市原稔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
市原 稔
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市花見川区
生年月日 (1947-03-11) 1947年3月11日(71歳)
身長
体重
171 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1968年 ドラフト外
初出場 1969年
最終出場 1969年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

市原 稔(いちはら みのる、1947年3月11日 - )は、千葉県千葉市花見川区[1]出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者、プロ野球交渉代理人。

同じく元プロ野球選手の市原圭は実子[1]

経歴[編集]

千葉東高校から早稲田大学を経て、1968年ドラフト外南海ホークスに入団[1]。早稲田大学では教員を目指していたため野球部には入部せず、教員試験に失敗したことから南海の入団テストを受験したが、このとき年齢をごまかして受験していたという。

一軍出場は1969年の1試合のみ(守備機会2、失策1)に終わり、1970年に引退[1]。当時の監督だった野村克也から英会話能力を見込まれ、コーチのドン・ブレイザーや外国人選手の通訳として球団に残留した[1]。その後、通訳だけでなく広報やマネージャーも兼務する。なお、通訳を務めていた頃の活躍が早稲田大学合格、南海へのテスト入団、通訳転向までの経緯を交えて水島新司の漫画『あぶさん』で描かれており、単行本第8集に収められている。

1979年、ブレイザーが阪神タイガース監督に就任すると、市原は一軍守備・走塁伝達コーチとして招聘され、1980年まで務めた。1981年、ブレイザーが南海に監督として復帰し、市原も復帰[1]。一軍守備・走塁コーチ(1981年)、一軍ベースコーチ兼守備コーチ(1982年)、二軍コーチ補佐(1984年)、二軍コーチ兼通訳(1985年)を務めた。

1986年近鉄バファローズ編成部に移籍[1]。渉外担当としてハーマン・リベラクリス・ドネルスタフィ・ローズフィル・クラークなど多くの外国人選手の入団に貢献する。ボストン・レッドソックスとの交流から同球団からの獲得ルートを作り上げた。2003年まで在籍。

近鉄退団後は、読売ジャイアンツの編成部調査担当(2004年-2005年)を経て、プロ野球交渉代理人として活動。2010年、代理人を担当する大阪商業大学捕手の山村裕也(現:NPB審判員)がフィラデルフィア・フィリーズマイナー契約すると報道されたが、後に白紙撤回となった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1969 南海 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----

背番号[編集]

  • 68 (1969年 - 1970年)
  • 84 (1979年 - 1980年)
  • 75 (1981年 - 1982年)
  • 88 (1984年 - 1985年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、49ページ

関連項目[編集]