答』。
    • Ref.C08050999800『大正12年公文備考 変災災害付属巻5/東京海軍監督報告(1)』。
    • Ref.C08051006800『大正12年公文備考 変災災害付属巻8/連合艦隊第1艦隊(9)』。
    • Ref.C12070064400『大正1年達完/達大正1年8月』。
    • Ref.C12070078400『大正10年 達完/達大正10年3月』。
    • Ref.C12070078900『大正10年 達完/達大正10年6月』。
    • Ref.C12070081000『大正11年 達完/達大正11年10月』。
    • Ref.C12070082500『大正12年 達完/達大正12年9月』。
    • Ref.C12070161200『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(1)』。
    • Ref.C12070165700『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。
    • Ref.C12070176000『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年3月(3)』。
    • Ref.C12070176200『昭和18年1月~4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。
    • Ref.C12070193800『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年1月(1)』。
    • Ref.C12070193900『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年1月(2)』。

関連項目[編集]