後北条氏
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北条氏(北條氏) | |
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本姓 | 桓武平氏伊勢氏流 |
家祖 | 伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲) |
種別 |
武家 華族(子爵) |
出身地 | 京洛(山城国平安京) |
主な根拠地 | 相模国小田原 |
著名な人物 |
伊勢盛時(北条早雲) 北条氏綱 北条氏康 北条氏政 北条氏直 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
後北条氏(ごほうじょうし、ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔(こうえい)ではないことから、また両氏族の繁栄期には時代的に狭間があることから、後代の史家が両者を区別するため、後世のほうすなわち伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。
概要[編集]
通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。
近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がった、とされていたが、後述のように近年の研究では否定されている。
伊勢新九郎盛時[編集]
室町幕府の御家人であった伊勢氏一族の伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)の姉北川殿は、駿河国に勢力を張った守護大名今川氏の今川義忠に嫁いでいた。文明8年(1476年)に義忠の戦死をきっかけにして起こった今川氏の内紛の際に、盛時は駿河国に下向し、甥の龍王丸(後の今川氏親)を支援した。これが伊勢氏(北条氏)が関東圏に勢力を築くきっかけとなった。後世成立の軍伝などでは、この功績により氏親から駿河国興国寺城が与えられたことになっている[注釈 1]。明応2年(1493年)、幕府の管領・細川政元による足利義澄の将軍擁立と連動して、盛時は伊豆国に侵入し、堀越公方の子の足利茶々丸を、新将軍の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、以後積極的に伊豆国を攻略して盛時の所領とした、と伝えられている。明応4年(1495年)[注釈 2]には大森氏から相模国の小田原城を奪ってここに本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城に拠った三浦義同を滅ぼして、相模国全土を征服した。北条氏を称したのはこの宗瑞の子の氏綱が、名字を「伊勢」から「北条」に改めてからのことだが、今日では便宜上、早雲庵伊勢宗瑞に遡ってこれを「北条早雲」と呼んでいる。
北条改姓[編集]
北条家は元々は伊勢家(備中伊勢氏)であり、伊勢氏の宗家は室町幕府の要職であった政所の長官である執事を代々世襲していた、いわゆる身分の高い一族だったことが判明しており、家格も申し分が無かった。にもかかわらず「北条」の名字にこだわり、改姓した理由としては、上杉氏ら関東の旧来勢力から伊勢氏は”外来の侵略者(他国の兇徒)”とみなされており、それまで相模守護であった扇谷上杉氏に代わる相模国主としての正当性を得るために、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡を継承した、という体裁を宣言したからだと考えられている[4][注釈 3]。氏綱から名乗った左京大夫、氏康から名乗った受領名相模守も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名乗った古例を踏襲したものである。以後、当主が左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となった。
執権北条氏との血統的なつながりは以下に示す通りである。
黒田基樹は、北条氏綱の正室であった養珠院殿が、後北条氏家臣で鎌倉時代最後の北条得宗・北条高時の末裔(まつえい)を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している[5][6]。
歴史研究家の小和田哲男によると、北条氏は京都との接触を最低限に止め、平将門以来関東にあった「中央からの半独立」という願望を具現化することを国是としていたという。関東管領職の継承に固執したのもそのためで、関東の地に関東公方を盟主とした独立国家を目指していた、としている[要文献特定詳細情報]。別の見解として、小田原市教育委員会の佐々木健策は、氏綱が後妻を近衛家から迎えていること、相模国の守護所を目指していた小田原の城下町形成の過程で、京都や奈良の職人を積極的に招聘していたことなどを挙げ、関東公方はもとより室町幕府や朝廷との関係を自らの威信として利用することで、関東における主導権を確立しようとしたと説いている[7]。
なお、北条への改姓の正確な時期については、箱根権現の宝殿の修造完成を機に作成された大永3年(1523年)6月12日付の棟札が「伊勢」の名乗りで記され、同大永3年(1523年)9月13日に書かれた公家の近衛尚通(後に娘が氏綱の後室となる)の日記『後法成寺関白記』の記述には「北条」の名乗りが登場していることから、その3か月の間に行われたと推定されている[8]。また、永正15年(1518年)7月に小弓公方として自立した足利義明を、共に支援することで同意したために成立した伊勢(北条)・扇谷上杉両家の和睦がこの時期に破綻して、山内・扇谷両上杉家の同盟が成立し、さらに伊勢(北条)・扇谷上杉両勢力の境目にあった小机城一帯が直後に北条領になったと推定されることから、北条改姓は扇谷上杉家との関係破棄の一環として行われた、とする見方もある[9]。
