平戸 (海防艦)

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平戸
基本情報
建造所 大阪鉄工所桜島工場
日立造船桜島造船所)
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 占守型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年11月2日
進水 1943年6月30日
竣工 1943年9月28日
最期 1944年9月12日被雷沈没
除籍 1944年11月10日
要目(竣工時)
基準排水量 870トン
全長 77.70m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.7ノット
燃料 重油200トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 定員146名[注釈 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装速射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x36個
搭載艇 短艇x4隻
ソナー 九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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平戸(ひらと[1])は、日本海軍海防艦。普遍的には択捉型海防艦の9番艦とされているが、海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の13番艦。この名を持つ帝国海軍の艦船としては、防護巡洋艦平戸に続いて二代目。

艦歴[編集]

竣工まで[編集]

マル急計画の海防艦甲型、第310号艦型の9番艦、仮称艦名第318号艦として計画。1942年昭和17年)11月2日大阪鉄工所桜島工場[注釈 2]で起工。1943年(昭和18年)5月25日、「平戸」と命名。本籍を横須賀鎮守府と仮定され、占守型海防艦の13番艦に定められる。6月30日、進水。8月25日、艤装員事務所を設置し、艤装員長に瀬川岩雄少佐が着任。9月28日、竣工。瀬川少佐(平戸艤装員長)は平戸海防艦長となる。同日附で、平戸艤装員事務所は撤去された。本籍を横須賀鎮守府に定められ、横須賀鎮守府警備海防艦として横須賀防備戦隊に編入された。

昭和18年の行動[編集]

竣工した平戸は横須賀に移動し、訓練を行った後神戸に移動。10月4日、1K型戦時標準貨物船玉洋丸(東洋汽船、5,397トン)を護衛して神戸を出港。5日、長浦に到着。16日、玉洋丸を護衛して長浦を出港。19日、室蘭に到着。21日、平戸は室蘭を出港し、24日に長浦に到着。25日、7025甲船団を護衛して長浦を出港。26日、船団は神戸に到着。31日、8031船団を護衛して神戸を出港。11月1日、船団は長浦に到着。同日、第四艦隊第2海上護衛隊に編入。その後、平戸は横須賀に移動する。

11月13日1100、海軍徴用船山国丸(山下汽船、6,922トン)他輸送船5隻からなる第3113船団を駆逐艦と共に護衛して横須賀を出港。15日、第2海上護衛隊は海上護衛総司令部指揮下となる24日、船団はトラックに到着した。

12月5日、特設運送船秋葉山丸(三井船舶、4,603トン)、特設運送船(給炭油)総洋丸(東洋汽船、6,081トン)からなる4205乙船団を特設掃海艇第8拓南丸(日本海洋漁業統制、343トン)と共に 護衛してトラックを出港。7日昼、船団は北緯13度30分 東経155度20分 / 北緯13.500度 東経155.333度 / 13.500; 155.333サイパン島東方400キロ地点で米潜ポーギー(USS Pogy, SS-266)に発見される。ポーギーは2隻の目標に対して魚雷を4本発射して2本が命中[2]。次いで魚雷をもう2本発射して1本を命中させる[3]。魚雷は総洋丸の機械室他に3本命中し火災を発生させた。海防艦が爆雷攻撃に入る前に、ポーギーは巧みにこれをかわした。ポーギーは夜になって浮上し、消火に成功したものの航行不能の総洋丸に対して魚雷を2本発射して、2本とも命中させてようやく撃沈した[4]。この時の時間は12月8日0228と日付が変わっていた。秋葉山丸は第8拓南丸の護衛で先行。平戸は対潜掃討の後、特設潜水母艦靖国丸(日本郵船、11,933トン)、給糧艦伊良湖からなる第4205甲船団及び護衛の海防艦御蔵と合流し、船団を護衛。10日、サイパンに到着。12日、サイパンを出港し、20日に船団は横須賀に到着した。25日0700、海軍徴用船松丹丸(松岡汽船、1,999トン)、同葛城山丸(三井船舶、2,428トン)からなる第3225船団を護衛して横須賀を出港。1944年(昭和19年)1月6日、船団はトラックに到着。翌7日0513、転錨中の葛城山丸がトラック東北水道付近で味方機雷に触れて沈没してしまう。

昭和19年の行動[編集]

