張玄セイ

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本来の表記は「張玄靚」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
沖公 張玄靚
前涼
第8代君主
王朝 前涼
在位期間 355年 - 363年
姓・諱 張玄靚
元安
諡号 沖公
廟号
生年 350年
没年 363年
張重華
郭氏
陵墓 平陵
年号 建興355年 - 361年
升平361年 - 363年

張 玄靚[1](ちょう げんせい、350年[2] - 363年)は、五胡十六国時代前涼の第8代君主。は元安。父は第5代君主張重華

生涯[編集]

君主に擁立[編集]

350年、張重華の末子として生まれた。

354年1月、伯父張祚が涼王を称すると、張玄靚は涼武侯[3]に封じられた。

355年7月、宗族である河州刺史張瓘は張祚の誅殺を掲げて挙兵し、8月には驃騎将軍宋混もこれに呼応した。9月、宋混が姑臧に逼迫すると、張瓘の弟である張琚と子の張嵩が内側から呼応し、城門を開いて宋混軍を迎え入れた。 張祚の側近であった領軍将軍趙長・張璹らは禍を恐れて宋混側に寝返えると、馬氏(張玄靚の祖母)を呼び寄せ、張祚を廃して張玄靚を主に立てると宣言した。張祚は入殿してきた宋混らの軍に殺され、趙長らもまた将軍易揣らに捕らえられて殺害された。

その後、宋混・張琚らは張玄靚を正式に君主に立て、持節・大都督大将軍・護羌校尉・涼州・西平侯とした。また、和平の元号を廃してまた西晋の元号である建興43年と号し、その領内に大赦を下した。さらに張祚を庶人の礼で葬り、2人の子を処刑した。

張瓘の時代[編集]

張瓘が姑臧に到着すると、張玄靚を推戴して使持節・大都督・大将軍・涼王とし、自らは衛将軍として兵1万を領し、使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖公・行大将軍事となり、また宋混を尚書僕射として役人の任官・免官を委ねた。

同月、隴西の人である李儼は張玄靚は張瓘の命に従わず、豪族の彭姚を殺害すると、東晋の元号である永和を用いて隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し、李儼の下に集った。張玄靚・張瓘は李儼討伐の為に兵を挙げ、将軍牛覇を派遣した。だが、西平の人である衛綝が郡ごと反乱を起こし、進軍途上の牛覇を攻撃した。これにより、牛覇の軍は潰えてしまい、単騎逃げ帰った。その後、張瓘は弟の張琚に大軍を与えて衛綝を討たせ、これを破った。同時期、西平の人である田旋は酒泉郡太守馬基を擁立し、張瓘に背いて衛綝に呼応した。張瓘は彼らの反乱を知ると、司馬張姚・王国に兵2千を与えて討伐に向かわせた。張姚らは馬基を破り、馬基・田旋の首級を挙げて姑臧へ送った。

356年1月、前秦の征東大将軍・晋王苻柳が参軍閻負・梁殊を使者として前涼へ派遣し、張玄靚へ親書を渡した。閻負らは張瓘に接見すると、脅しをかけて前秦に降伏するよう説いた。張瓘は大いに恐れ、張玄靚に命じて前秦へ使者を派遣させ、藩国となる旨を告げさせた。これにより前涼は前秦の従属化に入り、張玄靚は前秦より爵位を授かった。

同年、右将軍宋熙は天亀観を取り壊して邸宅を為す事を請うたが、張玄靚は認めなかった。

張瓘・張琚の兄弟は強盛であり、自らの勲功・威勢に驕っていた。また、張瓘は猜疑心が強く苛虐な性格であり、賞罰はすべて自らの好みで行い、綱紀などなかった。その為、次第に人心は離れていった。輔国将軍宋混は忠硬な性格であったので、張瓘はその存在を恐れ、弟の宋澄ともども誅殺を目論み、遂には張玄靚を廃立して自ら王に即位しようと目論んだ。

359年6月、張瓘は宋混誅殺の為、兵数万を姑臧に集結させたが、宋混はこれを事前に察知し、宋澄と共に楊和を始めとした壮士40騎余りを率いて南城へ入ると、諸陣営へ向けて「張瓘が造反を企てた。太后の命によりこれを誅殺する」と宣言した。すると、すぐに2千余りの兵が集った。張瓘はこれを知ると、兵を率いて出撃したが、宋混はこれを破った。この時、乱戦の中で張瓘の将軍玄臚は宋混を刺したが、鎧を突き破る事が出来ず、宋混に捕らえられた。これにより、張瓘の部下は戦意喪失してみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節[4]・都督中外諸軍事・驃騎大将軍[5]・酒泉侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。

