己斐橋

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己斐橋
Koi Bridge at Hiroshima pt1.jpg下流より
己斐橋01.JPG欄干
基本情報
所在地 広島県広島市西区
左岸:福島町 - 右岸:己斐本町
交差物件 太田川水系太田川(太田川放水路
座標 北緯34度23分55.9秒 東経132度25分57.6秒 / 北緯34.398861度 東経132.432667度 / 34.398861; 132.432667
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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広島県道265号標識
正保年間に作られた『安芸国広島城所絵図』。このように城を中心とした絵図では西端はほぼ天満川になるため、それより西側の己斐橋は描かれてない。他の城絵図でも同様である[1]。
正保年間に作られた『安芸国広島城所絵図』。このように城を中心とした絵図では西端はほぼ天満川になるため、それより西側の己斐橋は描かれてない。他の城絵図でも同様である[1]
1880年ごろの広島の地図。最も左側の川にかかる唯一の橋が己斐橋。赤線でもわかる通り、明治初期ごろは橋上が広島市と佐伯郡己斐村の境だった。
1880年ごろの広島の地図。最も左側の川にかかる唯一の橋が己斐橋。赤線でもわかる通り、明治初期ごろは橋上が広島市と佐伯郡己斐村の境だった。
1945年米軍作成の広島市地図。"KOI-BASHI"表記が確認できる。
1945年米軍作成の広島市地図。"KOI-BASHI"表記が確認できる。

己斐橋(こいばし)は、広島県広島市太田川太田川放水路)にかかる道路橋。下流側に側道橋(歩道橋)がある。

概要[編集]

元々は西国街道筋の橋、明治から国道筋の橋となり、昭和初期以前にあった山手川(己斐川とも)に架かる橋であった。1965年太田川放水路整備に伴い現在のものに架け直された。

上流側に西風新都線(広島高速4号線)の広島西大橋、下流側に平和大通り広島電鉄本線が通る併用橋・新己斐橋がある。東に道沿いに進めば天満橋、さらに東へ向かい本川橋を渡ると広島平和記念公園へと入る。

右岸側下流にJR西広島駅広電西広島駅、上流にノートルダム清心中学校・高等学校がある。

諸元[編集]

歴史[編集]

近世[編集]

最初の架橋年は不明。慶長元年(1596年)『毛利氏奉行人連署書状』には文禄の役のため名護屋城に向かう豊臣秀吉がこの地を通るため橋の修繕を命じられた事が書かれている[4]。つまり安土桃山時代にはこの橋が存在していたことになる。

この橋は西から広島城下町へ入る玄関口[5]であり、東から猿猴橋京橋元安橋本川橋天満橋と続く西国街道筋の橋であった。江戸時代において防犯上の理由に架橋規制が行われており[6]、この橋は山手川に唯一架けられた橋であった。当時の様子は絵図として残っており、例えば1764年(明和元年)頃長州藩地理図師有馬喜惣太による『行程記』(山口県文書館蔵)には、この橋は長さ40間(約72.7m)の土橋として描かれている[7]

また藩政時代、洪水が多発した当時の太田川流域において落橋の被害にあっており、記録に残るものでも寛政8年(1796年)・嘉永3年(1850年)に被害にあっている[8]。また老朽化により数度架替が行われた可能性が高いがその記録は不明である。

近代[編集]

明治時代になると、西国街道は国道となった[9]。架橋規制も解かれ、市内には橋が増えていき、1897年(明治30年)山陽鉄道己斐駅(現西広島駅)開業、広島電鉄軌道も整備され1912年(大正元年)広電己斐電停(現広電西広島駅)が開業し、己斐鉄橋(当時は電車専用橋)も架橋された。

木橋としての己斐橋最後の架橋は1904年(明治37年)7月[5]日露戦争の最中のことである。翌1905年(明治38年)芸予地震では、一部の橋脚基礎杭が5(約1.5m)ほど沈下している[10]。その後、幾度の補修を経てなんとか保全されていた状況までになり、往来の激しい橋であったことから落橋する可能性も指摘されるようになり、更に1923年(大正12年)洪水により一部破損した[8]ことから、架替が決定した[5]。1925年(大正14年)3月起工[11]

