弁景温泉

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Hot springs 001.svg 弁景温泉
Benkei spa 2011.JPG
弁景温泉共同浴場
温泉情報
所在地 北海道有珠郡壮瞥町弁景
交通 JR北海道室蘭本線伊達紋別駅よりバスで約45分
泉質 単純温泉
泉温(摂氏 63.1 ℃
湧出量 1200L/min
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温泉熱を利用した温室団地

弁景温泉(べんけいおんせん)は、北海道有珠郡壮瞥町弁景に泉源がある温泉である。

 

泉質[編集]

  • ナトリウム 塩化物 硝酸塩泉、(弱アルカリ性低張性高温泉)(旧泉名 含芒硝-食塩泉)
    • 源泉温度 : 63.1℃・湧出量 毎分1200L以上
    • 知覚 : 無色透明、無味、弱硫化水素臭
※ 「久保内ふれあいセンター」掲示によるデータ

温泉地[編集]

  • 壮瞥町弁景の弁景川と小弁景川の出合付近に泉源があり、附近には地元住民を中心とした会員制の共同浴場があるのみで、源泉付近では外来者の入浴利用はできない。
  • 現在、地元壮瞥町により多目的に泉源活用されており、源泉から約5km離れた久保内地区に引湯され、日帰り入浴施設の「久保内ふれあいセンター」があり、こちらでは一般入浴可能である[1]
  • この入浴施設以外にも、温室団地や病院・小中学校の暖房として温泉熱が利用されている[1]
  • なお、現在当地には「オロフレスキー場」があり、ロッジ[2]での宿泊可能[3]としているが、温泉施設はない[4]

歴史[編集]

  • 1879年(明治12年)12月、紋鼈村(現・伊達市)の作間林之介が、弁景の弁景川と小弁景川の出合より小弁景川を100m遡った右岸に湧出する温泉を発見。仮湯小屋を建て、翌年「作間温泉」として開業する。開湯当時は、春に当地へ来て、冬は引き揚げる状況だった[5]。「作間が発見」とされているが、実際には「明治時代にアイヌの人から譲り受けて温泉が始まったようです」[1]とのこと。
  • 1883年(明治16年)になって、当地に作間林之介が定住を始める。作間は、現在の伊達市関内より志門別・壮瞥町立香・南久保内を経て当地までの道路を、当年より3か年かけて私費で開削、浴客の便を図り、本格的に当地での営業を始めた[5]
  • 1906年(明治39年)より、弁景温泉の上流になる「黄渓」の地で幌別鉱山の開発が始まり、定住民が増加。その慰労と娯楽の地として、そして鉱山の存在が現地の交通が発達させたこと[6]から、観光地としても利用者が増加することになる。戦後、当地の最盛期には3軒の温泉宿があった[1][7]という。1964年(昭和39年]頃には、「弁景ホテル」と「オロフレホテル」の2軒の湯宿があったことが記録に残っている[8]
  • しかし、時代とともに当地の湯宿に訪れるものが減少する。幌別鉱山は1971年(昭和46年)硫黄の精錬を中止し、黄渓地区は同年12月に住民が集団移転・翌1972年(昭和47年)4月に黄渓学校閉校、その翌1973年(昭和48年)に幌別鉱山は閉鉱している。最盛期には2500名居住した黄渓地区が、完全無人になるに至っている[9]。そうした厳しい状況の中、1977年(昭和52年)8月有珠山噴火する。翌1978年(昭和53年)12月、最後の湯宿「弁景温泉ホテル」が閉鎖[10]、弁景の地での湯宿は消滅した。
  • 1966年(昭和41年)以降、壮瞥町内において地質・地熱に関する各種調査が行なわれ[11]、その結果をもとに、1979年(昭和54年)から1982年(昭和57年)にかけて3本のボーリングを実施し熱水を得、この成果を1981年(昭和56年)より久保内地区での多目的利用が開始された[12]
  • 1954年(昭和29年)、弁景地区住民56人が資金や材木・セメントを寄付し浴場を建てた。この団体が現在の会員制共同浴場「弁景温泉共同浴場」の始まりとなる。その後、誰でも入浴できたが、1983年(昭和58年)頃、鏡を盗まれたり荒らされたりしたことから、玄関に南京錠をかけ「会員専用」とされた。2000年(平成12年)には、資金約500万円を集めて改築されている[1]
  • この共同浴場の源泉は、かつて近所の湯宿からの「もらい湯」によって浴槽に湯を張ってきた。かつての地元源泉はすべて「自噴」した湯を利用していたが、町営の3本の源泉井戸は地下500~600mからの「動力揚水」したため、自噴源泉の泉温低下・湧出量低下・水量低下した[12]。そのため共同浴場の温泉は、町営源泉からの分湯を利用している[1]

アクセス[編集]