宋混・宋澄の時代[編集]

宋混は輔政の任に就くと、涼王の称号を廃して涼州牧に戻すよう、張玄靚へ請願した。

361年4月、宋混は病に倒れた。張玄靚は馬氏と共に自ら彼の下へ詣でると「将軍に万一の不幸があれば、この寡婦と孤児は何を頼みとすべきか!林宗(宋混の子である宋林宗)に将軍を継がせたいと思うが、如何か」と問うた。宋混は「臣の子である林宗は幼弱であり、大任には耐えられません。もし殿下が臣の一門を見捨てておられないのでしたら、弟の澄は臣よりも政治の才能があります。但し、柔弱な所があるので、機事には向いておりません。その時は殿下が策励して彼を動かすとよいでしょう」と告げた。やがて亡くなると、張玄靚は遺言に従い、宋澄を領軍将軍に任じて輔政を委ねた。

9月、右司馬張邕は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を攻撃し、これを誅殺した。さらに、宋氏一族を誅滅した。張玄靚は張邕を中護軍に任じ、叔父の張天錫を中領軍に任じ、両者に輔政を委ねた。

張邕の時代[編集]

張邕は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、馬氏と密通し、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患った。その為、張天錫は腹心である郭増・劉粛・趙白駒と共謀し、張邕暗殺を目論んだ。

11月、張天錫は兵400を伴って入朝し、張邕もまた入朝した。劉粛・趙白駒は刀を鞘から出す準備をしながら張天錫に付き従った。門下において張邕と出くわすと、劉粛が張邕へ斬りかかったが、避けられた。趙白駒もこれに続いたが、失敗した。二人は諦めて張天錫と共に禁中へ入ったので、張邕は逃れる事が出来、反攻に転じると三百余りの兵を率いて宮門を攻撃した。だが、張天錫が屋へ登って張邕の罪を大声で喧伝すると、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。

張天錫の時代[編集]

12月、建興49年を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。東晋より詔が降り、張玄靚は大都督・隴右諸軍事・涼州刺史・護羌校尉・西平公となった。また、南州を改めて祁連郡とした。

363年8月、馬氏が亡くなった。張玄靚は母の郭氏を尊んで太妃に立てた。

張玄靚はまだ幼く、その性格は仁弱であった。その為、張邕が誅殺されて以降、張天錫が政治を専断していた。郭氏はこれを憎み、大臣張欽らと謀り、張天錫の誅殺を目論んだ。だが、この計画は事前に露見し、張欽らはみな誅殺された。張玄靚はこれを大いに恐れ、位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。

最期[編集]

同月、右将軍劉粛らは議して、張玄靚が幼沖であり国家は多難である事から、長君が立つべきであると述べ、張天錫へ自立を勧めた。張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄靚を殺害させた。その後、張天錫は張玄靚が急死したと宣言し、張天錫自らが即位した。張玄靚は平陵に葬られ、沖公[6]と諡された。享年14、在位9年であった。東晋の孝武帝より敬悼公と諡された。

怪異譚[編集]

  • 357年5月、東苑にある丘で突然地面が陥没し、沢となった。また、数丈に渡って火事が発生した。6月、大風が起こり、雷鳴が轟き、辺りが暗闇に包まれた。宫中では水害が発生し、深さ4尺にも及んだ。執法御史杜逸は張瓘へ「こられの変はみなただ事ではありません。お祓いをすべきです」と勧めた。
  • 359年6月、大雨が降り、雷鳴が轟き、辺りが暗闇に包まれた。平地では水害により水深6尺に達し、宫中でも4尺に達した。

宗室[編集]

父母[編集]

兄弟[編集]

伯父・叔父[編集]

年号[編集]

元号は当初は西晋のものである建興を使用していたが、361年から東晋の元号である升平を用いた。

  1. 建興355年 - 361年
  2. 升平361年 - 363年

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『十六国春秋』には張玄靖と記載される
  2. ^ 『十六国春秋』には即位した時7歳とあるので、それによるならば348年生まれとなる
  3. ^ 『晋書』には侯ではなく王とある
  4. ^ 『晋書』には仮節とある
  5. ^ 『晋書』には車騎大将軍とある
  6. ^ 『十六国春秋』には沖王とある