1926年(大正15年)3月竣工、開通式が同年3月28日に行われた[9]。以下、当時の橋の諸元を示す[11]

  • 路線名 : 国道2号
  • 橋長 : 243尺(73.6m)
  • 全幅 : 26尺(7.88m)
  • 上部工 : 4径間鋼鈑桁橋
  • 下部工 : RC橋台2基、RC壁式橋脚3基
  • 基礎工 : 2連井筒基礎
  • 工事費(当時) : 43,106円35銭

当時橋面をアスファルト舗装され、高欄は花崗岩製で作られ、鋼製あるいは青銅製の照明および飾り付けがなされていた[11]。なおこの時期は国道のアスファルト舗装と永久橋化が進められ、同年に猿猴橋、翌年に京橋が架け替えられている。また当時主要国道のわりには幅員が狭かったと指摘されている[12]

1945年被爆直後の広島市空中写真。落橋していないことが確認できる。

1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。爆心地より約2.1kmに位置した。橋は爆風により小破したが渡るのに支障がなかったため[13]、多くの被爆者がここを渡って西方向へ逃げている。

なお、広島市が公開している『広島原爆戦災誌』では己斐橋は鋼橋ではなく鉄筋コンクリート橋と記載されている[13]。つまり1926年3月に作られた橋から何らかの理由により架け直されたものが被爆時の橋である。ちなみに、1926年3月から1945年8月の間広島市において、1926年9月・1928年(昭和3年)6月・1930年(昭和5年)6月・1943年(昭和18年)7月・同年9月と記録的な洪水が発生している[8]

現代[編集]

1988年[14]。上側の橋が己斐橋、下は新己斐橋。この年代はまだ歩道橋が併設されていない。

戦後、山手川と東隣の福島川の間にあった中州浚渫し河川幅を拡幅する太田川放水路工事が行われ、これに伴い己斐橋は取り壊され、1965年(昭和40年)新しく架けなおされる[3]。これが現在の己斐橋にあたる。同年、下流側に新己斐橋も架橋され、主要幹線はそちらへ移った。

1994年に歩道橋が完成し車両専用橋となった。2013年現在、一部の橋脚でコンクリートが剥離するなど、老朽化が目立つようになってきている[15]


脚注[編集]

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  1. ^ しろうや!広島城 第24号 (PDF)”. 広島城公式. 2013年12月3日閲覧。
  2. ^ a b ひろしま地図ナビ
  3. ^ a b c d e f 太田川放水路フォトで川くだり”. 広島市西区コミュニティ交流協議会. 2013年12月3日閲覧。
  4. ^ しろうや!広島城 第43号 (PDF)”. 広島城公式. 2018年4月26日閲覧。
  5. ^ a b c 小坂登 1926, p. 54.
  6. ^ しろうや!広島城 第20号 (PDF)”. 広島城公式. 2013年12月3日閲覧。
  7. ^ 西国街道Ⅲ(己斐から五日市まで) (PDF)”. 広島市未来都市創造財団文化科学部文化財課. 2013年12月3日閲覧。
  8. ^ a b c 太田川水系の流域および河川の概要 (PDF)”. 国土交通省河川局. 2014年3月1日閲覧。
  9. ^ a b 小坂登 1926, p. 50.
  10. ^ 震災予防調査会震災予防調査会報告 第53号」、文部省、1905年、2013年12月5日閲覧。
  11. ^ a b c 小坂登 1926, p. 55.
  12. ^ 小坂登 1926, pp. 50-51.
  13. ^ a b 広島市 2005, p. 253.
  14. ^ 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
  15. ^ 橋りょうの調査結果について”. 広島市. 2013年12月3日閲覧。

参考資料[編集]

関連項目[編集]