影山正治

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1953年

影山 正治(かげやま まさはる、1910年明治43年)6月12日 - 1979年昭和54年)5月25日)は、日本右翼活動家思想家歌人

愛知県豊橋市生まれ。国家主義者の影山庄平を父に持つ。國學院大學卒業。保田與重郎に親炙し日本浪曼派の影響のもと民族派としての右翼活動、論評、作歌を続けた。歌道記紀に関して著書多数。

来歴[編集]

1933年(昭和8年)、斎藤実首相らの暗殺を計画し神兵隊事件に参加し下獄する。その当時の獄中吟を編纂し歌集『悲願吟』(1936年(昭和11年)、奥戸足百との共著)を出版、同歌集が保田與重郎に評価されその結果日本浪曼派に接近する。

1937年(昭和12年)9月、日本主義文化同盟を結成。機関誌『怒涛』の創刊号には倉田百三林房雄中河与一らが寄稿している。

1939年(昭和14年)4月、國學院大学生を中心とする維新寮を「大東塾」と改称。塾長に就任する。顧問として倉田百三を迎えた。

1940年(昭和15年)、米内光政首相らの暗殺を計画し皇民有志決起事件(七・五事件)を首謀。禁固5年の実刑判決を受ける。しかし「再生不能性貧血症」のため一時危篤状態に陥り翌1941年(昭和16年)、刑の執行が免除された。1944年(昭和19年)11月に応召して中国大陸に出征し、華北で終戦を迎えた。影山の父・庄平は1945年8月25日に代々木練兵場にて大東塾生13名と共に割腹自殺を遂げた。

終戦後、大東塾の解散を命ぜられた。その後、不二歌道会を設立し主宰。同時に不二出版を設立した。

1954年(昭和29年)、大東塾を再建し東京都青梅市に大東農場を開いた。戦後右翼の重鎮として論評や作歌活動を続けた。

日米安保体制には反対する姿勢を示し、多くの右翼団体が「反共」を名目に安保改定を支持していたが、影山は安保闘争にも理解を示していた。警官隊との衝突で女学生の樺美智子が死亡すると、「樺美智子さんの死に対しては、心から哀悼の言葉を述べたい。彼女こそ日本のために亡くなった愛国者だ」と追悼の言葉を述べ、樺のような人物が右翼側から出なかったことを批判している。

1979年(昭和54年)5月25日、最後の活動として元号法制化を訴え大東農場にて割腹の後、影山は散弾銃により自決した。68歳没。影山はその際に「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」と書かれた遺書を残していた。影山の死後、元号法は可決された。

著書[編集]

  • 『皇道満支建設私案 附・現地通信その他』大日本生産党本部 1938
  • 『歌集国の子』大東塾 1939
  • 松本奎堂 創作』大東塾 1940
  • 古事記要講』大道塾 1941
  • 大西郷の精神』道統社 1941
  • 『維新者の信条』大東塾出版部 1942
  • 『志士詩文集』小學館 1942
  • 『歌道維新論』育英書院 1943
  • 『天忠組の道』大東塾出版部 1944
  • 『歌集民草の祈り』不二出版社 1946
  • 『涙痕抄 自選歌集』不二出版社 1948
  • 『千里行脚の記』不二歌道会 1953
  • 万葉集精講』第1冊 不二歌道会 1955
  • 『千里行脚歌集』大東塾出版部 1957
  • 『一つの戦史』大東塾出版部 1957
  • 『民族派の文学運動』大東塾出版部 1965
  • 『日本建国の精神』大東塾出版部 1967
  • 『明治の尊攘派』大東塾出版部 1967
  • 『日本民族派の運動 民族派文学の系譜』光風社書店 1969
  • 『神話に学ぶ』大東塾出版部 1971
  • 『沖縄の光と影』大東塾出版部 維新叢書 1972
  • 『台湾の光と影』大東塾出版部 維新叢書 1973
  • 尾崎士郎と僕たち』大東塾出版部 1974
  • 『占領下の民族派 弾圧と超克の証言』日本教文社 1979
  • 『日本と共に 続影山正治歌集』大東塾出版部 1982
  • 『転向-日本への回帰 日本共産党解党派の主張』浅野晃対談 暁書房 1983
  • 『歌道入門』大東塾出版部 1984
  • 『求道語録』大東塾出版部 1984
  • 『天皇論への示唆』大東塾出版部 維新叢書 1984
  • 『一すぢの道 歌集』大東塾出版部 1984
  • 『老兵始末記』大東塾出版部 1984
  • 影山正治全集』全32巻 影山正治全集刊行会 1989-95
  • 『古事記精講』影山正治全集刊行會 1999

関連項目[編集]