1944年(昭和19年)1月11日、特設運送船御嶽山丸(鏑木汽船、4,441トン)他輸送船3隻からなる第7125船団を駆逐艦白露駆潜艇第29号駆潜艇と共に護衛してトラックを出港。21日1630、船団は横須賀に到着した。25日0700、海軍徴用船花川丸(川崎汽船、4,739トン)他輸送船2隻からなる第3125甲船団を海防艦石垣、駆潜艇第52号と共に護衛して横須賀を出港。30日、船団は北緯21度12分 東経149度28分 / 北緯21.200度 東経149.467度 / 21.200; 149.467のウラカス島の東方600km地点付近で米潜スピアフィッシュ(USS Spearfish, SS-190)に発見される。スピアフィッシュは1005に雷撃を行い、特設運送船玉島丸(飯野海運、3,560トン)の右舷中央部に魚雷1本が命中。2205、スピアフィッシュは玉島丸へ向け雷撃し、魚雷が命中した玉島丸は沈没した。スピアフィッシュは他に護衛艦1隻にも打撃を与えたと判断した。平戸は爆雷46発を投下するが、スピアフィッシュに損害はなかった。2350、対潜掃討の支援のため特設駆潜艇第8京丸(極洋捕鯨、970トン)が船団に合流。31日、第8京丸は船団から分離してサイパンに向かった。2月7日、船団はトラックに到着した。2月9日、輸送船2隻からなる輸送船団(番号なし)を護衛してトラックを出港し、12日にサイパンに到着。その後引き続き船団を護衛して横須賀に戻った。

その後、平戸は東京湾に移動。3月上旬、第十一水雷戦隊司令官高間完少将座乗の軽巡洋艦龍田」以下、護衛艦9艦(軽巡《龍田》、駆逐艦《野分朝風夕凪卯月》、海防艦《平戸》、敷設艇《測天巨済》、第20号掃海艇)は陸軍輸送船高岡丸(日本郵船、7,006トン)他輸送船11隻からなる東松二号船団を護衛、サイパン・グアム方面への船団護衛任務に就くことになった[5]。船団は3月12日未明に木更津沖錨地を出港した。13日未明、旗艦龍田および輸送船国陽丸は米潜サンドランス(USS Sand Lance, SS-381)の雷撃により沈没する(国陽丸沈没0329、龍田沈没1536)[5]卯月と平戸は米潜水艦に対し爆雷攻撃を行い、この間に高間司令官は龍田から駆逐艦野分に移乗して旗艦を変更した[6][5]。平戸は国陽丸の生存者を救助した後反転し東京湾に戻った。パガン島に向かった高岡丸を除く船団は3月19日にサイパン島到着、ここでテニアン島行きの2隻(柳河丸、巨濟)、グアム島行きの3隻(玉鉾丸、朝風、第20掃海艇)、エンダービー島行きの2隻(第一眞盛丸、測天)に分離[5]。卯月以下トラック島行きの4隻(卯月、夕凪、対馬丸、あとらんちっく丸)も船団から分離し、20日附で第二海上護衛隊の指揮下に入った[5]。各船団は無事に目的地へ部隊を揚陸した[7]

3月22日、平戸は海軍徴用船乾安丸乾汽船、3,129トン)他輸送船11隻からなる東松三号輸送船団に所属して東京湾を出撃する[8][9]。船団旗艦は、修理を終えたばかりの軽巡洋艦夕張(船団部隊指揮官、第一特設船団司令官伊集院松治少将)[10][11]。夕張以外の護衛艦艇は、駆逐艦3隻(旗風玉波)、海防艦平戸能美)、水雷艇、駆潜艇3隻[8][12]。25日、駆潜艇54号が米潜ポラック(USS Pollack, SS-180)に撃沈される[13]。28日、パラオ行船団(護衛艦〈玉波、平戸、能美〉、船舶〈辰浦丸、乾安丸、富津丸、長白山丸、南洋丸、早埼〉)はサイパン行船団(夕張他、3月30日着)と分離する[8][12]。だが米軍機動部隊出現の報によりパラオ行船団(玉波以下)も4月2日サイパンに避退[8][12]

4月7日、船団はサイパンを出港し[14][12]、米軍機動部隊来襲の情報により、船団はヤップ島に避泊したあと、14日にパラオに到着した[8][12]