領国拡大[編集]
北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に5代続いた。
氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦において小弓公方を滅ぼした。この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。『北条五代記』や「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)などでは氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。
氏康期の天文22年(1553年)には甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立し、信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅した。また、この際に北条氏に亡命した今川氏当主の今川氏真(正室は氏康の娘の早川殿)に迫って、氏政の子である国王丸(後の氏直)を養子として今川氏当主の座を譲らせたことによって駿河今川領国を支配する大義名分を得た。しかし、越相同盟は次第に形骸化し、国王丸を今川氏当主にして駿河を併合する計画も駿河を占領する武田軍に敗れたことで失敗に終わったため、氏真と国王丸の縁組は解消されている。
天文15年(1546年)の河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘においては敗退することもあったが、着実に支配を広めた。
氏政が実権を掌握した元亀2年(1571年)には甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、天正6年(1578年)の越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している[注釈 4]。
後北条氏は織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの実利も恩賞も無く、織田家重臣の滝川一益が関東入りし、上野国を中心に主に北関東の諸侯がこれに従う状態となった。これは北条家がその方面にこれ以上領土を広げられない、ということであり、結果の全てが北条氏にとって織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。しかし、未だ不安定な状況の最中に本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。
滝川一益は、広大な支配地域の経営・諸侯の調整に頭を悩まされているところであった。さらに、配下で信濃に在国していた森長可は本領に逃亡し、甲斐の河尻秀隆は一揆に遭い戦死した。こうした滝川軍に対して北条氏は、同盟の一方的な破棄を通告し、氏直を総大将とする4万6000の軍勢を上州の織田領へ侵攻させ、神流川の戦いで滝川一益を破る。滝川は関東を放棄し、本領の伊勢に帰還した。これにより信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が、三つ巴の戦いを繰り広げることになった(天正壬午の乱)。北条氏は一時は信濃佐久郡周辺を占領し、甲斐にも侵攻したが、戸石城主・真田昌幸の上杉氏への離反や、徳川家臣の依田信蕃の活躍などに阻まれ、両国への侵攻は失敗した。徳川との講和の結果、信濃(上杉・真田領を除く)・甲斐は徳川、上野は北条が領有することになり、未占領地は切り取り次第(実力での占領を容認)と取り決めした。
織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる[10]。
小田原合戦[編集]
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小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州征伐を経て日本をほぼ統一した豊臣秀吉に対して、北条家も他の大大名と同様に大名家の家格を維持すること、領民に手を出さないこと(民政不介入)を条件に恭順の意思を示していた。 しかし、天正17年(1589年)に上野国名胡桃において、かねてより真田家との間にあった領土紛争が拗れ、北条家家臣の猪俣邦憲が独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領した(名胡桃城事件)。この事件は豊臣政権が諸大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとされ、天正18年(1590年)に豊臣秀吉は諸大名を動員し小田原征伐を号令した。これによって戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。
