川崎市女子職員内ゲバ殺人事件

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川崎市女子職員内ゲバ殺人事件
場所 日本の旗 日本 神奈川県川崎市川崎区宮本町 川崎市役所
座標
日付 1975年昭和50年)3月27日
午後4時40分ごろ (日本標準時)
概要 中核派革マル派の内ゲバ
懸賞金 なし
攻撃手段 被害者を職場から呼び出し、鉄パイプで殴る。
攻撃側人数 3人
武器 鉄パイプ
関与者 中核派
謝罪 なし
賠償 なし
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川崎市女子職員内ゲバ殺人事件(かわさきしじょししょくいんうちゲバさつじんじけん)とは、1975年(昭和50年)3月27日神奈川県川崎市役所裏の路上で発生した中核派による内ゲバ殺人事件。中核派と革マル派による内ゲバは殺人を伴う激しいものになっていたが、女性が殺された事件としては初めてのことであった。

事件の概要[編集]

1975年3月27日午後4時40分ごろ、川崎市役所内で執務していた女子職員(以下、N)が、電話で市役所裏に呼び出され、3人組の男に鉄パイプで頭を殴られて死亡した。3人組の1人は、その場で市職員らにより取り押さえられた[1]。逮捕された男は黙秘したため身元確認は難航したが、ビラを配り情報提供を呼び掛けたところ、実兄が名乗り出たためようやく身元が判明し、3月29日に殺人罪送致された[2]

中核派の機関紙『前進』は、同年3月31日号で「反革命白色テロ分子を完全せん滅(中略)川崎市職潜入分子Nに復讐の階級的鉄槌」と大々的に発表し、この事件が中核派の最高幹部本多延嘉殺害事件(同年3月14日)に対する報復であると表明した[2]。その後、さらに中核派は革マル派関係者の殺害を繰り返し、双方の内ゲバは激化していった。

Nは、都立日比谷高校を卒業後、現役で1967年4月に東京教育大学文学部ドイツ文学専攻に入学し、演劇研究会に入った。しかし、このサークルの同大学では革マル派の拠点サークルになっていた。ただし、Nは同大学の筑波移転反対闘争が激化していた1968年秋においても、演劇への情熱を持っていた[3]。71年春には、人数が減っていた大学内サークル「教育大学新聞会」に、他の学生とともに入会し、従来の会員は退会・卒業によっていなくなった。その『教育大学新聞』は、1973年4月10日号を最後に、彼女の卒業とともに廃刊になっている。このことから、他の革マル系会員が新聞発行にあまり熱心でない中で、1人で『教育大学新聞』を支えていたのではないかとの見方もある[1]

東京教育大学の学生・卒業生が内ゲバの被害者となった事件としては、この他に東京教育大学生リンチ殺人事件がある。

脚注[編集]

  1. ^ a b 東京教育大学新聞OB会 - Nさん」 『朝日新聞』1975年3月28日
  2. ^ a b 衆議院会議録情報 第76回国会 法務委員会第5号、1975年11月19日
  3. ^ 『回想の全共闘運動-今語る学生叛乱の時代』彩流社、2011年10月、86ページ