5月28日0600、貨物船豊岡丸(鏑木汽船、7,097トン)他輸送船5隻からなるマユ02船団を特設砲艦華山丸(東亜海運、2,103トン)、急設網艦白鷹と共に護衛してマニラを出港。6月1日0400、船団は海南島楡林に到着した。3日1920、豊岡丸他輸送船9隻からなるテ06A船団を白鷹、華山丸と共に護衛して楡林を出港。13日、船団は門司に到着。0800、特設運送船万光丸(日本郵船、4,471トン)を護衛して門司を出港し、同日中に佐世保に到着。同地で修理を受ける。20日、平戸は佐世保から門司に移動。1930、特設運送船浅香丸(日本郵船、7,398トン)他輸送船11隻からなるヒ67船団を駆逐艦朝顔呉竹、海防艦倉橋第2号5号13号、急設網艦白鷹と共に護衛して門司を出港[15]。29日、船団は北緯17度13分 東経118度18分 / 北緯17.217度 東経118.300度 / 17.217; 118.300ルソン島サンフェルナンド沖で米潜バング(USS Bang, SS-385)に発見される。バングは1517に船団に向けて魚雷を5本発射。特設運送船みりい丸(三菱汽船、10,564トン)の左舷船橋下、陸軍配当船さらわく丸(三菱汽船、5,135トン)の左舷船首にそれぞれ1本ずつ命中。みりい丸は船首を深く沈め、さらわく丸も船首を破壊されたものの、ともに沈没は免れた[16][17]。攻撃後、バングは125発もの爆雷を投下されたものの被害はなく、浮上した時には船団の姿は消えていた。30日1900、マニラに到着。7月3日0600、損傷したさらわく丸、みりい丸他マニラ止まりの輸送船2隻を分離したヒ67船団はマニラを出港。9日1640に昭南に到着した。

7月14日0720、特設運送艦聖川丸(川崎汽船、6,862トン)他輸送船6隻からなるヒ68船団を海防艦倉橋、第13号、20号28号、急設網艦白鷹と共に護衛して昭南を出港。18日、第2海上護衛隊の解隊に伴い第1海上護衛隊に編入。20日1300、船団はマニラに寄港して加入船の顔ぶれを一部改めた上で23日0600に出港[18]。11.5ノットの速力で北上したが[19]、25日に至って米潜アングラー(USS Angler, SS-240)、フラッシャー(USS Flasher, SS-249)およびクレヴァル(USS Crevalle, SS-291)からなるウルフパックの攻撃を受ける。この攻撃で陸軍輸送船安芸丸(日本郵船、11,409トン)および東山丸(大阪商船、8,666トン)、逓信省標準TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)が沈没し、聖川丸が損傷するという被害に見舞われた[20]。平戸は損傷により後落した聖川丸を護衛し、27日1100、船団は高雄に到着。聖川丸と平戸は正午過ぎに到着した[21]。ここで損傷した聖川丸他輸送船2隻が分離[22]。28日2000、船団は高雄を出港し、8月3日に海防艦御蔵とともに船団から分離し、1700に佐世保に到着した。同日、船団は門司に到着した[23]

8月9日1600、平戸は佐世保を出港し、2230に伊万里湾に到着。10日0500、特設運送船(給油)旭東丸(飯野海運、10,051トン)他輸送船19隻からなるヒ71船団空母大鷹、駆逐艦藤波夕凪、海防艦倉橋、御蔵、昭南第11号と共に護衛して伊万里湾を出港。平戸には第6護衛船団司令部が乗り込み、船団の指揮を執った[24]。15日1830、船団は馬公に寄港して加入船の顔ぶれを一部改めた上で17日0800に出港[25]。しかし、18日明け方に船団は米潜レッドフィッシュ(USS Redfish, SS-395)の攻撃を受け、タンカー永洋丸(日本油槽船、8,673トン)が損傷[16][26]。同日夜から翌19日朝にかけて、レッドフィッシュの通報で集まってきた米潜ラッシャー(USS Rasher, SS-269)、ブルーフィッシュ(USS Bluefish, SS-222)の2隻からなるウルフパックと、単独で哨戒中に通報を受けた米潜スペードフィッシュ(USS Spadefish, SS-411)の攻撃を受ける。この攻撃で空母大鷹、給油艦速吸、貨客船帝亜丸(帝国船舶、17,537トン)、陸軍特殊船玉津丸(大阪商船、9,590トン)、特設運送船(給油)帝洋丸日東汽船、9,850トン)が沈没し、特設運送船能代丸(日本郵船、7,184トン)、貨客船阿波丸(日本郵船、11,249トン)が損傷するという被害に見舞われた[27]。船団各船はばらばらになり、サンフェルナンドに集結するよう命令を受けて19日正午までに集まったのは輸送船5隻と護衛艦4隻だけだった[28]。21日0637に船団はサンフェルナンドを出港し、1919にマニラに到着した[29]。その他の船はバラバラにマニラへ到着した。また、22日朝に対潜掃討を終えて船団に合流するべくマニラに向かっていた海防艦松輪佐渡日振は米潜ハーダー(USS Harder, SS-257)、ハッド(USS Haddo, SS-255)の攻撃を受けて全滅した[16]。マニラで加入船の顔ぶれを改めた船団は25日1650にマニラを出港。途中でミリ行きの艦船を分離し、9月1日1356に昭南に到着した[29]