この時点まで秀吉は明智光秀や柴田勝家を滅ぼしたとはいえ、毛利・長宗我部・島津・徳川・織田といった大名家に対しては、領地削減などはあれどこれらを廃することなく処していた。徳川氏や島津氏・長宗我部氏などは、豊臣政権と一度は交戦に至ったものの、最終的な殲滅決戦が行われるより前に、当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓うことによって本領が安堵されている。ゆえに、豊臣政権が目指していたのは、北条氏らを滅亡させることではなく、あくまでも惣無事令の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を豊臣が掌握することにより、全国の諸大名を支配することにあった、とする説もある。真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初、仲裁者の立場に立っており、北条氏有利の裁定を下している[注釈 5]。
小田原開城以後[編集]
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小田原城開城の際、隠居の氏政および氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田利家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎は早々に解除され、大名待遇で大阪城下に屋敷を与えられ、また賄領1万石を給され、徐々に格式を回復しつつある最中の翌天正19年(1591年)、氏直は疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。氏直には男子がいなかったため、北条氏の家督は叔父の氏規に継承され、河内国狭山で7000石を拝領した。またその子氏盛も別に下野国内で4000石を拝領した。この氏盛が氏規の死後、父の遺領を併せて1万1000石の大名となり、河内狭山藩(藩庁は狭山陣屋)を立藩した。国持大名にこそはなれなかったものの、狭山藩北条氏は江戸時代を通じて存続した。また徳川家康が氏直の義父にあたることから、かつて同盟関係にあった家康が天下を取ると、縁故の数家が再興されている( → 詳細は「その後の後北条氏」節を参照)。
系譜[編集]
凡例 - 実線は実子、点線は養子、太字は当主
後北条宗家および長綱系統[編集]
*早雲本人は北条を名乗っていないが、通常北条氏の初代と数える。
早雲 (伊勢盛時)1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏綱2 | 氏時 | 氏広 | 長綱(幻庵) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏康3 | 為昌 | 氏尭 | 氏隆 | 綱重 | 長順 | 三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏政4 | 氏照 | 氏邦 | 氏規 | 氏忠 | 氏秀 | 氏光 | 氏隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏直5 | 源五郎 | 氏房 | 直重 | 直定 | 氏盛 | 氏則 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏盛 狭山藩主家へ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※明治時代に、後北条氏の末裔を自称する元仙台藩士・桑島政貫が、氏直の子であるという北条氏次なる人物の墓碑を早雲寺に建立した。しかし、史実において氏直の子として確認されているのは女子2人のみであり[11]、氏次なる人物は氏直の子とは見られていない。
玉縄北条家[編集]
氏時 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
為昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱成 (福島氏から 養子入り) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康成(氏繁) | 康元(氏秀) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏舜 | 氏勝 | 氏成 | 直胤 | 繁広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
繁広 | 氏明 | 氏重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏長(正房) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏平 | 元氏(泰繁) | 氏如 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏英 | 松前勝広 (松前嘉広養子) | 氏如 (元氏実弟) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏庸 | 氏孝 (小川保願の子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏応 (京極高甫の子) | 義氏 | 氏紀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏興 (板倉勝清の子) | 氏紀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏乾 | 氏統 (北条氏紀養子) | 渋川興紀 | 知恭 (赤松恭富の子) | 氏泰 (八木補道の子) | 氏統 (北条氏興の子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏征 | 乾晴 | 乾任 | 氏富 (鳥居忠継の子、 初名:鳥居成美) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家紋[編集]