  • 源泉地である壮瞥町弁景へ向かう場合
    • 車利用の場合
      • 国道453号壮瞥町久保内から、北海道道2号洞爺湖登別線へ入る。
      • 登別市・登別温泉より北海道道2号洞爺湖登別線オロフレ峠経由でも現地に至る。
        「オロフレスキー場」附近の川沿いの地帯が現地である。
    • 公共交通利用の場合
      • かつては洞爺湖温泉と登別温泉を結ぶ路線バスが便あったが、現在は廃止されているため、現地への公共の交通手段はない。
      • 前掲した伊達紋別駅または長和駅から道南バスを利用し「久保内」より、現地まで徒歩約2Km、あるいは「壮瞥役場前」停留所(「壮瞥経由洞爺湖温泉」行バスも利用可)で下車しタクシー利用となる。
        壮瞥町による路線タクシーはあるが、通院優先の町民専用便につき一般の利用はできない[13]
        壮瞥町にはタクシー会社はあるが、所属台数が極めて少ないことについて考慮が必要。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f 湯人話 弁景温泉(壮瞥) 2014年7月6日掲載 - 朝日新聞DIGITAL
  2. ^ ゲレンデに飛び出そう! 新ロッジお披露目 「オロフレ」は今日から 壮瞥 スキー場の利用者増にも期待がかかる待望の地域間交流拠点施設 2002/12/23掲載 - フォト北海道 道新写真データベース 北海道新聞
  3. ^ 弁景地域間交流拠点施設オロフレほっとピアザ - じゃらん
  4. ^ オロフレスキー場
  5. ^ a b 出典 : オロフレ観光協会による現地案内「弁景温泉由来」に拠る
  6. ^ いぶり さわやか アウトドア ミーティング in 蟠渓 オロフレ山 現地討論会 配布資料(そうべつエコミュージアム友の会)。この資料によると、「オロフレ山・オロフレ峠の歴史について」の本文中で「昭和7年に弁景~お花畑(オロフレ峠)間が開通、同10年にお花畑~カルルスも通じました。(中略)昭和5年に「オロフレ山見晴台~オロフレお花畑で~」の写真が掲載されており(中略)登場する男性はいずれも背広、女性はなんと!着物姿で、およそ山登りのいでたちではないので、建設中の道路を自動車で登ったのでしょう」とあることから、1930年(昭和5年)頃には、弁景温泉までの車道があったと類推できよう。なお、当地の北海道道2号洞爺湖登別線「オロフレ峠」は、道路線形のカーブがきつく急峻なことから永らく冬期間は道路が閉鎖されてきた。冬季通行止が中止になるのは、1988年(昭和63年)の「オロフレトンネル」開通後のこととなる。ちなみに、当地への路線バスの開業年については不明。同資料によると昭和25年以前から存在した模様。なお、1955年(昭和30年)頃の道南バス時刻表には、オロフレ峠を経由し洞爺湖温泉と登別温泉を結ぶ便・麓と黄渓地区を結ぶ便が記載されている(出典 : 道南バス - 各駅倉庫)。
  7. ^ 解約YH 北海道。後掲の2軒のほか、かつて同地区には「オロフレユースホステル」が存在した記録がある。資料によると、1970年(昭和45年)9月開設・1978年(昭和53年)解約とのこと。Wikipedia「日本のユースホステル一覧」内、「閉館したユースホステル」で掲載されている「オロフレユースホステル」部分によれば「オロフレスキー場併設ロッジで営業していた」とのこと。
  8. ^ 1.蟠溪温泉および弁景温泉の調査 - 北海道大学理学院・理学研究院 北海道大学地球物理学研究報告第14号
  9. ^ 壮瞥町立黄渓小学校 大正3年4月1日開校 昭和47年3月31日閉校
  10. ^ 弁景温泉が休業 有珠噴火で客足止まる 壮瞥 玄関に板が打ちつけられ、人影のない弁景温泉ホテル=胆振管内壮瞥町内弁景地区 1978/12/08掲載 - フォト北海道 道新写真データベース 北海道新聞
  11. ^ 地下資源調査所ニュース Vol.6 No.2 1990.04 - 北海道立地下資源調査所(現・地方独立行政法人北海道立総合研究機構 環境・地質研究本部 地質研究所)
  12. ^ a b 壮瞥町・弁景地区の熱水貯留層 地下資源調査所報告No.62(1990)北海道立総合研究機構 環境・地質研究本部 地質研究所, NAID 40002343073
  13. ^ 公共交通 - 壮瞥町
久保内ふれあいセンター
医療施設
  • 病院概要 - 医療法人交雄会 そうべつ温泉病院
  • 施設案内 - 介護老人保健施設 プライムそうべつ
農業団体「壮瞥町オロフレ地熱利用野菜組合」