彦琮

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彦琮(げんそう、557年 - 610年)は、中国代の訳経僧であり、元通道観学士である。

生涯[編集]

道宣の著した『続高僧伝』巻二の「隋東郡上林園翻経館沙門釈彦琮伝」に、

「釈彦琮、俗縁李氏、趙郡柏人人也、世號衣冠、門稱甲族」とあるように、彦琮は趙郡柏人県の李氏の出身で、代々、王朝に仕え、一門は甲族(高貴な家柄)と称された。

彼は幼い頃より優秀で、信都の僧辺法師の元で、須大拏経を読誦すると、七千言ある経文を一日で読誦した。更に数日で『大方等経』を終えたという[1]

天統3年(567年)、10歳に至り出家を許され、名を道江と改めた。三蔵に通じ、等の外典にも明るかった。

天統5年(569年)、12歳にて、『法華経』を誦す。久しからずしてにおいて講席を因循す。又、故郷の寺に帰り、『無量寿経』を講じた。

武平元年(570年)、14歳。晋陽に入り、講じ、且つ聴く。道は汾州・朔州に至り、名声は道儒に布く。北斉後主が晋陽に行幸し、宣徳殿に招かれて『仁王経』を講ず。聴徒は200人で皆優れた人々ばかりだった。

建徳6年(577年)、北周武帝が北斉を平定した際に、仏教の廃毀が行われた。

その結果、北斉にいた多くの僧が各地へ避難し、彼もまた、21歳にして還俗の身となった。だが、後にその才を認められて武帝によって長安に招かれて、通道観学士となった。この時に、名を彦琮と改めている。

北周の武帝死後、宣帝静帝を経て、静帝より禅譲を受けた楊堅が隋を建てると、彦琮はそのまま、隋に仕えた。

開皇元年(581年)、北周では、仏教・道教が廃されたため、北周に仕えていた間は、還俗したままであった彦琮は、曇延の勧めにより落髪し、再び、沙門となった。

開皇3年(583年)に、道教を排斥する内容の「弁教論」を撰した。同年、西域より経典至る。その経の翻訳を勅される。

開皇12年(592年)より勅命により長安に入り翻訳を掌る。大興城の大興善寺で経典の漢訳に従事す。

仁寿2年(602年)、王舎の沙門至りて『舎利瑞図経』および『国家祥瑞録』を請う。勅命により、それらを梵語に翻訳し、十巻を西域に賜う。『沙門名義論別集』を著す。

大業2年(606年)、勅により、洛陽の上林園に建てられた翻経館に召されて住み、更に訳経を続けた。その漢訳経典の総数は、23部100巻余に及んだ。

そうした訳経と同時に、隋代以前の漢訳仏典、2,109部5,058巻を整理して『衆経目録』5巻を編纂した。また、勅を奉じて、慧矩と共に『天竺記』を著わした。

煬帝の時に日厳寺に入り、大業6年(610年)に入寂す(没す)。

著作[編集]

  • 『西域志』10巻
  • 『沙門名義論』
  • 『唱導法』
  • 『内典文会集』
  • 『弁教論』
  • 『衆経目録』
  • 『西域伝』
  • 『舎利瑞図経』(翻訳)
  • 『国家祥瑞録』
  • 『沙門名義論別集』
  • 『天竺記』(裴矩と共同)
  • 『弁正論』
  • 『福田論』
  • 『僧官論』
  • 『慈悲論』
  • 『黙語』
  • 『鬼神論』
  • 『通極論』
  • 『弁聖論』
  • 『通学論』
  • 『善知識論』

※道宣『続高僧伝』巻二の「隋東郡上林園翻経館沙門釈彦琮伝」にて確認できる著作

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 岩間湛良「彦琮録と静泰録」(『大崎学報』95、1939年)
  • 佐藤心岳「彦琮の梵語仏典の重視について」(『印度学仏教学研究』29(15-1)、1966年)
  • 内田吟風「隋釈彦琮撰『大隋西国伝』の成立とその遺文」(『日本文化と浄土教論攷:井川定慶博士喜寿記念』、1974年)
  • 吉川忠夫訳注 『広弘明集』 <大乗仏典 中国・日本篇 4巻> 中央公論社、現代語訳

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 道宣『続高僧伝』巻二