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定紋の三つ鱗は執権北条氏に由来し、同じ桓武平氏惟将流氏族を称する伊勢氏、後北条氏ともに使用がある。後北条氏の三つ鱗は高さを低くした二等辺三角形を組み合わせてあり、これを特に「北条鱗」と称する。替紋は平家の「対い蝶(北条対い蝶)」「隅切り折敷に二文字」など。
評価[編集]
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軍事面[編集]
早雲の代に上杉配下の幕僚だった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模で、鉄砲の導入にも積極的だった。
後北条氏は、小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。各城には位が付けられ、城主には勲功によって昇格や降格、配置換えを行うという近代的な制度だった。
最盛期の後北条氏には、10万の軍勢の動員をも可能とした戦力があった。この軍事上の優越とともに、東北の伊達政宗、東海の徳川家康、中部の織田信雄、四国の長宗我部元親などとの外交上の連携をもって、後北条氏は関東自立を目指していた。
内政面[編集]
後北条氏は内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。
また、家督を継承するにあたっては、正室を重んじることにより、廃嫡騒動やそれに起因する家臣団の派閥化といった近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。さらにその結果として宗家のほとんどが同母兄弟となり、その元に構成された一門と家臣団には強い絆が伴った。ただし、近年の研究では系譜上は正室の子とされていた者が実際には側室の子であったことが判明しているケースも多いことに注意を要する(北条氏邦・千葉直重など)。
東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血統を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来による制度の整った官僚制をもって力を蓄えた。飢饉の年には家督を代替わりすることによって徳政令を出すという施政も見受けられた。
その後の後北条氏[編集]
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- 譜代大名として立藩した河内狭山藩は、減封に遭ったり数度にわたる養子を迎えたりしながらも、転封されることはなく幕末を迎える。明治維新後は旧大名として当主の氏恭が華族に列せられ子爵となった。その後、後北条家当主の座を継いだ息子の雋八は創価学会の推薦を受けて参議院議員となり、公明党結成に参加した。その甥(氏恭の孫)の浩も公明党の参議院議員を務めた後、創価学会の第4代会長となった。
- 北条氏康の娘である早川殿は今川氏真との間に娘をもうけ、その子孫からは吉良義央(上野介)が出た。義央の血筋は米沢藩上杉氏に受け継がれ、現当主の上杉邦憲やその長男の裕憲は氏康の子孫である。
- 傍系の北条綱成の子孫で、鎌倉衆を束ねていた氏勝は、小田原征伐のときに徳川家康に降伏、以後はその家臣として仕え、下総岩富藩を立藩した。関ヶ原の合戦の後、岩富藩は1万石の譜代大名として存続。氏勝は養子として保科氏から氏重を迎えた。氏重はその後、下野富田藩 → 遠江久野藩 → 下総関宿藩 → 駿河田中藩 → 遠江掛川藩と移封され、3万石を領するようになるが、無嗣廃絶となる。氏重には女子が5人いたが、四女の子に後に名奉行として謳われた大岡忠相がいる。
- 氏勝の甥にあたる氏長は幕臣として500石で登用された後、大目付となり、2,000石を超える大身旗本となる。子孫も功績を重ね最終的に3,400石余の旗本として存続した。
- 氏直の弟・直重は、後に千葉邦胤の養子となって千葉直重を名乗り、阿波の蜂須賀氏に仕官した。その後苗字を大石 → 伊勢 → と改めながらも幕末まで続いた。
- 北条氏忠の娘・姫路は毛利輝元に預けられた後、輝元の家臣の出羽元盛の次男が婿入して北条就之と名乗った。この家系は江戸時代を通じて長門萩藩士として存続し、幕末には大坂留守居役北条瀬兵衛(伊勢氏華)・幕府咸臨丸に乗り組んで訪米した北条源蔵(伊勢煥)の兄弟を出した。
その他の旧家臣団の多くは徳川氏に引き継がれ、関東直領の経営を支えたほか、各大名家にも多くの人物を出した。
系譜[編集]
凡例 - 実線は実子、点線は養子、太字は当主
- 狭山藩主家
氏盛1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏信2 | 氏利 | 氏重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏宗3 | 氏治 | 氏清 | 氏澄 | 氏朝 | 氏成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏治4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏朝5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏貞6 | 民部 | 氏副 | 氏従 | 氏比 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏彦7 | 正喬 | 氏格 | 恭順 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏昉8 | 氏幹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏喬9 | 氏迪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏久10 | 氏燕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏燕11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏恭12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な一族[編集]
