張ユウ

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本来の表記は「張熠」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

張 熠(ちょう ゆう、482年 - 541年)は、中国北魏から東魏にかけての政治家軍人。『北史』では張燿(ちょうよう)と書かれる。は景世。本貫南陽郡西鄂県。後漢張衡の十世の孫を自称した。

経歴[編集]

北魏に仕えて奉朝請から揚州車騎府録事参軍となった。後に歩兵校尉となった。洛陽永寧寺の塔を建設するにあたって、張熠の現場監督は適確で遺漏がなかったので、霊太后の賞賛を受けた。冠軍将軍・中散大夫となった。後に別将となり、長孫稚の西征に随行し、平西将軍・太中大夫に転じ、関西都督となった。功績により長平県開国男に封ぜられた。528年、平西将軍・岐州刺史に任ぜられ、仮の安西将軍となった。まもなく撫軍将軍を加えられた。貧民の救恤につとめて、民衆に愛された。529年、洛陽に帰還すると、元顥の入洛に遭遇して、岐州に戻るよう命じられた。しかし張熠はひそかに洛陽に入った。元顥が敗死して孝荘帝が洛陽に帰還すると、張熠は鎮南将軍・東荊州刺史となった。530年、散騎常侍・征蛮大都督の位を加えられ、荊州刺史に転じた。爾朱兆の入洛に遭遇したため、荊州に赴任しなかった。531年衛将軍・金紫光禄大夫となった。

534年、東魏が建国されると、右僕射の高隆之と吏部尚書の元世儁の上奏により、洛陽の宮殿を解体して、木材を都に送ることとなり、その監督官として張熠が推挙された。張熠はその仕事に精励し、営構左都将となった。539年、衛大将軍となった。鄴の宮殿が完成すると、衛大将軍のまま東徐州刺史に任ぜられた。541年、東徐州で死去した。享年は60。驃騎大将軍・司空公・兗州刺史の位を追贈された。は懿といった。

子に張孝直があり、武定末年に司空騎兵参軍となった。

伝記資料[編集]

  • 魏書』巻七十九 列伝第六十七
  • 『北史』巻四十六 列伝第三十四