張国紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索

張 国紀(ちょう こくき、? - 1644年)は、末の官員。天啓帝の皇后張氏の父。

経歴[編集]

河南省祥符の人。監生であった。

天啓元年(1621年)4月、妻の陳氏との長女張氏は選抜して皇后に立てられた。張国紀は正一品錦衣衛左都督となった。婚礼後まもなく、死刑囚の孫二が皇后の実父を自称した。6月、張国紀は激怒して天啓帝に告訴した。2か月後、孫二は原判決のとおり斬首刑に処され、事件は終息した。その後、権力闘争が激化した頃、この一件がもとで張皇后への非難が続き、「丹山之穴、藍田之種」(父の子種ではなかった)と噂された。さらに張国紀自身に対し、民衆を暴力で虐げることに関して多くの弾劾を受け、死刑囚となった。大学士の李国𣚴(魏忠賢の同郷人)が同情して許しを乞うた。その後、庶民に落とされ郷里へ追放された。

崇禎帝が即位すると、張氏は皇嫂(皇帝の兄嫁)たる懿安皇后と称され、張国紀は復職した。また崇禎3年(1630年)、崇禎帝の長男朱慈烺が皇太子に封じられ、皇太子の外祖父の周奎が嘉定に、張国紀も太康伯になった。崇禎年間には、張国紀は人柄が温厚で、気立てがたいへん良いという評判であった。

崇禎17年(1644年)2月、張国紀は2万両の義捐金を崇禎帝に供出し、侯爵に上った。しかし翌月、息子と共に大順政権に財貨を押収され、過酷な拷問によって刑死した。妻の陳氏も自ら縊死したという。同年8月、張国紀の弟たち、張国棟と張国祚は残った不動産を全て清朝政府に献上した。

伝記資料[編集]

  • 『明熹宗実録』
  • 『崇禎長編』
  • 『甲申伝信録』
  • 『清世祖実録』