数字は当主継承順位
- 伊勢宗瑞(北条早雲)【一】
- 北条氏綱【二】 - 宗瑞長男
- 北条氏時 - 宗瑞次男
- 北条氏広(葛山氏広) - 宗瑞三男
- 北条幻庵 - 宗瑞四男
- 北条綱高 - 氏綱養子(妻は宗瑞娘)
- 北条綱成 - 氏綱(または為昌)婿養子(玉縄北条家)
- 北条為昌 - 氏綱三男
- 北条氏尭 - 氏綱四男
- 北条氏康【三】 - 氏綱長男
- 北条氏政【四】 - 氏康次男(長男夭折のため長嫡子)
- 北条氏照(大石氏照) - 氏康三男(大石氏を継承)
- 北条氏邦(藤田氏邦) - 氏康四男(藤田氏を継承)
- 北条氏規 - 氏康五男
- 北条氏忠(佐野氏忠) - 氏康六男(佐野氏を継承)
- 北条三郎(上杉景虎) - 氏康八男(上杉家へ養子)
- 北条氏光 - 氏康九男
- 北条氏直【五】 - 氏政次男(長男夭折のため長嫡子)
- 太田源五郎(実名不詳) - 氏政三男(武蔵太田氏を継承)
- 北条氏房(太田氏房) - 氏政四男(源五郎を継承)
- 千葉直重(北条直重) - 氏政五男(下総千葉氏を継承)
- 北条直定(氏定) - 氏政六男
- 北条氏繁 - 綱成長男
- 北条氏舜 - 氏繁長男
- 北条氏勝 - 氏繁次男
- 北条氏成(直重) - 氏繁三男
- 千葉直胤(北条直胤) - 氏繁四男(武蔵千葉氏を継承)
- 北条繁広 - 氏繁五男
主要家臣[編集]
御家中衆 御馬廻衆 足軽衆 忍者
水軍 |
伊豆衆 小田原衆 三崎衆
玉縄衆 津久井衆 |
小机衆 江戸衆 江戸衆←伊豆衆 滝山衆 松山衆 鉢形衆 |
影響下 |
後北条氏の城[編集]
- 居城
- 主な支城
家臣団[編集]
カッコ内は人数
- 江戸衆(103)
- 小田原衆(34)
- 御馬廻衆(94)
- 御家門方(17)
- 玉縄衆(18)
- 他国衆(28)(千葉氏作倉衆)
- 小机衆(29)
- 伊豆衆(29)
- 松山衆(15)
- 三浦衆(32)
- 諸足軽衆(20)
- 津久井衆(57)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 大塚.
- ^ 黒田 2005, p. [要ページ番号].
- ^ 北条早雲史跡活用研究会 2000, p. [要ページ番号].
- ^ 黒田 2012, pp. 72-75.
- ^ 黒田 2013, pp. 16-17, §. 伊勢宗瑞論.
- ^ 黒田 2016, pp. 8-12, §. 北条氏綱論.
- ^ 佐々木 2008, p. [要ページ番号], §. 相模府中小田原の構造.
- ^ 佐脇 1997, p. [要ページ番号], §. 北条氏綱と北条改姓.
- ^ 黒田 2016, pp. 16-19, §. 北条氏綱論.
- ^ 斎藤 2005, p. [要ページ番号].
- ^ 黒田 2005, p. 212.
参考文献[編集]
- 大塚勲 『今川義元 ー 史料による年譜的考察』 [要文献特定詳細情報]。
- 黒田基樹 『戦国 北条一族』 新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X。
- 黒田基樹、黒田基樹編 『戦国北条氏五代』 戒光祥出版〈中世武士選書 8〉、2012年。ISBN 9784864030564。
- 黒田基樹 「伊勢宗瑞論」、黒田基樹編 『伊勢宗瑞』 戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻〉、2013年。ISBN 978-4-86403-071-7。
- 黒田基樹 「北条氏綱論」、黒田基樹編 『北条氏綱』 戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二一巻〉、2016年、8-12頁。ISBN 978-4-86403-200-1。
- 斎藤慎一 『戦国時代の終焉 : 「北条の夢」と秀吉の天下統一』 中央公論新社〈中公新書 1809〉、2005年。ISBN 4121018095。
- 佐々木健策 「相模府中小田原の構造」、浅野晴樹; 齋藤慎一編 『後北条氏』 高志書店〈中世東国の世界 3〉、2008年。ISBN 978-4-86215-042-4。
- 佐脇栄智 「北条氏綱と北条改姓」 『後北条氏と領国経営』 吉川弘文館、1997年。ISBN 4642027548。
- 下山治久編 『後北条氏家臣団人名辞典』 東京堂出版、2006年。
- 北条早雲史跡活用研究会編 『奔る雲のごとく : 今よみがえる北条早雲』 北条早雲フォーラム実行委員会、2000年1月。 NCID BA47285214。
- 盛本昌広「間宮氏由緒の形成」『六浦文化研究』10号、六浦文化研究所、2001年。
- 横浜市歴史博物館編 『蒔田の吉良氏』 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団、2014年。