沈没[編集]

駆逐艦敷波

9月6日0630、浅香丸他輸送船5隻からなるヒ72船団を海防艦3隻、駆逐艦1隻と共に護衛して昭南を出港。平戸には引き続き第6護衛船団司令部が乗り込み、船団護衛部隊の指揮を執った。船団には便宜上同行して船団護衛に協力する南西方面艦隊第16戦隊第19駆逐隊所属の駆逐艦敷波の姿もあった[30]。11日、陸軍特殊船吉備津丸(日本郵船、9,574トン)他輸送船2隻からなるマモ03船団と護衛の第19号駆潜艇が船団に合流[注釈 3]。12日未明、船団は27km離れた位置にいた米潜グロウラー(USS Growler, SS-215)のレーダーに探知される[31]。グロウラーは米潜パンパニト (USS Pampanito, SS-383) 、シーライオン (USS Sealion, SS-315) とウルフパック "Ben's Busters"(ベンの退治人たち) を構成していた。グロウラーは戦闘配置を下命[31]。グロウラーは船団のほぼ正面に位置し、0155、グロウラーは正面の「駆逐艦」に対して魚雷を3本発射。うち1本が平戸に命中[32][33]。平戸は閃光を発し、水柱が消えると同時にその姿を消した[34]。護衛部隊旗艦を失って混乱しバラバラになった船団各船は同日夜明けごろから夜にかけて、米潜シーライオン、パンパニトの攻撃を受ける。この攻撃で海軍徴用船南海丸(大阪商船、8,416トン)、貨客船楽洋丸(南洋海運、9,418トン)、陸軍配当船勝鬨丸拿捕船/日本郵船委託、10,509トン/旧米船President Harrison)、1TM型戦時標準タンカー瑞鳳丸(飯野海運、5,135トン)が沈没するという被害に見舞われた[35]。護衛部隊は反撃を試みたが、12日0655に北緯18度16分 東経114度40分 / 北緯18.267度 東経114.667度 / 18.267; 114.667の海南島東方沖でグロウラーの再度の雷撃で魚雷2本が立て続けに駆逐艦敷波に命中し、敷波は4分で沈没した[36]。船団は各船ばらばらのまま、13日に海南島三亜に到着した。第6護衛船団司令梶岡定道少将、海防艦長瀬川岩雄少佐以下乗員106名が戦死。第6護衛船団司令部職員26名、乗員74名が救助されたが、そのうち乗員7名が沈没時の負傷がもとで死亡した。沈没地点は海南島東方沖、北緯18度15分 東経114度20分 / 北緯18.250度 東経114.333度 / 18.250; 114.333

1944年(昭和19年)11月10日、帝国海防艦籍から除かれた。

海防艦長[編集]

艤装員長
  1. 瀬川岩雄 少佐:1943年8月25日[37] - 1943年9月28日
海防艦長
  1. 瀬川岩雄少佐:1943年9月28日[38] - 1944年9月12日 - 戦死。同日、海軍中佐に特進。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ これは法令上の定員数であり、特修兵、その他臨時増置された人員を含まない。
  2. ^ 大阪鉄工所の社号は1943年3月11日消滅し、日立造船の一部門となる。
  3. ^ 『南海丸戦闘詳報』では第19号駆潜特務艇となっている(#南海丸、画像44-46枚目)。また、マモ03船団の護衛3隻は反転してマニラに帰投。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-215, USS GROWLER. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-215_growler?mode=a_p. 
  • (issuu) SS-266, USS POGY. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-266_pogy?mode=a_p. 
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030127000。
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(2)』。Ref.C08030137400。
    • 特務艦聖川丸 『自昭和十九年七月一日 至昭和十九年七月三十一日 特務艦聖川丸戦時日誌』、画像1-61枚目。Ref.C08030649400。
    • 特務艦聖川丸 『昭和十九年七月二十六日 戦闘詳報』、画像62-70枚目。Ref.C08030649400。
    • 特設運送船 南海丸 『特設運送船南海丸戦闘詳報―昭和十九年九月十二日南支那海に於ける対潜水艦戦』。Ref.C08030671000。
    • 『海軍大臣達「5月(3)」(昭和18年5月)』。Ref.C12070118900。
  • 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2012年
  • 宇野公一(能登丸航海士) 「血祭り、空母轟沈!」『雷跡!!右30度 特攻船団戦記』 成山堂書店、1977年7月、138-157頁。
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第4巻、第一法規出版、1995年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで』 朝雲新聞社戦史叢書〉、1967年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 マリアナ沖海戦』第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書46 海上護衛戦』 朝雲新聞社、1971年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備〈1〉 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。